Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

哲学者

2010-09-20 15:57:53 | 日記


★ 哲学者はいかなる思想的共同体の成員でもない。まさにそのことが彼を哲学者にするのである。(ウィトゲンシュタイン“断片”455節)

★ 哲学の問題は、「私は途方に暮れている」という形をとる。(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』1部123節)

★ 哲学者の仕事は、一定の目的に合わせて諸々の記憶を寄せ集めることである。(『哲学探究』1部127節)

★ およそものごとの、我々にとって最も重要な様相は、その単純さと平凡さによって隠されている(人はそれに気づかない――それがいつも眼前にあるから)。人間の探求の本来的な基盤は少しも人間を驚かすことがない。そのことに彼が驚いた場合を除いては。――すなわち、ひとたび目にすれば最も驚くべく、また強烈なものに我々は驚かないのである。(『哲学探究』1部129節)

★ 哲学の病の主たる原因――偏食。人は自分の思考をたった一種類の実例で養っている。(『哲学探究』1部593節)

★ 言語ゲームはいわば予見不可能なものであるということを、君は心にとめておかねばならない。私の言わんとするところはこうである。それには根拠がない。それは理性的ではない(また非理性的でもない)。それはそこにある――我々の生活と同様に。(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』559節)





* 以上すべて黒田亘編『ウィトゲンシュタイン・セレクション』(平凡社ライブラリー2000)より引用






誰もが老人になる-B (下記ブログのつづき)

2010-09-20 12:19:17 | 日記


今日は休日である、ふだんたいして働いていないぼくにとってもやはり“休日”は特別である。

だから、のんびりさせてくれ(笑) 『パーフェクト・スパイ』は下巻真ん中まできた。
ブログを書かせないでくれ!

しかし今日の休日は“敬老の日”という(らしい)

そして朝起きて(悪い習慣だが)、朝日と読売の社説を読んだがために、下記ブログを書くことになった。
ぜんぜん楽しくない、この作業は、一種の労働である、しかもだれからも頼まれず、だれからも報酬も“お褒めの言葉”もいただけない(笑)
“潜在的”罵倒の声は感じるヨ。

毎日、“こんなブログはやめたい”と思う(ホントだよ!)



しかし、
あ~あ、しかし、である。
下記ブログを書いた後に朝食・昼食兼用食を食べ、天声人語と読売編集手帳を読んでしまったのである(現在日本で、この2大コラムをぼくほど熱心に読んでいるひとがいるだろうか!朝日と読売は、ぼくに1年間無料購読サービスをすべきである)


はてさて、“どっち”からいく?

読売編集手帳(笑);

☆ 1975年の地図は日本列島全体が青一色だが、2005年は首都圏など都市部が青いだけで、中国・四国などは赤が目立つ――。65歳以上の人口の割合が50%以上の地区は赤、20%未満は青に塗り分けられた統計地図である◆日本の急速な高齢化を嫌でも実感せずにはいられない。
(略、どうでもいいので)
◆「今を知らなきゃ、未来は作れない」が今年のキャッチフレーズだ。政府には「未来を作る」ための少子高齢化対策や地域活性化策に頑張ってもらいたい。「今を知る」だけでは地図の赤は増え続けてしまう。
(引用)


????????
この書き手は、地図を見ないと、《日本の急速な高齢化》が実感できないんですか?(笑)

《今を知らなきゃ、未来は作れない》
ははん、電通が考えたんですか?

《政府には「未来を作る」ための少子高齢化対策や地域活性化策に頑張ってもらいたい》
読売新聞社は、頑張らないんですね。

まあ、読売新聞を読んでたり、読売テレビを見ていては、《今を知る》ことはできません。



次ぎ。

天声人語(爆)

あんまりくだらないんで、“全文を”引用しちゃう;

