久しぶりに「ドライカレー」
油でニンニク、生姜をいためておいて、そこへひき肉を投入、
にんじん、たまねぎ、オクラを加え炒めて、クローブ、カルダモン、コリアンダーも入れて、
10分間、加圧調理したら、
カレールーを加えれば、
できあがり
かんたん、かんたん
久しぶりに「ドライカレー」
油でニンニク、生姜をいためておいて、そこへひき肉を投入、
にんじん、たまねぎ、オクラを加え炒めて、クローブ、カルダモン、コリアンダーも入れて、
10分間、加圧調理したら、
カレールーを加えれば、
できあがり
かんたん、かんたん
小竹向原駅、5線も乗り入れている立派な駅ですが、はじめて降り立ちました。
駅から歩いて数分
変形四叉路の先に、
「つげの木庚申」 5基の庚申塔が祀られています。
向かって最も右側に庚申文字塔。「奉待〜」
「元禄十一戊寅天」「十一月〜」(1698年)
その左側に地蔵菩薩。「奉造立庚申供養二世安楽所」。下方に三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)
「延宝八庚申〜」(1680年)
その左側。少し傾いていますが、合掌六臂青面金剛。上方に瑞雲付き日月。右上手に宝剣(鍔のついた刀は珍しいように思います)、左上手に宝輪、両下手に弓矢。足下に邪鬼、足元左右に二鶏。下方に三猿(言わざる、聞かざる、見ざる)
その左に石塔婆型の庚申文字塔。「奉造立庚申供養二世安楽所」「寛文十三癸丑年」「八月十四日」(1673年)
寛文は9月21日に延宝に改元します。
下方に三猿(言わざる、聞かざる、見ざる)、その下に蓮華蓮葉
向きを変えて、最も左側に合掌六臂青面金剛。顔面破毀。上方に瑞雲付き日月。右上手に戟、左上手に宝輪、両下手に弓矢。足下に邪鬼、足元左右に二鶏。下方に三猿(言わざる、聞かざる、見ざる)
「奉新造立石塔一基為二世安楽」
こちらを訪れ、遠景を撮影している途中で、小学生くらいの女児が「ちょっとお願いごとしてくる」といって、お母さんをおいてお参りしていました。
お参りが終わるのを待ってから庚申塔の撮影をしていると、今度は別の男児がお母さんに「ここはどくだみが咲いてるんだよ」と説明しながら中に入ってきて「えーっと、はちがつぅ、・・・」と刻字を読んでいました。
大人よりも子どもたちに人気のある庚申塚のようです。
八千代市上高野に立派な梵天塚と庚申塚があります。
千葉県は出羽三山信仰が比較的色濃く残っていて、登拝を契機として記念碑が建立されます。この写真の3基の記念碑には、それぞれ、昭和50年、昭和59年、平成24年(1975、1984、2012)の登拝を記念して建立されたことが刻字されています。
梵天というのは、棒の先端に赤、青、緑、白色等の色紙を付け、そこに竹串様のものを数本差し込んだものです。こちらでは、赤、青、緑が各1本、白が3本の計6本ですが、地域によって本数や色にはバリエーションがあるようです。梵天を取り囲むように糸が張られており、これはおそらく結界を張っているのだと考えられます。
梵天塚の隣に、12基の石塔が並んでおり、そのうち、10基が庚申塔です。
奥のフェンスに沿って。
まずは手前から。
庚申文字塔「大青面金剛」。笠付き、上方に青面金剛の梵字ウーン、下方に三猿
その奥に「南無観世音」「寛政元酉年」「十一月十八日」(1789年) ←フランス革命の年
上方の梵字はキリーク(阿弥陀如来)を中心として、脇侍はサ(観音菩薩)とサク(勢至菩薩)で、阿弥陀三尊を表しており、こちらは観音供養塔と思われます。
その奥に庚申文字塔。「奉拝十社庚申塔大願成就」「万延元庚申年」「十一月吉日」(1860年)
10か所の庚申塔を巡った記念ということでしょう。これは次第に、1か所より10か所、10か所よりより多くの庚申塔を巡ることによって高い功徳が得られると考えられるようになる途中経過です。さらに、その後は、合理化の波で、1か所で庚申塔を1基より10基、10基より100基建立するスタイルへと変容してゆきます。最終的には、1基の庚申塔に多数の「庚申」を刻む例が出現します。最大数と考えられる庚申塔としては、「千庚申」と刻まれた庚申塔が栃木県にあります。
その奥の庚申文字塔は、比較的新しく「明治廿九年」「四月三日建」(1896年)
さらにまた奥。庚申文字塔。上方に瑞雲付き日月、梵字は青面金剛のウーン。「文政九戌年」「十一月吉日」(1826年)
「上高野村講中」
奥のフェンスに沿って、向かって右側から。
