Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

青空の破片

2010-09-27 22:17:26 | 日記


★ だから、乳幼児が、人間になった、と自覚するということは、事実としては彼が人間の中に入ったということを意味しているのではあるが、本質的には、人間の外側の位置を取ることができるようになったというのが、むしろ重要なのである。自分という人間や、そのほかの人間たちの外側から自分を見て、自分がどのように見えるかを試してみる。そして自分に向かって言語を用いて、自分を人間として認めることが、「言葉を話せるようになる」ことなのである。夢の「空」は、このような過程に必要とされる純粋な「外側」として、我々に与えられているのである。

★ 性という現象は、人間の場合は、身体的なもの以外の要素が複雑にからみあって成立する。性は、言語によって媒介されないと活動できない。恋愛の告白から、結婚の制度的な手続きにいたるまでみなそうである。したがって、空飛ぶ夢が性的な活動を表わしているということの意味は、実は、性的活動とは、新しい言語活動の中に入ることだという認識を、夢が示しているということなのである。シャガールの絵には、空をただよう新婚のカップルがしばしば描かれる。新しい言語活動を獲得した彼らの性は、そうした言語活動以前の仲間たち、すなわち牛や山羊を引き連れて、自由に舞っている。

★ さきに述べたように、「言葉を話すようになる」ということ、夢の言語でいえば、「空を飛ぶこと」は、自分の外に出ること、自分以外のものになり、自分を外から見る力を手に入れることである。それは生きている自分の外側に出ることなのだから、死者の世界を経由することなのである。もともと、言葉の世界というものは、死んだ人たちの亡骸(なきがら)を集めた平面のようなものである。
そういう死者の平面に立って、まだ生きている自分を認識する。そして、自分は人間だと知る。言葉を話すということは、そういうふうに自分をとらえることであって、コミュニケーションとして言語という媒体を使用するということは、もはや二次的なことになっているのではないかと思う。二次的、というのは重要でないという意味ではない。死者の平面から自分をとらえようとする人間固有の意志を言語が引き受けていて、そういう引き受けが基礎にないと、コミュニケーション自体もうまくゆかなくなるだろうという意味である。

<新宮一成『夢分析』(岩波新書2000)>




なおこの本の第1章“空飛ぶ夢”に寺山修司の短歌が引用されている。
ぼくは、むかし、寺山をかなり読んだつもりだが、この歌は記憶になかった;

★ 青空より破片集めてきしごとき愛語を言えりわれに抱かれて






雑感

2010-09-27 15:21:34 | 日記



§ 下記のようなブログを書いても(書いてしまっても)自分のなかに、モヤモヤが残る。<追記>

§ 結局、なにが問題なんだろう?

§ ようするに、自分が現在生きている状況の総体(全部)とは、何か?

§ そもそも、上記のような問いは、なぜあるのか。
 あるいは、そのような問いは、本当にぼくには切実なのか。

§ しかしそのような問いが、自分に“ある”と前提しよう。

§ その場合でも、<自分が生きている時代と社会を総体としてとらえる>には、どうすればよいのか?

§ ひとつには、時事的ニュース(問題)に反応する。

§ しかし、“尖閣諸島問題”と“親の虐待問題”に同時に反応し、それらを“総体として”捉える視点とは何か?

§ しかも問題は、それだけではない。

§ いっぱんに“文化”とよばれる領域があり、ぼくには、この領域の貧困化が問題である。

§ ある時代-社会を捉えるには、そこで起こっている事とそのことに対する言説の総体の検討が必要である。

§ “そこで起こっている事”まさに多様である。

§ だからある時代について、“シンボリック”に捉える言葉が発明される;
 全共闘世代、おたく(オタク)、エンコー、ポストモダン、POPカルチャー、ヴァーチャル、不可能性の時代、新自由主義、改革、テロ、金融工学、グローバリズム、などなど。

§ しかし2000年以後、“この時代と社会”を象徴する言葉(キャッチフレーズ)さえ希薄化している。
 たとえば現在、“先端的”であるらしい東浩起の“キャッチ”は、《動物化→ゲーム的リアリズム》であるらしかったが、それらはイケていない(しかし時代の進展は早く、すでにこのキャッチも変化したかもしれない)

§ すなわち現在ぼくらは、この時代と社会を象徴する言葉を持たない時代に突入したのであろうか(ゼロ年代!)

