Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

シャハラザード(『千一夜物語』の語り手)

2010-09-15 13:49:26 | 日記

★ ところで《静物画》のことをフランス語で《ナチュール・モルト》と言う。ところがいつか静物画に髑髏を添える習慣は消える。死はそうやって西欧社会で隠蔽されてしまう。われわれはつねに肉の下に骸骨をもち運んでいるのだが、西欧社会ではそれを直視しようとしない。


★ そのように恐怖とともに隠蔽されてきた《死》を、それならば、なぜビュトールは明るみに出そうとするのか?

★ ビュトールは、『千一夜物語』のシャハラザードを作家の象徴だと述べている。あるとき妻に裏切られたサルタンは、それ以後、女と一夜をともにするたびに、その女を殺そうと決意し、やがてバグダッド全体が絶望に陥る。そこで総理大臣の娘シャハラザードはバグダッドの住民を救おうと思いたつ。彼女はサルタンと夜をともにするたびに、殺されないために、物語を語る。千一夜のあいだ、彼女は物語を語りつづけ、死の脅威はすこしずつ薄れてゆく。千一夜語りつづけたとき(千一とは無限を意味する)、王の心から死の復讐の気持ちは消え、バグダッドは救われた。

★ 作家=シャハラザードは、《死》を内に抱き、《死》に蝕まれながら、語りつづける。無限に語りつづけたとき、作家=シャハラザードは《死》の恐怖から救われ、世界も救われる。この寓話は、ビュトールの文学観における《死》と作家の関係、作家と社会の関係、そして個体と無限の関係を語っている。

★ 文学をやるとは、ぼくらにはまったくふさわしくない死の愚かしさのなかでは死なないようにするための手段を見つけることであり、それはつまり、ぼくら自身の死を組織し、来るべき死への待機の状態を実現することなのだ。(ビュトール『空なるかな』)

★ ビュトールは書くことによって「騒音にみちた暗闇のなかを、さらに深く降りてゆき」、そうやって彼自身がそれに苦しみ、またすべての人間に同じようにわかちあたえられている内部の裂け目をあばきたて、隠蔽されてきた《死》を露呈させる。しかしそれは、《死》を直視し、《死》を直視させ、ヨーロッパの歴史とヨーロッパ的キリスト教とが教えこんできた《死》の恐怖をすこしでも遠のけるためなのだ。

★ ぼくにとって文学とは描写だ、――だがただ現実的なもの描写ではなく、現実に欠如しているものの描写、現実が抱いている欲望の描写なのであり、そうした文学なしでは、ぼくらは自分が何をのぞんでいるかがわからないだろう。(対話におけるビュトール発言)


★ 私は思った、そう、私は思ったものだ、世界の運命は、たしかにごく僅かな程度にではあるが、それでも、まぎれもなく、私の書くものにかかっていると、そしていま、私の文章活動(エクリチュール)という徒刑場の奥底にあって、実際、私は依然としてそう思っているのだ。(『合い間』第29章)



* 以上すべて清水徹氏によるビュトール『合い間』(岩波現代選書1984、原著1973)の長文の<解説>による。

この本も現在、絶版である。
“中古品”なら買えます。






複数の声、複数の言葉、複数の生

2010-09-15 12:09:24 | 日記


以下にひとの<名>を列挙する。

これらの<人々>の特徴は、いちども“現実に生きた”ことがないことである。

すなわち<彼ら(彼女ら)>は、架空の生を生きた。
あるいは、<虚構の>生を生きた;



§ フィクション

ジョバンニ、カンパネラ

ラスコーリニコフ、ムイシュキン公爵、スタヴローギン、アリョーシャ

ボヴァリー夫人、チャタレイ夫人、ダロウェイ夫人、アンナ・カレーニナ

フィリップ・マーロウ、リュウ・アーチャー、カッスル、スマイリー

ポール・アトレイデ、レイディ・ジェシカ、チャニ、エイリア、ダンカン・アイダホ

秋幸、五反田君、僕、ギー兄さん、滋

ミシェール、オスカル、

ファウスト、ガリヴァー、ロビンソン、モンテ・クリスト伯、原田甲斐(小説のなかでの)

ジュスティーヌ、ジュリエット、マダム・エドワルダ、キャリー、アルベルチーヌ

マクベス、オイディプス、アンティゴネ、エレクトラ

キャサリン、三千代、ロリータ



§ 映画

アリス(都会の)、クレメンタイン、ジェルソミーナ、マリア<注>

トム・リプリー、デカード、グイド、“ピエロ”