☆ 絵本作家の永田萠(もえ)さんに「ウソ泣き」という詩がある。〈ウソ泣きしてたら/きみがトコトコやってきて/「ぼくがいるからだいじょうぶ」って言うものだから/かあさん/ウソ泣きが本泣きになっちゃった〉▼不覚の涙に、おかしくて切ない血のつながりを思う。わが子を虐待する親が絶えぬ中、東京の声欄で「母子の愛」がひとしきり話題になった。きっかけは「子どもはみな母親が大好き」という投書だ。病に倒れた女性が、反目していた母に看取(みと)られたいと願う話だった▼ある母親は小1の次男のことを寄せた。投稿者は「何か得意なものはないの?」と息子を問い詰めたそうだ。「お兄ちゃんみたいに色々できないよ」と泣き出した子、やっと書いたのが〈ままがすきなこと〉。ママは反省しきりである▼円満な親子ばかりではない。子への愛を自負する親ほど、縁が切れたかのような反抗期にうろたえる。そんな時、どの子も親が好きなはずと念じれば救われよう。やはり永田さんの「たまごの時代」を引きたい▼その詩は〈おとなになるちょっと前に/おとこの子も/おんなの子も/固いカラのたまごの中に閉じこもる〉と始まる。どんな姿で出て来るのやら、周りは気長に待つほかない。〈ここらで親もひとやすみ〉の結びが、子育て世代に優しい▼母のうそ泣きに駆け寄るのも、殻に閉じこもるのも同じ子である。人生の折々に見せる違った顔は成長の証しにほかならない。この祝日、親がご健在の方は、手紙なり花束なりでありがとうの顔を見せることができる。
(インヨーだよ)


ああ!

この“おとーさん”は、今日もこのコラムを書くことで、家族を養っているのよ。
なんと涙ぐましい“お仕事”でしょう!

天声人語“おとーさん”には、自分の家族しか見えない。
しかし“彼の奥さん、とか、こども”に、“きみんちのおとーさんって、家族おもいなの?”と聞いたら、“仕事ばっかしているよーに見せかけて、何してんだかワカンナイ”という返事が返ってくるでせう。


上記天声人語への疑問点;

①「子どもはみな母親が大好き」ということを、いまどき、なぜわざわざ“言う”必要があるのだろうか?

②母親はみんな子どもが大好き、なんだろうか?

③父親は、どこに行った?(朝日新聞読者は“母親”だけなんだろうか?)

④《子育て世代に優しい》
  と言うが、子育てしていないひとには、誰が優しくしてくれるのだろうか?(笑)

⑤《母のうそ泣きに駆け寄るのも、殻に閉じこもるのも同じ子である。》
  ときには、母親を殴り殺すのも同じ子である。
  ときには、母親を放棄するのも、同じ子である。

⑥《人生の折々に見せる違った顔は成長の証しにほかならない》
まあそうなんだろうが、この文章を書いている“おとーさん”のようにしか成長しなかった子供もいるワケである。
だから“天声人語”というのは、とてつもない“イロニー”なのである。

⑦《この祝日、親がご健在の方は、手紙なり花束なりでありがとうの顔を見せることができる》

しかし。
しかし、
ぼくには“ありがとう”の手紙も花束も届ける相手がいない。<注>
あるいはぼくに、“ありがとうの顔を見せる”子供もいない。

ぼくは愚痴を言っているんじゃない、自業自得である。

しかしこの世には、ぼくのヨーなひともいるのである。

天声人語のヨーな<おとうさん>だけで、<この世>は成り立っていない。





<注>

ぼくの父も母も、ぼくとはちがって(ぼくに似ていなくて)、始末のよい人たちだったわけである。





誰もが老人になる

2010-09-20 09:46:55 | 日記

“誰もが老人になる”と言っているのは、ぼくではなく、読売新聞である。

☆人間関係が薄まる中で社会の高齢化は加速していく。家族の大切さを再確認するだけでなく、それを補完する様々な形の「縁」を築くことが求められよう。
行政と地域が、ある程度は高齢者の個人情報を多角的に共有すべきである。社会保障番号を整備して、医療や介護など福祉制度を連携させる必要がある。戸籍や住民登録のあり方を含め、制度を見直し、整える時だ。
社会として〈老人を敬愛し、長寿を祝う〉には何が必要か、熟考する日としたい。
誰もが未来の老人である。
(以上今日“敬老の日”読売社説引用)



じゃあ、朝日社説は何といっているか?

