Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

さようなら、私の本よ!

2010-12-27 14:08:16 | 日記



ぼくは、大江健三郎『さようなら、私の本よ!』という本の文庫本を第12章まで読んだ。

残るは、第11章~終章までの第3部と“文庫版のために”という文章である。
そんなにページ数はないので、今日中にたぶん読み終わるであろう。

『さようなら、私の本よ!』は、“おかしな二人組”3部作の最後であるので、ぼくはこの3部作『取り替え子』-『憂い顔の童子』-『さようなら、私の本よ!』を読み終わる。

しかも『さようなら、私の本よ!』は大江健三郎の最後の小説ではなかった。
その後、『美しいアナベル・リイ』、『水死』が書かれた。


ぼくはこの本の感想を書かない(書けない)
この本を“紹介”したい。


★この本の単行本の帯に掲載された言葉;

絶望から始まる希望
巨大暴力に対抗する、個人単位の暴力装置を作る繁と、世界中から「徴候」を収集・記録する古義人――「おかしな二人組」の、絶望から始まる希望を描く長編小説。


★ この本の文庫本の帯に掲載された言葉;

大江健三郎流テロリズムとは?


★ 高橋源一郎書評(アサヒコム2005/11);

 大江健三郎は、現存する、最大の顰蹙(ひんしゅく)作家である、とぼくは考える。 例えば、戦後民主主義へのナイーヴな信頼や、政治的アクションへの止(や)むことのない参加は、高度資本主義下の日本人の多数にとって、顰蹙ものである。 さらに顰蹙をかうのは、その作品だ。 外国の作家や詩人の引用ばかりじゃないか、自分と自分の家族や友人と自分の過去の作品について書かれても興味持てないんですけど——等々。 だが、真に顰蹙をかうべきなのは、もっと別のことだ、とぼくは考える。 この小説だけではなく、近作全(すべ)てで主人公を務める長江古義人は、ノーベル賞作家で、本ばかり読む人である。要するに、作者の大江健三郎にそっくりの人物だ。その、作者そっくりの人物のもとを訪ねた、幼なじみの、国際的名声を持つ建築家、椿繁は、「老人の最後の一勝負」として9・11同時多発テロに触発された東京の超高層ビル爆破計画を持ちかけ、そのあらましを、新しい小説として書くように要請するのだが——というのが、この小説の「あらすじ」だ。 しかし、そんな「あらすじ」に従って「読まれる」ことを、この小説は拒否している。 作中人物の一人は、主人公にその計画を「本気で受けとっていられたか」と訊(たず)ねる。「本気」があるのか。あるとしたら、それは何なのか、と。それは、作者自身が、読者になりかわって訊ねたことなのだ。この小説の「本気」は何か、と。 この小説は、読者の前で揺れ動く。過激な煽動(せんどう)と真摯(しんし)な問いかけと悲痛な叫びに滑稽(こっけい)さ、そのどれが「本気」なのか、と読者を悩ませる。だが、小説とは、そういうものではないのか? 苦しみつつ、作品の解読を通して、作者さえ知らないものを見つけ出すのが、小説を読む、ということではないのか。だとするなら、小説への信だけは失わぬ大江健三郎は、世界がどのように変わっても、他の作家たちが小説を書かなくなったとしても、ただ一人、小説を書き続けるに違いない(なんと迷惑な!)。それ故に、ぼくは、彼を最大の顰蹙作家と呼ぶのである。
(引用)



高橋源一郎の書評を引用したのは、これがいいと思ったからではない(笑)
これがたまたま検索で引っ掛かったからである。


はっきりって、批評される対象より、批評するひとが“小物”なとき、その“批評”はどのように成り立つのだろうか?!


ぼくは大江健三郎が、ただしい世界認識のもとにただしい主張を持つ小説を書いた、とは思わない。

しかし大江健三郎は、まさにただしい主張の困難をこそ書いている。

この認識は、“世界的”であると同時に、“現在的(アクチュアル)”である。

現在“ただしいことを言う”ひとは、皆、嘘つきである。

あるいは“偽の希望”をいうひとは、皆、絶望を知らぬゆえ、希望に触れることができない。

希望とは、未来にかかわることである以上、“彼ら”に、未来はない。

未来なきひとは、“現在に”埋没し去るか、“来世”に生きるのみである。

“彼ら”は、歴史なき(”リアル”なき)浮遊物(幽霊)である。


まさに『さようなら、私の本よ!』と村上春樹『1Q84』を比較せよ。

それは、<人間>と<幽霊>の比較である。

ぼくが言いたいのは、とりあえず以上である。




『さようなら、私の本よ!』は、希望の本である。







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