幼少期からの記憶を、なるべく正確にまとめることにしました。(昭和40年3月生、新潟)
昔の思い出は、宝ものです。いずれ、忘れかねないので、残しておくのです。
私は2才からの記憶が、おぼろげにあるのでが・・・・
2才
家の2階の、父母の部屋にいたころ。
仰向けで上を見ると、大き目の、おもちゃの風車がぐるぐると回っていた。
綺麗な色で、面白がって見ていた。
お盆に、東京の親戚の叔母達が里帰りしてたとき。
2階の父母の部屋で、みあげに持って来たバナナを一人で食べていた。
そして食べ過ぎて、全部吐いてしまった。
叔母達が騒いでいた気もする。それ以来、バナナ嫌いになった。
夏頃、タケ婆が家の横の池で、私のおしめを洗っていた。
私は見に行って、そして、じっと見ていた。
タケ婆は言った「こんげん、でっけえのが出たいや」と。
にこにこしながら、見せていた。
タケ婆から、便所で尻ふきを習った気がする。
冬、タケ婆と玄関先で、積もった雪の上に空のミカン箱を置き、二人してそわっていた。
3才
当時、豚を納屋で飼っていて、その場所を面白がっていた。
タケ婆と祖母がいて、呼び方を思い付き、みんなが真似た。
タケ婆は、ちっちぇいばあちゃんから、ちい婆になり。
祖母は、でっけえばあちゃんから、ばあちゃんになった。
テレビ、巨人の星を見る。(昭和43年4月6日~、18~18:30)
テレビ、ゲゲゲの鬼太郎を見る。(昭和43年5月28日~8月20日、18~18:30)
中の間で、2才違いの弟が足に抱き付いて来たので振り払った。
泣き出したので、タケ婆が「おいおい」と言っていた。
後年、タケ婆は言っていた「泣かせていたいや」と。
6月2日(日)の未明、世にも不可解なことがあった。
1階の、祖父母の部屋で寝ていたとき、3人で目を覚まし異様な雰囲気に包まれた。
生臭い、妙な臭いがあった。祖父が何事かと毛布をめくった、そしたら、なんと。
飼っていた子猫3匹が、無惨な亡骸となって横たわっていた。
2匹は首落ち、1匹は胴体真っ二つ、血はあまり出ていなかった。
祖父は言った「何かの前触れで、ねえか」と。
3人一同、言葉を失い、ただ見ていた。
その時、2階からの階段を、親である雌猫がカタンコトンと降りて来た。
その音も、はっきりと覚えている。
後年、祖父は言っていた「お前も憶えているけ」と。事実です。
6月2日(日)、夕方、弟が怪死した。
はいはいしてる弟が、日暮れ後、敷地内の離れた所にある水場に、近づいて行った。
私は近くを通っていて、その、はいはいしてる弟を見ている。
右手に、タイヤの取れたおもちゃの赤い消防車を押して遊んでいた。
私は思った(何、子守りしてるんだ・・・・)と。
その先には、蓋の閉めてない水場があった。まさか、そうとは。
私は、抱きかえて部屋に入ることもなく、一人で戻った。
・・・・その直後、弟は溺死した。私は罪を負った。
もし、私が連れ帰っていたら、未然に防げた。
または、二人もろとも、落ちていたとも思える。
それに、蓋を閉め忘れるようなことは、まず、ない。
あの日に限って、何故、開いていたのか、不思議で仕様がない。
タケ婆は後で言っていた「ちよっと、目離した隙に、いなくなったいや」と。
あんなに注意深いタケ婆でも、気付かない間に、弟は庭に出ていた。
はいはいなのに、すぐには行けるような近さの水場ではない。
今の私には、因果応報として、未明の怪奇現象と共にわからなくはない。
一連の恐ろしい繋がりに、慄然とする。
そこ事もあって、翌月、母が離婚し生き別れに。
