「硝子と鉛の火の粉」(2005)
このタイトル、「ガラスとなまりのひのこ」かと思いきや、「しょうこと なまりのこ」と読みます。
多部ちゃんは「紅(べに)」という名の魔女、おそらく主人公の女子中学生「硝子(しょうこ)」と同い年で14歳くらい。紅の父親は「遠くの海で海賊」をしていて、母親は「魔女裁判にかけられた」と硝子に自己紹介しています。
主人公は、テストで赤点を取る級友たちがいる中で、当たり前のように100点を取る一方で、「当時の私は、厭世主義の方向にあり、虚無的、退廃的思考を好む趣がありました」と話します。
そこへ、天から降ってくる「紅」
かじると自由になれるリンゴをかじっています。もちろん、これはアダムとイブのリンゴということで、多部ちゃんの名前「紅」もリンゴからの由来なのでしょう(西欧のリンゴは赤とは限らず青リンゴもありますが・・・)。
硝子は真面目で優秀ですが、型通りで秩序を好む学校の体制に退屈さ感じるとともに疑問を抱いています。そんな硝子は、学校の非常勤理科教師と紅の精神的自由に感化されていきます。
学校の化学では教えない錬金術的な反応を実践している理科教師と、それを横で目を輝かせて見守る紅。
体制側の担任教師は自分たちを「こちら側」、紅を「あっち側」「向こう側」と呼び、「山へ帰れ」と迫ります。あちらの自由がこちらの秩序に影響を与えることを極度におそれています。
吹く風は山にぶつかって上昇気流となり、上空で雲を生み鉛色の雲となり、雨になって地上に降り注ぎます。紅は、その風に乗って、山から鉛色の雲を経由して地上に降り立ちました。理科教師の「嵐が来るぞ」という言葉は、実際の風雨のことではなく、紅の登場が嵐の前触れだという意味だと解されます。
おそらく「硝子」は「硝酸」の象徴であり、鉛と反応することで硝酸鉛を生成します。硝酸鉛は爆薬の原料なので火の粉を生みます。つまり、「硝子」と鉛の子である「紅」が出会うことで爆発を招くことになります。
化学や薬学は、もともと錬金術や薬草に端を発し、その中から科学合理的に有効性が確認されたものだけが発展してきたものです。錬金術や薬草学は、すべてが有効であるわけではない一方で、有効であるにも関わらず当時の科学の力ではその有効性が確認されていなかっただけのものもあります。
「こちら側=現体系」と「あちら側=新技術」は常に行き来することで世の中は前進できるわけですが、それにも関わらず、現体系側は自分たちの常識を壊されることや利権を失うことを怖れ、自分たちだけが生き残ろうとするために新技術側を排除しようとする。そういった矮小で排他的な態度への痛烈な批判にもなっています。
硝子は、どんどん紅の魅力に惹かれ、
二人は共鳴していきます。
しかし、現体系側の力は強く、紅は山へ帰らねばならなくなります。老父デュラに連れられて学校を去っていく紅。
ここが、山にある紅の棲家のようです。現代の化学プラントに見せかけた錬金術工場という感じでしょうかね。
ここで、紅は、また大釡をかき混ぜる静かな日々を送ることになります。
最後の硝子の台詞「本当に自由になりたかったのは紅の方だったのかも知れない」
現体系側からすれば自由なはずの紅にしても、魔女の錬金術を受け継いでいかねばならない宿命から逃れて普通の中学生になりたくてリンゴをかじったのでしょう。
紅に与えられた数日の自由は「ローマの休日」。ストーリーのおもしろさは「真夜中からとびうつれ」(2011)と並ぶ秀作ではないかと思います。