アルフレッド・ガルシア、メルキアデス・エストラーダ

ボニー&クライド(映画のなかの)、ビリー・ザ・キッド(映画のなかの)

サラ・コナー

ロレンス(アラビアの、映画のなかの)、ビト・コルレオーネ

ナウシカ、スイト

新子



§ 音楽

ロクサーヌ

ジェラス・ガイ

LAウーマン、カリフォルニア・ガール

キャロル、ダイアナ、ミッシェル

ヨーコ

Mr.タンブリンマン、ジョン・ウエズリー・ハーディング

Mr.Big

Nowhere Man

Mother(音楽のなかでの)

Baby





<注>

”クレメンタイン、いい名前だな”(ジョン・フォード「荒野の決闘」エンディング)




<注記>

どうも“音楽”には、“固有名”が少ない。

それともぼくが知らない(思い出せない)のだろうか?

音楽のなかでの、固有名を思い出したひとは、コメントください。





エンターテイメント!

2010-09-15 09:47:05 | 日記


世の中には、ちっとも面白くないエンターテイメントというものがあるのである。


☆ ひとつの時代が終わり、新しい時代を作りあぐねる日本である。問題の結び目は固く、複雑だ。一人の剛腕ではなく、首相の言う全議員による「412人内閣」に、希望をつなぎとめてみる。(天声人語)


☆ 小沢氏が党員・サポーター票で菅氏に5倍の大差をつけられた民主党代表選挙の敗因は、言葉を軽視、もしくは蔑視する政治家に世間が示した拒絶反応とみるほかはない◆経験も指導力も財力もあるのに、「言葉」だけが致命的に欠落している。もったいないことである。(読売編集手帳)



朝日新聞は、《希望をつなぐ》と言う。

読売新聞は、《「言葉」だけが致命的に欠落している》と言う。


しかし《「言葉」だけが致命的に欠落している》のは、読売新聞自体である。

あるいは、《希望をつなぐ》という<言葉>を朝日新聞が用いるとき、そこで死んでいるのは<希望>という言葉である。

ぼくは小沢一郎ファンではない。

しかし“メディア”は言う;

☆ 一方、「一兵卒として頑張る」と語った小沢氏。その動向も、なお目が離せません。(あらたにす朝日新聞編集局から)

☆ 党内には「一兵卒という時の小沢氏が一番怖い」という声もあります。どうなることやら。(あらたにす読売新聞編集局から)


すなわち“メディア”は、<まだまだエンターテイメントは続きますよ、だから新聞を買ってね、テレビを見ようね!>と言っているだけである。

使い古された“読者を煽る”手法である。



まさに現在日本の政治が、どうでもよいことのみに奔走しているのは、ニッポンのメディアがどうでもいいことのみに奔走しているのとパラレルである。

すなわち<彼ら>は、みな同じタイプの人間である。

かれらの“思考”と“感性”によっては、現代社会の<問題>は何一つとらえられない。

これら、もはや人間としての基礎的認識を欠落した人々が、毎日なにを言い、毎日いかに無意味な行為を重ねようとも、現在日本社会が抱えるあらゆる矛盾と格差は、まったく<解決>しない。


まさに“致命的に欠落している”のは、<言葉>である。

まさに“まったくつなぐことができない”のは、<希望>である。


もし今、<希望>や<言葉>を喪いたくないないなら、
まさに自分を取り巻く<自然性(惰性)としての言葉>を拒絶すべきだ。

“ニュース”も“ブログ”も“ツイッター”も“掲示板”も拒絶せよ。

<私>は、この弧絶した場所で、<ある種の他者の言葉>に、集中する。






jimi hendrix

2010-09-15 00:21:22 | 日記

仕事で疲れたのでぼんやりテレビ画面を見てたら、BS-hiの”伝説のギタリスト”とやらでjimi hendrixを見た。

彼の生まれた年がぼくと4年しかちがわないこと、彼が左利きであることを知った。

いったい今までなにを見てたんだろう(笑)

もちろん、彼のギターや彼の音楽は、ただ聴けばよいのだけれど。

しかし(その前にうつった)81歳のチャック・ベリーのように、60歳を過ぎたジミを見たいとは思わない。

ジミ・ヘンドリクッス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンという、短いパフォーマンスで死んだ人々が、昔より、美しく感じられる。


もちろん60歳を過ぎたジョン・レノンを想像できない。


今日(もう昨日)世間を騒がしている二人は、いずれも60過ぎである(爆)

美しくない人間ばかりを、テレビで見たくないものである。

しかしテレビには、美しくない人間ばかり登場する。

なぜなんだ?