私は、堪え過ぎたのか、母の記憶だけが抜け落ちている。記憶のロック。
ただ、オブラートな面影は、ほんの微かに残っている気はする。
タケ婆が2階の部屋で、食べ物をかみ砕いて、口移しに与えてくれた。
その口移しは、成長と共に抵抗を感じ、タケ婆の口に戻すようになった。
口移しの愛情表現は、お仕舞いに。
テレビ、妖怪人間ベム見る。(昭和43年10月17日~4月11日、17:30~18)
ベム、ベラ、ベロと怖いアニメだった。
家の前で、スキーで遊んでいた。
4才
テレビで、いしだあゆみがブルー・ライト・ヨコハマを歌っていた。
夕方、白黒テレビの前で、体育座りになって一人見ていた。
生き別れた母のことで、こう思っていた(こんな、かあちゃんがいい・・・・)と。
本家に、親に連れられて行った。
タケ婆の実家に、二人で行った。
テレビで、いいコマーシャルが流れていて、お気に入りに。
モクセイの花(ふるさと篇)、日本生命。
父から危害を受ける。
隣町の水力発電所に連れて行かれ、柵の中、危ない所に立たせ写真を撮っていた。
父は言った「もっと下がれいや、もっと下がれいや」と。
私はその時、少しだけ、言われた通りに後ずさりした。
怖かった。危なかった。
後日、また、水力発電所に連れて行かれた。
私は、また来たと思った。その時、見覚えがあったので、少し微笑んでた。
父は再婚するのに、私が邪魔だった。理解は出来る。
父から、車で山奥に連れられて行った。
牛乳瓶の空き瓶を拾い、それだけで帰って来た。数回あり。
何か別の意図があったのだろうと、今はそう思う。
テレビで、アポロ月面着陸を見る。(7月20日、日)
夏ごろ、祖父の仕事場である裏山に一人で歩いて行った。
「じいちゃんー、じいちゃん-」と大きな声で呼び、祖父が山から下りて来た。
祖父は、何だかと思っていた。今思うと、私の旅の原点だった。
秋ごろ、祖父母の部屋で、祖母が絵本を読み聞かせていた。
三匹の子豚で、面白がっていた。文学好きの原点か。
祖父の仕事場である裏山に遊びに行った。
山の頂付近で、車の音がして驚いた。
この先に道があり、世界が広がった気がした。
タケ婆と納屋に行き、梯子から落ちて頭を打つ。
私は心配させまいと、また、丈夫な子だと思わせるように、泣かずに笑っていた。
タケ婆は言っていた「あんげんとこから落ちて、何ともなかったいや」と。
同い年の昭治君が、保育所に入ったので羨んでいた。
テレビで、黒ネコのタンゴが流れていた。(10月~)
テレビ、タイガーマスクを見る。(昭和44年10月23日~、18~18:30)
孤児という感じが私もして、寂しく見ていた。
テレビ、みなしごハッジを見る。(昭和45年1月~、18~18:30)
テレビ、サザエさん見る。(昭和45年1月~、18~18:30)
テレビ、サンダーバード見る。(昭和45年1月13日~、18~18:30)
5才
春、祖父の仕事場である裏山に一人で行き、フキノトウを取った。
根から掘って取ったので、やたら長かった。
祖父は言った「フキノトウは根から掘るもんでねえ」と。
私は面白がって、そうした。
祖父がお守り袋を作り、私の首にいつも掛けていた。
洗えないので、かなり汚れていた。
保育所に入所する。
同い年の正治君に1年遅れとなっが、ほっとした。
お昼寝時間に、保母さんが見まわって来ると、見上げて喜んでいた。
テレビ、ウルトラQを見る。(昭和45年4月6日~、17~17:30)
第15話のカネゴンを憶えている。(昭和45年7月13日、月)
