Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

<政治>は言葉ではないのか

2010-09-26 11:08:59 | 日記


今朝は下に立岩真也新著『人間の条件――そんなものない』の長い紹介(引用)を出した。

なによりもそこに引用されている立岩氏の“余談”を読んでほしい。

ただしこれは“余談”である。
だが、こういう“余談”によって、あるひとの“感じ方→考え方→文体”が<わかる>と思うのだ。


それで“その上に”あまり長いブログを出したくない。

けれども今日も“ニュース”はある。
“今日だれもが知っているニュース”があり、ツイッターやブログで“多数”がなんやかや言っていることが、“想定”される。

(昨日、仕事で赤羽へ行ったぼくは、行きの電車でも帰りの電車でも、“人身事故”のアナウンスを聞いた―しかしこれらの死は、“ニュース”ではない)

自分がブログやツイッターをやっているひとなら、たぶん“誰もが”体感しているだろうことは、“無音のノイズ”である(ときには有音になる)。

この<ノイズ>を、“やっぱ俺もこの世界に生きている”とプラスに考えるか、“ああウッセーなぁー”と感じるかも、時によってちがうのである。

それで、いま、ぼくが書きたいのは(あなたに発信したいのは)以下の言葉である。

<政治は言葉ではないのか>

この文章は、疑問文とも、“政治は言葉である”という言い切りを行わず“ニュアンス”を付加するよーにも読める。

そもそも<政治>というような言葉は、大仰でかったるい言葉である。
しかし、“そこらのお姉ちゃん・お坊ちゃん”も、言うときには(言わないことが多くとも;笑)、<政治>について語る(語ってしまう)

だから<政治>は、べつだん大層なことではない。

<現在>について言えば、“誰だって”中国という国に“おこる”ことができる。
すなわち“巷に”ノイズは満ちる、“中国”にもノイズは満ちている(らしい)

そういう“時”にぼくは言いたい;

<政治は言葉ではないのか>
<社会は言葉ではないのか>


立岩真也のようなひとの本を読むべきだと、思う。





<エグザンプル>

下記ブログを書いてから、第1章“天下国家”で中断していた立岩真也『希望について』(青土社2006)の第2章“政治のこと”の最初にある“選択の前に”を読んだ。

これは2001年7月の参院選当日の朝日新聞に掲載されたインタビューである(短い)

引用する;

(“改革”選挙について)
★「改革」の向こうにあるのはよりすっきりした競争社会、できる人だけが得する社会です。もう一つは今まで通りの人たちが得をする社会、序列が決まった社会です。そして実際には両方が微妙に混ざった社会になるでしょう。それでよいのかということです。


(改革のための「痛みの共有」ということで失業者が増えるのもやむなしと言われていますが)
★ 意味不明です。「競争に負けた人は痛いよ」と言って「活性化」させる戦略なんですから「ともに」のはずがない。
参入の機会が開かれ、よい仕事をしたら社会が受け入れるようになるのには賛成です。しかしそれと、利益を得る人とそうでない人との格差の拡大を是正することとは別です。このまったく別のことを「自由化」の一語でくくってはいけない。
報酬の差は生産活動を動機づける手段にはなります。けれどもこの社会は、餌で人を釣り、失業で人を脅さなくては生産が確保されない社会なのかということです。


(国全体が依然「右肩上がり」にとらわれているということですか)
★ 「弱者救済」という言葉は、弱者を社会が作っていることを忘れた上で慈悲にすがらせているようで好きになれません。正面に「公正」、本当の「自由」をすえて、本来はこの先をやっていけると思います。公正で同時に開放的な社会の方が、「危機」にあおられ、あせらされるより、気持ちがいいと思うんですよ。からっぽの選挙公約としてではなく、そういう社会は可能だと私は思います。それを追求しないなら、結局今すでに有利な人たちが、より有利になるだけです。


(選挙ではどんな選択が望ましいと?)
★ 繰り返しですが、われながら青いと思っても「正しさ」を気にすること。歯切れのよさそうな主張がまさに自らの「既得権益」の主張でしかなかったりします。だから国内の経済の問題と対外問題も別のことではありません。正義に繊細で不正に反省的でいられないほど私たちは余裕のない状態に置かれているでしょうか。そんな余裕はない、自分のことで精一杯だと思う心性が、かえって自分をつらくさせているのだと思います。
(以上引用)




くり返す。
《正義に繊細で不正に反省的でいられないほど私たちは余裕のない状態に置かれているでしょうか。そんな余裕はない、自分のことで精一杯だと思う心性が、かえって自分をつらくさせているのだと思います。》









<比較せよ;内田樹ブログ“外交について”引用>

☆どれほど外交内政上の失策を犯しても、どれほど政治的無策が続いても、それでも法治が継続し、内戦が起こらず、テロリスト集団が形成されず、略奪や犯罪が横行しない「民度的余裕」において、日本は世界最高レベルにある。
その意味で、日本は中国に対して(中国以外のどの国に対しても)外交上、圧倒的な優位にあると私は考えている。
外交上、「一手も打ち間違えるわけにはゆかない」という緊張が日本人には求められていない。
かなり打つ手を間違えても、それが統治システムそのものの崩壊の危機にまでゆきつくことはない。
もちろん、その「ゆるさ」のせいで、権謀術数に長けたマキャヴェリストが出てこないという弊はあるが、「凡庸な人間でも外交ができる」という利の方がはるかに大きいと私は思う。
(引用)


たしかに現在の“外交問題”について、ヒステリックになる必要はない。

しかし、
しかし、この内田樹的“楽観”は、いかなる<認識>か?

自分がめぐまれていると人は、“日本国家が薔薇色に見える”らしい(笑)

ぼくは疑う;

”このひと認知症じゃないの?”(笑)





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