§ すなわち、“なんでもあり”であり、各自がそれぞれツイッターで勝手なことを“つぶやいて”いるのが、コミュニケーションであると。
しかし“これ”が問題なのは、その“つぶやいている各自”が、自分がつぶやいていることの自覚がなく、“それ”が他者との関係だと<勘違い>してしまうことにある。

§ ならば、いっそのこと、“普遍的な古典へ還る”べきか。
 ぼくは、最近、“歳もせい”もあって、たしかにそういう志向はある。

§ しかし、もし、<古典>が、<現在>とはまったく“カンケーない”が故に、快適なら、それは単なる逃避である。

§ たしかに“ひと”には、逃避する自由もある。

§ しかし、ひとには、逃避しない自由もある。

§ たとえば、普遍的・本質的・根源的な“概念=言葉”というものはある。
 たとえば、最近このブログに書いた<意識と社会>という言葉である。

§ しかし、“意識と社会”という言葉だけでは、何を言っているのか、わからない。
 そもそも<意識>とはなにか?<社会>とはなにか?そしてこれらの言葉が《と》によって連絡されるとき、そこに出現する<関係>とはなにか?

§ 現在、<意識>という言葉をみるだけで想起されるのは、<無意識>である。
 あるいは、<自意識>という流行らなくなった言葉もある。

§ たとえば、<おたく>(オタク、ヲタク)という“言葉”は、死語となったのではないか。
すなわち、“みんな‘おたく’になった”からである。

§ <おたく>的人間を、社会関係(人間関係)の問題として、セクシュアリテの問題として、自意識とナルシシズムの問題として、虚構と現実の問題として“分析-考察”する作業も結局、不発であった。
  そして、“みんな‘おたく’になった”。

§ むしろ現在露呈しているのは、<おたく的保守性(保身)>の支配である。

§ もちろん、“保守性”とか“伝統遵守”とか“懐古趣味”とかが、たんにネガティヴなものでないにしても。

§ 自分だけが例外なことなど、ひとつもない。

§ “ああもいえるし、こうもいえる”のである。
 “ああいえば、こういう”ひとも、たくさんいる。

§ 結局、自分の人生を総括したいのだろうか。
 知ること、感じること、生きることについて。
 死ぬための準備。
 しかし、死ぬときに、“しまった!”と思うことは、もうすでにわかっているのに(笑)





<追記>

”なにかを書くと(読むと)、モヤモヤが残る”からブログを書いてきた。

”モヤモヤが残らなくなったら”、書く必要はない。





<正義>について

2010-09-27 13:21:20 | 日記


今日の‘あらたにす-新聞案内人’は、元読売新聞芸能部長西島雄造の”世相・ニュースから正義と悪を考える“である。

この文章は、《『告白』(中島哲也監督)と『悪人』(李相日監督)という、辛口映画の予想を超えるヒットだ》から始まっている。

そして、
《それにしても、新聞が日々報じるニュースにひそむ≪悪》の雑多さ、軽さ。<「遅刻しそうなので」自転車盗 巡査長 容疑で書類送検へ>(9月2日)、<タクシー盗んで「営業」 元運転手、窃盗容疑「金に困って」>(9月4日)、<築地署員、同僚カード悪用容疑 出会い系に>(9月11日)、<70歳女コンビニ強盗容疑>(9月15日)…。適切な表現とは思わないが、どこかちまちました犯行と、善悪の判断力の乏しさに驚くばかりだ。》(引用)―なのである。