夕方、一人で見ていて、お金を食うのが面白かった。
大阪万博に祖母と行く。(3月~9月)
信越本線回りで行き、トンネルに入るとき煙が入って来て、笑いながら窓を閉めた。
太陽の塔を見た。
祖母と上京して、親戚宅に泊まる。
上野動物園、東京タワーに行く。
近所の小学生が私の頭に学生帽を被せ、頭が大きいと面白がっていた。
東京の叔母達と打ち合わせて、新潟と東京の中間の水上温泉に行く。
温泉ホテルで、ダンスショーを最前席で見る。
司会者は言った「この子が一番、一生懸命に見ていましたと」と。
私は照れて笑った。かなり、ませていた。
後日、叔母は言っていた「恥ずかしかったいや」と。
便所が離れていて、夜に行くのが怖くて、タケ婆に付いて来てもらっていた。
私は駆け足で行き、タケ婆は笑っていた。
夏、祖父の仕事場である裏山に行き、ハコクワガタのオスを捕まえた。
毛が光っていて、強くて、かっこ良かった。
保育所運動会、父、タケ婆が見に来た。
障害物競走のとき、私は平均台を何回も落ち、そのたびに、また最初からやっていた。
後でタケ婆は笑って言った「行けばいいのに、何回もやっていたいや」と。
近所の同い年の女の子と、お医者さんをごっこをする。
その子の家の前庭でやり、私の番の後、その子の直前に、
その子の一つ上の兄が小学校から帰って来てお仕舞いに。
そこ子は言った「政則が帰って来た・・・・」と。がっくりした。
夕方、家の生け簀の近くで、近所の仕事帰りの女性に声をかける。
かなり、ひんしゅくをかった。
かあちゃんの、いない訳を聞く「なんで、かあちゃん、いねえの?」
・・・・誰も答えなかった。
食事の時の私の椀は、青いプラスチックだった。
タケ婆から、魚の食べ方を教わる。
タケ婆「魚の食べ方、教えるいや、こうするんど」と。
箸で、身をほぐしてくれた。
テレビの天気予報で、日本海の地図が出ると、私は言った「昔、ここは日本だっんだよね」と。
「こっちが海で、こっが陸だっんだよね」と。
当時から地図に興味があった。夕飯のとき、何回か。
地域の有名な雪祭りを、祖母と見に出かける。
祖母は言った「学校に入るようになると、行けないから」と。
テレビ、ウルトラマンを見る。(昭和45年~)
テレビ、ウルトラセブンを見る。(昭和46年3月6日~、17:30~18)
大相撲中継で、大鵬関の晩年を見る。色の白い大きな力士だった。
竹次郎爺が老衰で寝込んだ。タケ婆が介護していた。
小便を取るとき、タケ婆が尿瓶をあてて「えかや、えかや」と言っていた。
私が竹次郎爺の寝込んでいる部屋を通ると、ハサミを手にして、威嚇していた。
笑ったりして、悪かった。
6才
小学校入学日、父が写真を撮る。(白黒)
私は緊張して、直立不動で手先をピンと伸ばしていた。
学校給食で、皿を舐めるので笑われた。貧乏だった。
テレビ、帰ってきたウルトラマンを見る。(昭和46年4月2日~、
19~19:30)
ランドセルがみんなと違う素材で、ざらざらしてて嫌だった。
同級生から、違いを言われる。
学校の音楽室に、バッハ、ヘンデル、ベートーヴェン、モーツァルトの肖像画が飾ってあった。
西洋への興味が出て来た。
地理に興味をし出して、国名と首都を憶えて、みんなの前で言って得意だった。
近所の家の脇でのこと。
世界、と言う漢字を憶えて嬉しかった。
地理から歴史へと、興味が広がっていった。
タケ婆が午後のおやつに、即席メンを作ってくれる。
煮過ぎていたが、喜んで二人で食べた。
同級生が、家に遊びに来る。
竹治郎爺が寝込んでる部屋を見せる。ハサミを手にして、威嚇していた。
