京都の盛夏の風物詩、山鉾巡行で有名な八坂神社の祇園祭が、今年はコロナ禍の影響で中止になることが発表されました[1]。
祇園祭は、平安時代に京都で流行した疫病を鎮めなだめるために始められました。このときの疫病は、マラリア、天然痘、インフルエンザ、赤痢などだったとされています[2]。こうした疫病は、水不足や脱水症状になりやすい夏場に多く発生したようです。
内陸部に建都され人口集中した京都では水が貴重であり、まだ琵琶湖疏水などなかった当時、京都は鞍馬・貴船を水源とする鴨川水系が重要視されていたとみられ、この水系に沿って、貴船神社、上賀茂神社・下鴨神社、八坂神社が鎮座しています。
こちらは、琵琶湖から京都へ水を引き込むために建設された琵琶湖疏水の一部、水路閣です。
当時は、現代ほどは医学が発展していなかったこともあり、疫病は怨霊(恨みを現世に残した霊)の祟りと捉えられていて、祇園祭は当初は祇園御霊会と呼ばれていました(ちなみに、当時は落雷による火災は菅原道真公によるものと信じられていました)。その後、怨霊は牛頭天王に代表されるようになったようです[2]。
牛頭天王の話は次の通りです。
昔、牛頭天王(ごずてんのう)が旅をしている時、裕福だった巨旦将来(こたんしょうらい)の家に宿を求めたところ、断られた。困っていたところ、その兄で貧困だった蘇民将来(そみんしょうらい)が粗末な家ながら牛頭天王を泊めた。牛頭天王は、蘇民将来にたいへん感謝するとともに、旅の帰りに巨旦将来の家に災厄をもたらすと言った。ところが、蘇民の娘が巨旦の家に嫁いでいたので、娘だけは救ってほしいと頼んだところ、目印に腰に茅の輪を巻いておけ、と言われた。宣言通り、牛頭天王は旅からの帰路で、巨旦家を滅ぼし、約束通り、蘇民の娘は災厄から免れた。
この言い伝えから、門戸に「蘇民将来之子孫也」(=我が家は蘇民将来の子孫です)と書いた護符や札を貼ることで、災厄を免れるという風習に繋がりました。また、茅の輪くぐりは腰に茅の輪を巻くかわりに、自分の方がくぐってしまう、という大胆な発想の転換があったようです。ちなみに、八坂神社の茅の輪(ちのわ)くぐりは、夏越の祓(なごしのはらえ)として初夏に登場しますが、他の神社などでは年越しの大祓として、年末年始にも活用されています。
こちらは、八坂神社で授与される厄除け粽で、
こちらは、厄除け護符です。
厄除け粽は、山鉾巡行の期間、それぞれの山鉾から授与していただくこともできます。この粽は牛頭天王の目に入るように軒先に掲げることになっていて、京都の街並みでよくみられます。
長刀鉾の粽(全34基の巡行の順番は毎年くじ引きにより決めますが、長刀鉾は「くじ取らず」として必ず先頭です)
函谷鉾(この年の5番)と菊水鉾(17番)の粽
大船鉾(33番)の粽
こちらは、伊勢志摩地方に伝わる、注連縄と陰陽道の霊符様式で書かれた独特な蘇民将来符
この翌年から、山鉾巡行は前祭(さきまつり)と後祭の二日に分けて開催される様式に戻りました(1966年から、一日で執り行われるようになっていました)。
平安時代から遡ること奈良時代には、天然痘(疫病)が流行したり、旱魃・飢饉が続き、こうした社会不安を取り除くために東大寺の大仏が造立されたと推測されています[3]。現在、やはりコロナ禍のために大仏殿には入堂することができなくなっています(離れたところから遥拝することは可能)[4]。
時代を超えて疫病を鎮めるための祈りの場が、新しい疫病の影響を受けざるを得ない状況に陥ってしまっています。
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