☆こうした活動の担い手として「団塊の世代」には大いに期待したい。会社員であれば定年を迎え、年金を受け取り始めるころだが、「年寄り扱い」は望まない人も少なくない。仕事で培われた能力と経験を生かし、経済の主役から地域の支え手に移るモデルを、若い世代に示して欲しい。
参加を促す仕組みづくりも大切だ。地域で活動した時間を積み立て、自分が受ける立場になった時に引き出す「時間預託」、介護支援ボランティアのポイント制といった例がある。
支えた人が、後で支えられる」関係を社会全体でつくれてこそ、「敬老の心」は再生産され、社会全体の活力も維持されるのではないか。
(以上今日“敬老の日”朝日社説引用)



以上の引用はいずれもこれら“2大新聞”社説の結論部分である。

なにか“具体的提言”がなされているだろうか?

読売は、

《家族を補完する様々な縁を築くことが求められよう》と言う。

《縁》というボキャブラリーの使用は古めかしく、読売新聞的感性を証明している(笑)
そして《求められよう》という表現は、なんか、あいまいである(いったい誰が求めるのか?)

具体的“提言”は次にある;
《行政と地域が、ある程度は高齢者の個人情報を多角的に共有すべきである。社会保障番号を整備して、医療や介護など福祉制度を連携させる必要がある。戸籍や住民登録のあり方を含め、制度を見直し、整える時だ。》(引用)

この“提言”を聞いて、心がときめいたり、安心したりできる“老人”がいったい日本のどこにいるのだろうか?(疑問文;笑)
まったく“おそまつ”である。


つぎ、朝日新聞(笑);
またもや、“団塊の世代”に期待している(爆)
ああ、期待されても困るなーと、団塊に“ひっかかる世代”であるぼくは、思う。

朝日の具体的提言を聞く;

《地域で活動した時間を積み立て、自分が受ける立場になった時に引き出す「時間預託」、介護支援ボランティアのポイント制といった例がある。
支えた人が、後で支えられる」関係を社会全体でつくれてこそ、「敬老の心」は再生産され、社会全体の活力も維持されるのではないか。 》(引用)<注>

くりかえす。
この“提言”を聞いて、心がときめいたり、安心したりできる“老人”がいったい日本のどこにいるのだろうか?(疑問文;笑)
おそまつ!!!


“おそまつ”かつ“せこい”。

なさけない(涙~泣き笑い)


実はあまりこのブログに書いたことがないが、現在のぼくの仕事(パートだが)は、こういう問題に関与している。

最近ぼくが担当した講座の、現在この社会の医療の生々しい“現場で”働いている医者は言っていた;

“ほとんどの老人が、早くお迎えが来てほしいと言っている“と。

また、現在の“ぼくの世代の孫の世代”においては、結婚はきわめて減少するだろうと。
すなわち、<家族>は、維持しがたい。


みなさん、<現実>をもっとちゃんと見ようよ。

ぼくは、<リアリズム>が好きじゃないんだよ!










<注>

この文章=《支えた人が、後で支えられる》関係を社会全体でつくれてこそ、「敬老の心」は再生産され、社会全体の活力も維持されるのではないか。》の“語尾”=《……のではないか》に注目せよ!

“日本語”的には、《……のではないか》というのは、“きっぱり言い切らない”態度を意味する。

もちろん朝日新聞はこれを“呼びかけである”と誤魔化すことができる。

《……のではないか》というような表現が、“民主的”であるかのように(いつもいつも百年も万年も)思っているらしい。

しかし《優柔不断》という日本語もあるのである。

《……のではないか》と言うことで、いつもいつも<判断>を保留し、先延べし、そうすることで、“なにも言わず”、“なにも行わない”のである。

こういう“主導的メディア”(もちろん<テレビ>もだ!)の“おかげ”で、なにも判断せず、なにも行わず、《……のではないか》というようなおしゃべりばかりしているのが、日本国民の国民性となったことは、はなはだナゲカワシイことである。









口先では《……のではないか》と言いつつ、“多数”を獲得する“根回し”に執着-狂奔する<新自由主義的人間>というのは、人間の屑―《であるのではないか》。   (爆)