悪いことをやった。
竹次郎爺が老衰で亡くなる。(昭和46年8月6日、金)
昼間、寝込んでいる部屋を通ったとき、目を開いたまま、仰向けになっていた。
様子が違うので近付いてみると亡くなっていた。
すぐに、風呂場で洗濯をしていたタケ婆に伝えに行った。
私は言った「じいちゃんが死んだ」と。
タケ婆は「ほっか」と言った。
二人して亡骸に向かい合った、タケ婆が枕元に正座して、開いてた目を塞いだ。
そして両手を胸の上で組み合わせていた。
私は、タケ婆の右脇に座り、じっとしていた。
竹次郎爺の葬式で、菩提寺に行ったときの廊下を憶えている。
私の寝てる部屋が元に戻る。
竹治郎爺が老衰で介護状態になっので、一時期、奥の部屋に移っていた。
また、元の手前の部屋に戻った。
父は言った「今度から、こっちで寝るんど」と。
私は、にこにこしていた。
継ぎはぎだらけの、長過ぎる綿入れを着ていた。
同級生の昭治君のことを、「そうさん」と言っていた。(昭治さんのつもり)
そこ子は言った「そうさんじゃ、ねえや」と。
その場にいた勝則君は、笑っていた。
家族が敬老会の、おり箱と言うご馳走を食べずに持ち帰り、私に与えてた。
私は毎年、喜んで食べていた。
夏の体育のとき、校内プールで泳ぐ。
担任の女性教師が、抱きかかえて教えていた。
初めは泳げなくて怖かった。
祖母が人づてに、担任の先生の私への評価を聞き、叔母達に話す。
冬の集団登校のとき、6年生から杉の木を蹴れと言われ、しぶしぶ蹴った。
思った通り積もってた雪が、どばっーと落ちて来た。
のぶと言う、その子は笑っていた。先輩達も笑っていた。
私と正治君は、それを何回かやらされた。
数年後、正治君と懐かしんで話す。
テレビ、横井軍曹グァム島から帰還を見る。(2月2日、水)
7才
父の後妻が嫁いで来て、初日と次の日と、連続してけんちん汁を作る。
その時、私は喜んでいたが、3日目から、とたんに料理を作らなくなった。
敬老会の、おり箱と言うご馳走を、後妻が食べるようになった。
父は言った「かあちゃんにやるんど」と。
後妻は、もくもくと食べていた。
食べずに持ち帰って来たタケ婆は、それをじっと見ていた。
私は当てが外れ、がっくりして、苦笑いしていた。
後妻から2階の部屋で、二人きりの時に言われた。
後妻「お前なんか、育てる気ねえすけ、いい子になんねばなんねど」と。
私 「・・・・」
ある日、私は後妻に言った。
私 「後から来たくせに」と。後妻は、きっと睨んだ。
夏、後妻は長い髪を扇風機で乾かしていた。
私は気味悪く見ていた。
同級生の正治君いじめられる。家の前で悔しがる。
正治君が家の玄関まで来たので、そこに座っていたタケ婆に助けを求める。
タケ婆にしがみついた時、タケ婆は歯ぎしりしながら睨み付け、追い返した。
正治君が、川崎の鶴見に家族と行った話をしていた。
正治君が、虹に登った話をした。
虹の出ている所を、跨いだのだろう。
後妻が臨月になり、台所で吐いた。
後妻に子が出来る。
タケ婆「こんげん早く、産みやがって」と言っていた。
夕飯の時、後妻が意味深なことを話す。
後妻「こっちが家の子だいや、こっちが家の子だいや、危うく換えられるところだったいや」
と言っていた。
病院で生まれた弟を、家に連れ帰るときの経緯。
父は弟を、ある事で、いぶかっていた。
父「不思議だ、不思議だ」と言っていた。
私は、やっぱりそうかと思っていた。
冬、赤ちゃんの弟を背負い、庭でスキーをする。
弟は、ばたばたと動いていた。
続く・・・・
