★ ところで《静物画》のことをフランス語で《ナチュール・モルト》と言う。ところがいつか静物画に髑髏を添える習慣は消える。死はそうやって西欧社会で隠蔽されてしまう。われわれはつねに肉の下に骸骨をもち運んでいるのだが、西欧社会ではそれを直視しようとしない。
★ そのように恐怖とともに隠蔽されてきた《死》を、それならば、なぜビュトールは明るみに出そうとするのか?
★ ビュトールは、『千一夜物語』のシャハラザードを作家の象徴だと述べている。あるとき妻に裏切られたサルタンは、それ以後、女と一夜をともにするたびに、その女を殺そうと決意し、やがてバグダッド全体が絶望に陥る。そこで総理大臣の娘シャハラザードはバグダッドの住民を救おうと思いたつ。彼女はサルタンと夜をともにするたびに、殺されないために、物語を語る。千一夜のあいだ、彼女は物語を語りつづけ、死の脅威はすこしずつ薄れてゆく。千一夜語りつづけたとき(千一とは無限を意味する)、王の心から死の復讐の気持ちは消え、バグダッドは救われた。
★ 作家=シャハラザードは、《死》を内に抱き、《死》に蝕まれながら、語りつづける。無限に語りつづけたとき、作家=シャハラザードは《死》の恐怖から救われ、世界も救われる。この寓話は、ビュトールの文学観における《死》と作家の関係、作家と社会の関係、そして個体と無限の関係を語っている。
★ 文学をやるとは、ぼくらにはまったくふさわしくない死の愚かしさのなかでは死なないようにするための手段を見つけることであり、それはつまり、ぼくら自身の死を組織し、来るべき死への待機の状態を実現することなのだ。(ビュトール『空なるかな』)
★ ビュトールは書くことによって「騒音にみちた暗闇のなかを、さらに深く降りてゆき」、そうやって彼自身がそれに苦しみ、またすべての人間に同じようにわかちあたえられている内部の裂け目をあばきたて、隠蔽されてきた《死》を露呈させる。しかしそれは、《死》を直視し、《死》を直視させ、ヨーロッパの歴史とヨーロッパ的キリスト教とが教えこんできた《死》の恐怖をすこしでも遠のけるためなのだ。
★ ぼくにとって文学とは描写だ、――だがただ現実的なもの描写ではなく、現実に欠如しているものの描写、現実が抱いている欲望の描写なのであり、そうした文学なしでは、ぼくらは自分が何をのぞんでいるかがわからないだろう。(対話におけるビュトール発言)
★ 私は思った、そう、私は思ったものだ、世界の運命は、たしかにごく僅かな程度にではあるが、それでも、まぎれもなく、私の書くものにかかっていると、そしていま、私の文章活動(エクリチュール)という徒刑場の奥底にあって、実際、私は依然としてそう思っているのだ。(『合い間』第29章)
* 以上すべて清水徹氏によるビュトール『合い間』(岩波現代選書1984、原著1973)の長文の<解説>による。
この本も現在、絶版である。
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