庚申文字塔「青面金剛」、下方に三猿
その左も庚申文字塔「庚申塔」。上方に瑞雲付き日月。
その左。合掌六臂青面金剛。上方に瑞雲付き日月。右上手に戟、左上手に宝輪、両下手に弓矢。足下に邪鬼、下方に三猿。
その左に庚申文字塔「青面金剛王」。上方に瑞雲付き日月、こちらの梵字もウーン(青面金剛)。基台に三猿。
その左。合掌六臂青面金剛。笠付き、上方に瑞雲付き日月。蛇を頂く。右上手に戟、左上手に宝輪、両下手に弓矢。足下に踏まれる邪鬼が正面向き(腕立て伏せ状態)なのことが珍しい。下方に三猿。
その左も、笠付き、合掌六臂青面金剛。上方に瑞雲付き日月。右上手に戟、左上手に宝輪、両下手に弓矢。日月と持物は線刻。足下に邪鬼、下方に三猿。
「□元文五庚申年」「十月廿三日」(1740年)
最も左側は馬頭観音塔「馬頭観世音」
特筆すべきは、北側フェンスに取り付けられている藁の蛇。これは「道切り」の一種で、村の境界線を示すもので、同時に疫病避けでもあります。
向かって右側が頭、左側が尻尾です。これはしめ縄の起源とも考えられます。しめ縄も太い方が向かって右です。
太い方が左になっているしめ縄は非常に珍しく、私は、唯一、板橋区の「南町庚申尊」でのみ遭遇したことがあります。何か特別な意味が込められているのかも知れません。
佐倉市上座、ユーカリヶ丘駅から東へ200〜300mの場所に庚申塚があります。
ここは、涼麻とドッグランに行くために100回以上は通っていた道なのに、まったく見えていませんでした。
少なくとも10基の庚申塔が祀られています。
向かって右から。
庚申文字塔。上方に瑞雲付き日月(逆様)
「天保十三年□五月日」(1842年)
右から2番目も文字塔。「天保十一子十月吉日」(1840年)
右から3番目は、六臂青面金剛。彫りが明瞭に残っています。頭に蛇を頂く三眼。右上手に戟、左上手に宝輪、両下手に弓矢。右本手に宝剣、左本手にショケラ。「天保八酉年十二月立」(1837年)
足下の邪鬼は、通例ではうつ伏せの状態で踏まれていますが、こちらは仰向けで、他に類例を見ないレアな邪鬼です。
4番目は、庚申文字塔だと思われますが、刻字が削り取られてしまっています。基台の前に鳥居。「天保三辰十一月十一日」(1832年)
5番目は立派な青面金剛像なのですが、向こう側に倒れています。
6番目の庚申文字塔は、右側に転倒。
7番目は庚申文字塔。「天保五午年十月」(1834年)
8番目は三猿が刻まれた基台のみが残っています。
8基の隊列の前に2基の庚申文字塔があります。
そのさらに手前に2基の石塔があるのですが、すっかり茂みに覆われているため主尊を確認することは叶いません。かろうじて右側の石塔の右側面に「慶應元丑七〜」(1865年)
素晴らしい庚申塔が集められた庚申塚ではありますが、これらを維持していくことの難しさを垣間見た感じがします。
沼津市戸田、「道の駅くるら戸田」から静岡県道18号修善寺戸田線を東へ約500m、大川の支流に架かる大久保橋の、
左岸側の袂に庚申塔が建立されています。
庚申文字塔、中央に「庚申塔」
石材が比較的新しく見えます。
向かって右側面に「昭和三十六年水害□□移□」と刻字されています。
おそらく、昭和36年6〜7月、大雨により全国44都府県に河川氾濫や土砂災害を引き起こした「昭和36年梅雨前線豪雨」(通称「三六(さぶろく)災害」によって、このあたりも被災し、再建されたのだと思われます。
伊豆下田にある保月山龍門院
バス停「庚申堂前」から登る苔むした石段の途中に石塔群があります。
石段の右手側に2基の庚申塔。
向かって右側は庚申文字塔「青面金剛明王」
その左も文字塔「青面金剛明王」
地蔵菩薩や如意輪観音も並んで祀られています。
さらに上側に、比較的新しそうな文字塔「庚申尊」
石段の左手側には、六地蔵が祀られており、
それらに並んで、笠つき庚申文字塔「青面金剛明王菩薩」
仏尊の尊称は、「如来」「菩薩」「明王」「天」のいずれかとされていますが、庚申信仰は民間信仰なので自由度が高いことが表れています。
あるいは、56億7千万年後に如来になる予定の「弥勒菩薩」の将来像として「弥勒如来」が祀られている例(興福寺北円堂)がありますので、そのような考えに沿って青面金剛が明王から菩薩に昇格するというイメージを抱いていたものかも知れません。
上方に日月。「宝永五戊子年」「二月十三日」(1708年)
石段を登っていくと結界を示す石造の冠木門(かぶきもん)があり、
不動堂と庚申堂が建立されている境内に至ります。