昔の思い出は、宝ものです。いずれ、忘れかねないので、残しておくのです。
私は2才からの記憶が、おぼろげにあるのでが・・・・
2才
家の2階の、父母の部屋にいたころ。
仰向けで上を見ると、大き目の、おもちゃの風車がぐるぐると回っていた。
綺麗な色で、面白がって見ていた。
お盆に、東京の親戚の叔母達が里帰りしてたとき。
2階の父母の部屋で、みあげに持って来たバナナを一人で食べていた。
そして食べ過ぎて、全部吐いてしまった。
叔母達が騒いでいた気もする。それ以来、バナナ嫌いになった。
夏頃、タケ婆が家の横の池で、私のおしめを洗っていた。
私は見に行って、そして、じっと見ていた。
タケ婆は言った「こんげん、でっけえのが出たいや」と。
にこにこしながら、見せていた。
タケ婆から、便所で尻ふきを習った気がする。
冬、タケ婆と玄関先で、積もった雪の上に空のミカン箱を置き、二人してそわっていた。
3才
当時、豚を納屋で飼っていて、その場所を面白がっていた。
タケ婆と祖母がいて、呼び方を思い付き、みんなが真似た。
タケ婆は、ちっちぇいばあちゃんから、ちい婆になり。
祖母は、でっけえばあちゃんから、ばあちゃんになった。
テレビ、巨人の星を見る。(昭和43年4月6日~、18~18:30)
テレビ、ゲゲゲの鬼太郎を見る。(昭和43年5月28日~8月20日、18~18:30)
中の間で、2才違いの弟が足に抱き付いて来たので振り払った。
泣き出したので、タケ婆が「おいおい」と言っていた。
後年、タケ婆は言っていた「泣かせていたいや」と。
6月2日(日)の未明、世にも不可解なことがあった。
1階の、祖父母の部屋で寝ていたとき、3人で目を覚まし異様な雰囲気に包まれた。
生臭い、妙な臭いがあった。祖父が何事かと毛布をめくった、そしたら、なんと。
飼っていた子猫3匹が、無惨な亡骸となって横たわっていた。
2匹は首落ち、1匹は胴体真っ二つ、血はあまり出ていなかった。
祖父は言った「何かの前触れで、ねえか」と。
3人一同、言葉を失い、ただ見ていた。
その時、2階からの階段を、親である雌猫がカタンコトンと降りて来た。
その音も、はっきりと覚えている。
後年、祖父は言っていた「お前も憶えているけ」と。事実です。
6月2日(日)、夕方、弟が怪死した。
はいはいしてる弟が、日暮れ後、敷地内の離れた所にある水場に、近づいて行った。
私は近くを通っていて、その、はいはいしてる弟を見ている。
右手に、タイヤの取れたおもちゃの赤い消防車を押して遊んでいた。
私は思った(何、子守りしてるんだ・・・・)と。
その先には、蓋の閉めてない水場があった。まさか、そうとは。
私は、抱きかえて部屋に入ることもなく、一人で戻った。
・・・・その直後、弟は溺死した。私は罪を負った。
もし、私が連れ帰っていたら、未然に防げた。
または、二人もろとも、落ちていたとも思える。
それに、蓋を閉め忘れるようなことは、まず、ない。
あの日に限って、何故、開いていたのか、不思議で仕様がない。
タケ婆は後で言っていた「ちよっと、目離した隙に、いなくなったいや」と。
あんなに注意深いタケ婆でも、気付かない間に、弟は庭に出ていた。
はいはいなのに、すぐには行けるような近さの水場ではない。
今の私には、因果応報として、未明の怪奇現象と共にわからなくはない。
一連の恐ろしい繋がりに、慄然とする。
そこ事もあって、翌月、母が離婚し生き別れに。
私は、堪え過ぎたのか、母の記憶だけが抜け落ちている。記憶のロック。
ただ、オブラートな面影は、ほんの微かに残っている気はする。
