★ だから、乳幼児が、人間になった、と自覚するということは、事実としては彼が人間の中に入ったということを意味しているのではあるが、本質的には、人間の外側の位置を取ることができるようになったというのが、むしろ重要なのである。自分という人間や、そのほかの人間たちの外側から自分を見て、自分がどのように見えるかを試してみる。そして自分に向かって言語を用いて、自分を人間として認めることが、「言葉を話せるようになる」ことなのである。夢の「空」は、このような過程に必要とされる純粋な「外側」として、我々に与えられているのである。
★ 性という現象は、人間の場合は、身体的なもの以外の要素が複雑にからみあって成立する。性は、言語によって媒介されないと活動できない。恋愛の告白から、結婚の制度的な手続きにいたるまでみなそうである。したがって、空飛ぶ夢が性的な活動を表わしているということの意味は、実は、性的活動とは、新しい言語活動の中に入ることだという認識を、夢が示しているということなのである。シャガールの絵には、空をただよう新婚のカップルがしばしば描かれる。新しい言語活動を獲得した彼らの性は、そうした言語活動以前の仲間たち、すなわち牛や山羊を引き連れて、自由に舞っている。
★ さきに述べたように、「言葉を話すようになる」ということ、夢の言語でいえば、「空を飛ぶこと」は、自分の外に出ること、自分以外のものになり、自分を外から見る力を手に入れることである。それは生きている自分の外側に出ることなのだから、死者の世界を経由することなのである。もともと、言葉の世界というものは、死んだ人たちの亡骸(なきがら)を集めた平面のようなものである。
そういう死者の平面に立って、まだ生きている自分を認識する。そして、自分は人間だと知る。言葉を話すということは、そういうふうに自分をとらえることであって、コミュニケーションとして言語という媒体を使用するということは、もはや二次的なことになっているのではないかと思う。二次的、というのは重要でないという意味ではない。死者の平面から自分をとらえようとする人間固有の意志を言語が引き受けていて、そういう引き受けが基礎にないと、コミュニケーション自体もうまくゆかなくなるだろうという意味である。
<新宮一成『夢分析』(岩波新書2000)>
なおこの本の第1章“空飛ぶ夢”に寺山修司の短歌が引用されている。
ぼくは、むかし、寺山をかなり読んだつもりだが、この歌は記憶になかった;
★ 青空より破片集めてきしごとき愛語を言えりわれに抱かれて
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