社会人学生の遅れてきた学習意欲

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台湾中部紀行3日目 鹿港―まとまる範囲が極めて小さい民族

2012年05月03日 | 2011台湾中部紀行




(前回の続き)
中山路で古めかしい建物が現役で使われているのを確認したまでが前回までの話。再び鹿港の南側エリアに戻って観光を続けます。

鹿港國小の少し西側に摸乳巷と呼ばれる小道があります。その名の通りすれ違う際に「乳の擦れるほど狭い道」というところで、そんだけ狭いのなら一つこの目で確かめてみようというわけです。





入り口はこちら。見た感じでは民家と民家の間のただの隙間で、地元民だけが近道として使っているような印象ですが、ちゃんと名前もついて看板まで掛かっているのですから「道」なのでしょう。





とにかく狭い。撮影時はタイミングよく誰ともすれ違いませんでしたが、二人がすれ違うだけの幅は確保できてませんね。手に買い物袋なんかを持ってその中に玉子でも入ってたら、すれ違いざまに割れてしまうかもしれません。

ここから20m程のところに摸乳巷に並行して走るちゃんとした幅の道があるので、肝心のショートカット機能に関してはほとんど誰も恩恵を被っていないと思われます。





続きましてはたぶん鹿港で一番有名な観光スポットと思われている九曲巷です。こちらも裏路地であることは摸乳巷と同様ですが、九曲巷はぐねぐね曲がりくねっております。





道というかただの民家の間の隙間なんですよね。近所のオバハンが路端でそうめんなんかをすすってますし、そういうところにわれわれ観光客がワイワイ言いながら日中ひっきりなしに往来を繰り返す、と。お金が落ちるわけでもなくうるさいだけで、住民にとっては相当迷惑な話なんだろなと思います。





この辺の裏道は基本的に煉瓦で舗装されています。建材としても使われていることが多いです。





次は後車巷と呼ばれる道です。こちらは前2つとは違って「まとも」な道です。依然狭い道であることに変わりありませんが、Googleのストリートビューカーが通れるだけの幅はあります。





後車巷には沖縄でよく見かける石敢當がありました。石敢當は福建省発祥の魔除けだそうでして、福建泉州からの移民が多い鹿港なら石敢當があってもおかしくはありません。ただ、沖縄のように頻繁に目にすることはなかったです。




これは隘門と呼ばれる門です。隘門を簡単に言ってしまえば、違う町会同士を隔てるための門です。台湾には主に福建地方からの移民が住んでいたのですが、福建と言えど福州・泉州・厦門・漳州・潮州などなど出身地は皆バラバラです。

鹿港は対岸の泉州出身者が多いと言われていますが、泉州と一口に言っても〇〇村の人間と△△村の人間は敵対していたりして、とにかく村や一族単位の小規模でまとまることはあっても、その小コミュニティの外部とは主に敵対するような関係だったそうです。

その小集団同士が利権などをめぐって血みどろの争いに発展することも少なくなく、それを分類械闘(略して械闘)と言ったそうです。一旦械闘が起こると集落全滅の恐れもあるため、隘門を封鎖することによって敵方の侵入を食い止めたのだそうです。

実際に械闘の結果ディアスポラ状態になって村を追われ、離れたところに新たな村を建てた北港と新港の例がありますが、それはまた嘉義に移動してからの旅行記で書きますね。とにかく隘門こそは小集団でしかまとまれない漢族の漢族たる所以を今に示す貴重な歴史資料と言えるでしょう。





一見平和な裏路地ですがかつては投石や放火など攻城戦のようなえげつないことが行われていたのでしょうか。





その醜い争いが行われていたであろう道のさらに裏には鹿港老街があります。観光客相手の土産物屋が多かったです。





鹿港老街の北には新祖宮がありました。福建移民たちはここの祭事の主導権争いなどを原因にして争ったんでしょうか。隘門を見た後では全てを械闘ベースで考えてしまいます。





中山路を北に歩くと天后宮への参道になっていて出店で賑わっています。





天后宮入口。寺院建築に電光掲示板を取り付けるセンスはさすがです。フォントが明朝体なのがせめてもの救いです。





「くだらないことで同族同士争いませんように、南無」と祈願したときに気づきました。奴らはお互いを「同族」と思っていないから争うのですな。あぁ今も昔も漢族のまとまりのなさは健在です。奴らの「愛国」も「反日」もみんなウソ。

(つづく)


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