タケ婆が2階の部屋で、食べ物をかみ砕いて、口移しに与えてくれた。
その口移しは、成長と共に抵抗を感じ、タケ婆の口に戻すようになった。
口移しの愛情表現は、お仕舞いに。
テレビ、妖怪人間ベム見る。(昭和43年10月17日~4月11日、17:30~18)
ベム、ベラ、ベロと怖いアニメだった。
家の前で、スキーで遊んでいた。
4才
テレビで、いしだあゆみがブルー・ライト・ヨコハマを歌っていた。
夕方、白黒テレビの前で、体育座りになって一人見ていた。
生き別れた母のことで、こう思っていた(こんな、かあちゃんがいい・・・・)と。
本家に、親に連れられて行った。
タケ婆の実家に、二人で行った。
テレビで、いいコマーシャルが流れていて、お気に入りに。
モクセイの花(ふるさと篇)、日本生命。
父から危害を受ける。
隣町の水力発電所に連れて行かれ、柵の中、危ない所に立たせ写真を撮っていた。
父は言った「もっと下がれいや、もっと下がれいや」と。
私はその時、少しだけ、言われた通りに後ずさりした。
怖かった。危なかった。
後日、また、水力発電所に連れて行かれた。
私は、また来たと思った。その時、見覚えがあったので、少し微笑んでた。
父は再婚するのに、私が邪魔だった。理解は出来る。
父から、車で山奥に連れられて行った。
牛乳瓶の空き瓶を拾い、それだけで帰って来た。数回あり。
何か別の意図があったのだろうと、今はそう思う。
テレビで、アポロ月面着陸を見る。(7月20日、日)
夏ごろ、祖父の仕事場である裏山に一人で歩いて行った。
「じいちゃんー、じいちゃん-」と大きな声で呼び、祖父が山から下りて来た。
祖父は、何だかと思っていた。今思うと、私の旅の原点だった。
秋ごろ、祖父母の部屋で、祖母が絵本を読み聞かせていた。
三匹の子豚で、面白がっていた。文学好きの原点か。
祖父の仕事場である裏山に遊びに行った。
山の頂付近で、車の音がして驚いた。
この先に道があり、世界が広がった気がした。
タケ婆と納屋に行き、梯子から落ちて頭を打つ。
私は心配させまいと、また、丈夫な子だと思わせるように、泣かずに笑っていた。
タケ婆は言っていた「あんげんとこから落ちて、何ともなかったいや」と。
同い年の昭治君が、保育所に入ったので羨んでいた。
テレビで、黒ネコのタンゴが流れていた。(10月~)
テレビ、タイガーマスクを見る。(昭和44年10月23日~、18~18:30)
孤児という感じが私もして、寂しく見ていた。
テレビ、みなしごハッジを見る。(昭和45年1月~、18~18:30)
テレビ、サザエさん見る。(昭和45年1月~、18~18:30)
テレビ、サンダーバード見る。(昭和45年1月13日~、18~18:30)
5才
春、祖父の仕事場である裏山に一人で行き、フキノトウを取った。
根から掘って取ったので、やたら長かった。
祖父は言った「フキノトウは根から掘るもんでねえ」と。
私は面白がって、そうした。
祖父がお守り袋を作り、私の首にいつも掛けていた。
洗えないので、かなり汚れていた。
保育所に入所する。
同い年の正治君に1年遅れとなっが、ほっとした。
お昼寝時間に、保母さんが見まわって来ると、見上げて喜んでいた。
テレビ、ウルトラQを見る。(昭和45年4月6日~、17~17:30)
第15話のカネゴンを憶えている。(昭和45年7月13日、月)
夕方、一人で見ていて、お金を食うのが面白かった。
大阪万博に祖母と行く。(3月~9月)
