今日の‘あらたにす-新聞案内人’は、元読売新聞芸能部長西島雄造の”世相・ニュースから正義と悪を考える“である。
この文章は、《『告白』(中島哲也監督)と『悪人』(李相日監督)という、辛口映画の予想を超えるヒットだ》から始まっている。
そして、
《それにしても、新聞が日々報じるニュースにひそむ≪悪》の雑多さ、軽さ。<「遅刻しそうなので」自転車盗 巡査長 容疑で書類送検へ>(9月2日)、<タクシー盗んで「営業」 元運転手、窃盗容疑「金に困って」>(9月4日)、<築地署員、同僚カード悪用容疑 出会い系に>(9月11日)、<70歳女コンビニ強盗容疑>(9月15日)…。適切な表現とは思わないが、どこかちまちました犯行と、善悪の判断力の乏しさに驚くばかりだ。》(引用)―なのである。
そして、
《読売が9月7日から『犯罪異変第2部』で、万引きの現状を連載した。》
《共通する背景はモラルの崩壊。万引きだけではない。ネット犯罪、幼児ポルノ、オレオレ詐欺、自転車泥棒。こうした法に触れるものに限らず、ごく日常の暮らしのなかでも、モラルは衰退している。例えば、電車内で「優先席ではお年寄りや体の不自由な人にお譲り下さい」「優先席付近では携帯電話の電源をお切りください」と、繰り返し放送しても、座りこんでものを食い、化粧し、携帯に没頭する。》(引用)―のである。
そして、
《マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)がベストセラーになっている。米ハーバード大学で人気の政治哲学の講義を受け持っているという著者は、来日して8月に東大で特別授業をしたり、新聞各紙のインタビューを受けたり大忙しだ。》(引用)
そして、
《実のところ、正義は心もとないものである。思想信条宗教でも変わるし、国家間の正義など、互恵平等な外交関係に裏打ちされない限り自由自在であることは、20世紀の歴史を見ても、21世紀になっても変わらない。外交は国家間で行われる高いレベルの知的格闘技である。戦争が終結しても、勝利国に正義の大本は握られている。昨今の尖閣諸島をめぐる動きにしても、人類共通の真理であるはずの正義にすら、明確な法則はなさそうだ。》(引用)
そして“結論”、
《巨悪も大いなる正義も、≪小さな悪》≪小さな正義》から始まる。(略)正義こそ旗印の特捜が犯した罪は、善とか悪とかいうよりも、人間の深奥にひそむ≪悪意》にほかならない。》(引用)
みなさん、上記の文章のダイジェストを読んで、<正義>についてなにか分かったかな?
分かったひとは、手を挙げよう!
じつはぼくも、昨日<正義>という言葉が現れる文章を引用したのであった;
★ われながら青いと思っても「正しさ」を気にすること。歯切れのよさそうな主張がまさに自らの「既得権益」の主張でしかなかったりします。だから国内の経済の問題と対外問題も別のことではありません。正義に繊細で不正に反省的でいられないほど私たちは余裕のない状態に置かれているでしょうか。そんな余裕はない、自分のことで精一杯だと思う心性が、かえって自分をつらくさせているのだと思います。(立岩真也発言引用)
ここで立岩氏は、<正しさ>という言葉をまず使い、次に、<正義>と言っている。
《「正しさ」を気にすること》
《正義に繊細で不正に反省的でいられないほど……》
と言っている。
たしかに《正義に繊細》であることも、《不正に反省的》であることも、むずかしい。
この“むずかしさ”には、大きく分けて、2種があると思う;
A:なにが<正義>であり、なにが<不正>であるかが、わからない。
B:上記が分かっているのに、自分が不正を排除し、正義に生きることが、できない。<注>
“現実の”ぼくらの<生>(生活)とは、上記A,Bの混合(混乱)状態としてある。
たしかにある種の “宗教”とか“哲学”とか“社会思想”は、これら“正義と不正”について原理的に考えようとしてきた。
しかし、現在に至るまで、不正を根底的に廃棄した、“正義の社会”は、どこにも実現していない。
まったく困ったものである(笑)
すなわち、ぼくたちには、まだ考えることがあるのである。
いままでにあるもので、いちばん<正義>であるものを、“選ぶ”のではなく、いままでにあるものを認識しつつ、BASEから考え行動することを志向する(思考する、試行する)べきことがあるのである。
それは“モラルの崩壊”を嘆くことでも、“正義に明確な法則はない”などという勝手な感想に詠嘆することでもない。
地獄に落ちることを恐怖するから“正義”に生きるのではない。
あるいは、“悪をなす人も救われる”から、悪をなしていいわけでもない。
善と悪が相対的(基準がない)から、何をなしてもいい、わけではない。
たしかに外的規範に自分をゆがめてまで合わせることはない、しかし、他者のただなかで、自分と対話する“拠点”を手放すべきではない(それがなければ構築するほかない)
<注>
”わかっちゃいるけど、やめられない”
のである。
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