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パソコン相撲 入門

フィクションと、ノンフィクションのはざまで

2023-01-03 06:35:06 | パソコン相撲
今の時代の事は、今を生きているので、ノンフィクションで書ける。
戦後からは資料がかなり残っていたり、関係者が存命とかで調べられる。
事実に基づき、時系列を追って真実に迫る、それは直球勝負でしょう。
著者は事柄と事柄の間を想像で埋めるのではなく、確たる証拠を積み重ねます。

かたやフィクションは、事実を元に想像を働かせて、様々に書ける。
また、事実とかではなく、虚構の世界は底無しで、まったく自由です。
歴史小説は、それは歴史を曲げてはいけませんが、解釈の違いで書けます。
そもそも資料が残っていない昔の事は、ノンフィクションでは追えません。
登場人物が何を思い、何を語っていたかを想像し紡いでいく変化球でしょうか。

松本清張は帝銀事件の事を、フィクションで書くかノンフィクションで書くかで悩んだ。
資料、証言で事実を追い、怖ろしい真実が見えて来た。ノンフィクションで追えると。
だが、ある理由で屈した。この事件は直球で取れる。それなのに変化球でいった。
フィクションだと、真実が揺らぐかに思えるときがある。
本当は揺らいでないが、そう見えかねない面があるのです。
野球で言うと、際どい変化球がギリギリ入っているのに、ボールにされるみたいな。
あの松本清張の「帝銀事件」は小説での出版となり、真実がぼやけたと言う。
真犯人は巨大な闇の中いる、平沢貞道ではない、と言う。私もそう思う。
想像と言う自由が、真犯人を目の当たりにして物語りになった。
フィクションとノンフィクションのはざまで、前者にせざるをえなかった。

真実は、直球と変化球で追える。
全部、直球で行くのがノンフィクションか、迷いやぶれは禁物。
少しでもそれが入ると揺らぎ、真実が網の目からこぼれたりする。
私の解釈では、直球と変化球で追い求め、決め球は変化球にするのが小説。
物語りの豊潤な世界に憧れます。虚で実を突く。このはざま、おもしろいです。
コメント
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