信越本線回りで行き、トンネルに入るとき煙が入って来て、笑いながら窓を閉めた。
太陽の塔を見た。
祖母と上京して、親戚宅に泊まる。
上野動物園、東京タワーに行く。
近所の小学生が私の頭に学生帽を被せ、頭が大きいと面白がっていた。
東京の叔母達と打ち合わせて、新潟と東京の中間の水上温泉に行く。
温泉ホテルで、ダンスショーを最前席で見る。
司会者は言った「この子が一番、一生懸命に見ていましたと」と。
私は照れて笑った。かなり、ませていた。
後日、叔母は言っていた「恥ずかしかったいや」と。
便所が離れていて、夜に行くのが怖くて、タケ婆に付いて来てもらっていた。
私は駆け足で行き、タケ婆は笑っていた。
夏、祖父の仕事場である裏山に行き、ハコクワガタのオスを捕まえた。
毛が光っていて、強くて、かっこ良かった。
保育所運動会、父、タケ婆が見に来た。
障害物競走のとき、私は平均台を何回も落ち、そのたびに、また最初からやっていた。
後でタケ婆は笑って言った「行けばいいのに、何回もやっていたいや」と。
近所の同い年の女の子と、お医者さんをごっこをする。
その子の家の前庭でやり、私の番の後、その子の直前に、
その子の一つ上の兄が小学校から帰って来てお仕舞いに。
そこ子は言った「政則が帰って来た・・・・」と。がっくりした。
夕方、家の生け簀の近くで、近所の仕事帰りの女性に声をかける。
かなり、ひんしゅくをかった。
かあちゃんの、いない訳を聞く「なんで、かあちゃん、いねえの?」
・・・・誰も答えなかった。
食事の時の私の椀は、青いプラスチックだった。
タケ婆から、魚の食べ方を教わる。
タケ婆「魚の食べ方、教えるいや、こうするんど」と。
箸で、身をほぐしてくれた。
テレビの天気予報で、日本海の地図が出ると、私は言った「昔、ここは日本だっんだよね」と。
「こっちが海で、こっが陸だっんだよね」と。
当時から地図に興味があった。夕飯のとき、何回か。
地域の有名な雪祭りを、祖母と見に出かける。
祖母は言った「学校に入るようになると、行けないから」と。
テレビ、ウルトラマンを見る。(昭和45年~)
テレビ、ウルトラセブンを見る。(昭和46年3月6日~、17:30~18)
大相撲中継で、大鵬関の晩年を見る。色の白い大きな力士だった。
竹次郎爺が老衰で寝込んだ。タケ婆が介護していた。
小便を取るとき、タケ婆が尿瓶をあてて「えかや、えかや」と言っていた。
私が竹次郎爺の寝込んでいる部屋を通ると、ハサミを手にして、威嚇していた。
笑ったりして、悪かった。
6才
小学校入学日、父が写真を撮る。(白黒)
私は緊張して、直立不動で手先をピンと伸ばしていた。
学校給食で、皿を舐めるので笑われた。貧乏だった。
テレビ、帰ってきたウルトラマンを見る。(昭和46年4月2日~、
19~19:30)
ランドセルがみんなと違う素材で、ざらざらしてて嫌だった。
同級生から、違いを言われる。
学校の音楽室に、バッハ、ヘンデル、ベートーヴェン、モーツァルトの肖像画が飾ってあった。
西洋への興味が出て来た。
地理に興味をし出して、国名と首都を憶えて、みんなの前で言って得意だった。
近所の家の脇でのこと。
世界、と言う漢字を憶えて嬉しかった。
地理から歴史へと、興味が広がっていった。
タケ婆が午後のおやつに、即席メンを作ってくれる。
煮過ぎていたが、喜んで二人で食べた。
同級生が、家に遊びに来る。
竹治郎爺が寝込んでる部屋を見せる。ハサミを手にして、威嚇していた。
悪いことをやった。
竹次郎爺が老衰で亡くなる。(昭和46年8月6日、金)
