Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

今年(2010)の本と未来(2011)の本

2010-12-25 15:26:25 | 日記



ぼくは買った本と読み終わった本を記録している。
今年買った本はほぼ150冊であり、読了書は40冊程度であった(今年買った本を今年読了したとは限らない)

“読了書”は、思ったより多かった(笑)
ぼくはなかなか読了できない。


その今年の読了書のなかから、“ベスト”を選ぶ。
つまりこれは“ぼくが今年読み終わった本”のベストである。

今年は迷いがなかった、ル・クレジオ『物質的恍惚』と『悪魔祓い』である。
この2冊のオリジナルは、1967年、1971年であるが、この2冊が今年(2010年)に岩波文庫新刊として出た。

その意味で、この2冊は、“日本における”今年の本でもあった。
だがこの2冊は、中上建次『熊野集』+『紀州』の組み合わせのように、現在のぼくの<基準点>となる本である。


さらに<未来の本>を考える場合、ぼくにとっての<未来>は、“来年(2011年)~”というふうに“~”をつけられないと思った。

個人的には、ぼくの生存はもはや、“1年、1年”を区切る必要がある。
つまり2011年に“生きる”ことはほぼ可能となったが、2012年に生きているか否かは不明である。
1年、1年を<現在=過去=未来>として生きていく。


<今年の本>では、思想書では宇野邦一の本を数冊読み感銘を受けた、また十川幸司の2冊の精神分析の本に学んだ、感謝する。

日本の小説では青山真治と平野啓一郎を読んだ(青山氏は彼の書いたものはほぼ全部読んだ、平野氏はまだ数冊)

ビュトールの2冊の“小説”『時間割』と『心変わり』を再読し、最近の講演集『即興演奏』を読めたのも、重要な“読むこと”であった。


そして今年の終りに、大江健三郎“おかしなふたり”3部作に激突した。
そうして、ぼくの<未来=2011年>は拓けた。
ぼくが大江健三郎に出会うのは、生涯で2度目である。
青春の最初と、晩年の最初で出会ったことになる、大江健三郎にはあまりにも多くの“恩義”を感じる。

センチメンタルな言い方をするなら、父と兄がいなかったぼくにとって、大江は、まぼろしの父=兄となった(これは中上建次が精神の“兄弟”であることと同じだ)

しかしこのことは、大江や中上を“神格化”して奉ることとは、まったくちがう。
これからのぼくは、彼らの“批判”に向かう。

そしてこれら二人の日本人の“外”に、ル・クレジオとデュラスがいる。
タルコフスキーとグレン・グールドがいる。
ベンヤミンとドゥルーズとサイードとギュンター・グラスと立岩真也がいる(この5人はまだぼくの“未来”の課題である)






<引用:『物質的恍惚』>

★ ぼくの死はぼくを裸にしてしまい、ぼくはぼろ切れ一つさえも身にまとっていることはできまい。ぼくがやって来たように手ぶらで、ぼくは帰ってゆくのだ、手ぶらで。


★ なぜいつまでも、感情のうちに、個々別々の力、ときには矛盾し合いさえする力があるという見方にこだわるのか?いくつかの感情があるのではない。ただ一つの、生命の形があるだけ、それが多種多様な力にしたがってわれわれに顕示されるのだ。この形をこそ、われわれは再発見せねばならない。この形、無の反対物、眼の輝きの湾、光と火との河、それは絶え間なく、弱さなしに、こうして、人を導き、引っ張ってゆくのだ、死にいたるまで。


★ ぼくが死んでしまうとき、ぼくの知り合いだったあれら物体はぼくを憎むのをやめるだろう。ぼくの生命の火がぼくのうちで消えてしまうとき、ぼくに与えられていたあの統一をぼくがついに四散させてしまうとき、渦動の中心はぼくとはべつのものとなり、世界はみずからの存在に還るだろう。諾(ウイ)と否(ノン)の対立、騒擾、迅速な運動、抑圧などの数々はもはや通用をやめるだろう。眼差しの凍えかつ燃える流れが止まるとき、肯定すると同時に否定していたあの隠された声が語るのをやめるとき、この忌わしく苦痛に充ちた喧騒のすべてが黙してしまうとき、世界はただ単にこの傷口を閉じて、そのやわらかで静かな、新しい皮膚をひろげるだろう。



<引用:『悪魔祓い』>

★ どうしてそんなことがあり得たのかよくわからないのだが、とにかくそういう具合なのだ。つまりわたしはインディオなのである。メキシコやパナマでインディオたちに出会うまで、わたしがインディオであるとは知らなかった。今では、わたしはそれを知っている。たぶん、わたしはあまりよいインディオではない。


★ なにものももはや目をだますことはない。インディオの女たちの目は、黒い入り江のようだ。青銅色の顔のなかで静かにきらめきつつ、見つめている。目は《魂》にいたる扉として見開かれることなど決してない。
わたしたちの目の残忍さと貪欲。
しかしここには、河のほとりに立って動かない若い女の、見つめている目だけがある。
<見つめている目>。


★ 指で描いてもそのままではなにものも現さず、結果を将来に委ねるこの目に見えない透明な染料を、なぜインディオは選んだのだろうか。この延期と無名性をなぜ欲したのだろうか。むろんこのインクは、装飾ではなく、魔術のしるしだからだ。身体や顔に模様を描くということ、それは気晴らしのためではなく、意識の儀式なのである。なぜなら、皮膚を変装させるのは、つまるところ人間の手ではない。そうではなくて、皮膚自身が反応して、みずから自分の模様をつくりだすのである。
★ 皮膚の芸術という驚嘆すべき芸術、生きた芸術!時の移り行きに応じて、ゆっくりと、眠っているあいだに、模様の輪郭が姿を現す。輪、三角、十字、人間の顔、亀やひき蛙や、イグアナや太陽の形、蛇や大豹(ジャガー)の姿を利用した偽装。それらは《目》である。
★ それらは、あたかも霧を通過して来るもののように、ためらいつつ、酩酊しつつ、見えない手で、《内側から》描かれて生じたもののように姿を現す。突然、皮膚は、外的な力の止むところ、物質や、樹木や、河や、生物たちの力の静止点であることを止める。肉体の深部にいる動物たちが、身をよじらせ、咆哮し、獣毛が、黒い不思議なきらめきを放つ。突然、皮膚は透明となった。それまでかつて見られなかった金属的な水の表面だ。ここで、別の風景が、新しい世界が始まるのだ。




<そして“未来”へ>

★ (私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう

しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた

(大江健三郎“火をめぐらす鳥”―『僕が本当に若かった頃』に引用された伊東靜雄の詩の一節)






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