湯島聖堂の敷地奥に神農廟が建立されています。神農さん(神農炎帝)は、薬草の神様です。
一年に一度、11月23日(旧暦11月は冬至を含む月)の限られた時間だけ、この柵が開いて、
神農廟を参拝することができます。
涼麻父が到着したとき、すでに6〜7人の方々が並んでいました。
軒丸瓦には「神」
お社は防火仕様の土蔵造りになっていて、内扉が鏝絵で装飾されています。
向かって右側の聯(れん)に「観天地類陰陽萬世被其化」
左側の聯(れん)には「嘗草木酸苦千秋仰其功」
拙訳:天地自然のあらゆるもの、その変化してゆく理を観察し、くる年もくる年も草木の酸っぱい、苦いを舐めて、それらの効能を知る。
神農さんは、ときには体に悪い草木を嘗めてしまい七転八倒しながらも、それを別の薬草で治していたともいわれています。文字通り、辛酸を嘗めたということになるでしょうか。
15分ほど待って、ようやくご対面。
涼麻父は、若い頃、重いアトピーになって西洋薬では手に負えず、漢方の煎じ薬で完治した経験があるので、以前からお礼を伝えたいと思っていました。
神農像は、一般的には薬草を喰む(はむ)姿ですが、和風にカスタマイズされたためか稲穂を掴んでいます。
右手の持物は、赭鞭(しゃべん)と呼ばれる赤色の鞭で、これを用いて草山に分け入り百草を鞭打って味を確かめていたと伝えられています。
扁額に「躋寿殿」(せいじゅでん)
こちらの神農像は、もともと徳川家光の発願によって寛永十四年(1637)に東光院薬園寺(雑司ヶ谷)に薬草園が造られたとき、寛永十七年(1640)に祀られています。その後、薬草園敷地に護国寺を建立する際に、湯島聖堂に遷座されました。ところが、その後、何度も遷座を繰り返していて、神田佐久間町の醫学館(官立医学校)に安置されていた時代があり、この醫学館の前身が「躋寿館」と呼ばれていたという繋がりがあるようです。
「躋」は「のぼらせる」という意味なので、「躋寿」とは(医学の力によって)寿命を伸ばすという意味でしょうか。
お社の裏手から、神田明神の青銅鳥居と随神門が垣間みえました。
毎年11月23日が近づくとそわそわしていましたが、ようやく20年来の願いが叶いました。
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