昼間、寝込んでいる部屋を通ったとき、目を開いたまま、仰向けになっていた。
様子が違うので近付いてみると亡くなっていた。
すぐに、風呂場で洗濯をしていたタケ婆に伝えに行った。
私は言った「じいちゃんが死んだ」と。
タケ婆は「ほっか」と言った。
二人して亡骸に向かい合った、タケ婆が枕元に正座して、開いてた目を塞いだ。
そして両手を胸の上で組み合わせていた。
私は、タケ婆の右脇に座り、じっとしていた。
竹次郎爺の葬式で、菩提寺に行ったときの廊下を憶えている。
私の寝てる部屋が元に戻る。
竹治郎爺が老衰で介護状態になっので、一時期、奥の部屋に移っていた。
また、元の手前の部屋に戻った。
父は言った「今度から、こっちで寝るんど」と。
私は、にこにこしていた。
継ぎはぎだらけの、長過ぎる綿入れを着ていた。
同級生の昭治君のことを、「そうさん」と言っていた。(昭治さんのつもり)
そこ子は言った「そうさんじゃ、ねえや」と。
その場にいた勝則君は、笑っていた。
家族が敬老会の、おり箱と言うご馳走を食べずに持ち帰り、私に与えてた。
私は毎年、喜んで食べていた。
夏の体育のとき、校内プールで泳ぐ。
担任の女性教師が、抱きかかえて教えていた。
初めは泳げなくて怖かった。
祖母が人づてに、担任の先生の私への評価を聞き、叔母達に話す。
冬の集団登校のとき、6年生から杉の木を蹴れと言われ、しぶしぶ蹴った。
思った通り積もってた雪が、どばっーと落ちて来た。
のぶと言う、その子は笑っていた。先輩達も笑っていた。
私と正治君は、それを何回かやらされた。
数年後、正治君と懐かしんで話す。
テレビ、横井軍曹グァム島から帰還を見る。(2月2日、水)
7才
父の後妻が嫁いで来て、初日と次の日と、連続してけんちん汁を作る。
その時、私は喜んでいたが、3日目から、とたんに料理を作らなくなった。
敬老会の、おり箱と言うご馳走を、後妻が食べるようになった。
父は言った「かあちゃんにやるんど」と。
後妻は、もくもくと食べていた。
食べずに持ち帰って来たタケ婆は、それをじっと見ていた。
私は当てが外れ、がっくりして、苦笑いしていた。
後妻から2階の部屋で、二人きりの時に言われた。
後妻「お前なんか、育てる気ねえすけ、いい子になんねばなんねど」と。
私 「・・・・」
ある日、私は後妻に言った。
私 「後から来たくせに」と。後妻は、きっと睨んだ。
夏、後妻は長い髪を扇風機で乾かしていた。
私は気味悪く見ていた。
同級生の正治君いじめられる。家の前で悔しがる。
正治君が家の玄関まで来たので、そこに座っていたタケ婆に助けを求める。
タケ婆にしがみついた時、タケ婆は歯ぎしりしながら睨み付け、追い返した。
正治君が、川崎の鶴見に家族と行った話をしていた。
正治君が、虹に登った話をした。
虹の出ている所を、跨いだのだろう。
後妻が臨月になり、台所で吐いた。
後妻に子が出来る。
タケ婆「こんげん早く、産みやがって」と言っていた。
夕飯の時、後妻が意味深なことを話す。
後妻「こっちが家の子だいや、こっちが家の子だいや、危うく換えられるところだったいや」
と言っていた。
病院で生まれた弟を、家に連れ帰るときの経緯。
父は弟を、ある事で、いぶかっていた。
父「不思議だ、不思議だ」と言っていた。
私は、やっぱりそうかと思っていた。
冬、赤ちゃんの弟を背負い、庭でスキーをする。
弟は、ばたばたと動いていた。
続く・・・・
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