そして、
《読売が9月7日から『犯罪異変第2部』で、万引きの現状を連載した。》
《共通する背景はモラルの崩壊。万引きだけではない。ネット犯罪、幼児ポルノ、オレオレ詐欺、自転車泥棒。こうした法に触れるものに限らず、ごく日常の暮らしのなかでも、モラルは衰退している。例えば、電車内で「優先席ではお年寄りや体の不自由な人にお譲り下さい」「優先席付近では携帯電話の電源をお切りください」と、繰り返し放送しても、座りこんでものを食い、化粧し、携帯に没頭する。》(引用)―のである。

そして、
《マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)がベストセラーになっている。米ハーバード大学で人気の政治哲学の講義を受け持っているという著者は、来日して8月に東大で特別授業をしたり、新聞各紙のインタビューを受けたり大忙しだ。》(引用)

そして、
《実のところ、正義は心もとないものである。思想信条宗教でも変わるし、国家間の正義など、互恵平等な外交関係に裏打ちされない限り自由自在であることは、20世紀の歴史を見ても、21世紀になっても変わらない。外交は国家間で行われる高いレベルの知的格闘技である。戦争が終結しても、勝利国に正義の大本は握られている。昨今の尖閣諸島をめぐる動きにしても、人類共通の真理であるはずの正義にすら、明確な法則はなさそうだ。》(引用)

そして“結論”、
《巨悪も大いなる正義も、≪小さな悪》≪小さな正義》から始まる。(略)正義こそ旗印の特捜が犯した罪は、善とか悪とかいうよりも、人間の深奥にひそむ≪悪意》にほかならない。》(引用)


みなさん、上記の文章のダイジェストを読んで、<正義>についてなにか分かったかな?
分かったひとは、手を挙げよう!



じつはぼくも、昨日<正義>という言葉が現れる文章を引用したのであった;

★ われながら青いと思っても「正しさ」を気にすること。歯切れのよさそうな主張がまさに自らの「既得権益」の主張でしかなかったりします。だから国内の経済の問題と対外問題も別のことではありません。正義に繊細で不正に反省的でいられないほど私たちは余裕のない状態に置かれているでしょうか。そんな余裕はない、自分のことで精一杯だと思う心性が、かえって自分をつらくさせているのだと思います。(立岩真也発言引用)


ここで立岩氏は、<正しさ>という言葉をまず使い、次に、<正義>と言っている。

《「正しさ」を気にすること》

《正義に繊細で不正に反省的でいられないほど……》

と言っている。



たしかに《正義に繊細》であることも、《不正に反省的》であることも、むずかしい。

この“むずかしさ”には、大きく分けて、2種があると思う;

A:なにが<正義>であり、なにが<不正>であるかが、わからない。

B:上記が分かっているのに、自分が不正を排除し、正義に生きることが、できない。<注>


“現実の”ぼくらの<生>(生活)とは、上記A,Bの混合(混乱)状態としてある。

たしかにある種の “宗教”とか“哲学”とか“社会思想”は、これら“正義と不正”について原理的に考えようとしてきた。

しかし、現在に至るまで、不正を根底的に廃棄した、“正義の社会”は、どこにも実現していない。

まったく困ったものである(笑)

すなわち、ぼくたちには、まだ考えることがあるのである。

いままでにあるもので、いちばん<正義>であるものを、“選ぶ”のではなく、いままでにあるものを認識しつつ、BASEから考え行動することを志向する(思考する、試行する)べきことがあるのである。

それは“モラルの崩壊”を嘆くことでも、“正義に明確な法則はない”などという勝手な感想に詠嘆することでもない。


地獄に落ちることを恐怖するから“正義”に生きるのではない。
あるいは、“悪をなす人も救われる”から、悪をなしていいわけでもない。

善と悪が相対的(基準がない)から、何をなしてもいい、わけではない。

たしかに外的規範に自分をゆがめてまで合わせることはない、しかし、他者のただなかで、自分と対話する“拠点”を手放すべきではない(それがなければ構築するほかない)




<注>

”わかっちゃいるけど、やめられない”

のである。