★ 先日、ヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン天使の詩』をみて、『内省と遡行』以来の自分の仕事のことをぼんやりと考えた。これは、天使が人間の女に恋して人間になるという話である。物語としては、古いパターンであるが、ただこの天使たちは、ベルリンという都市の人々を見守ってきて、しかもベルリンがナチズムとスターリニズムのもとで荒廃するにいたるまで、無力でしかなかった天使たちなのである。つまり、天使として描かれているけれども、彼らは、ある種の人間のことだといってよい。それは、実践家ではなく、認識者であり、しかも、どんな人間的実践にも物語にも幻滅したがゆえに二度とそれに加担することがなく、ただ実践がなにも生み出さないことを確認するためだけに生きているというようなタイプの認識者である。
★ 天使たちには、地上の人々がどこにいようが見えるし、彼らの内心の声がすべて聞こえる。しかし、天使たちは、何も「経験」しないし、「知覚」しない。彼らが把握するのは、いわば「形式」だけなのだ。彼らは、人間の歴史をずっと見てきているが、一度も生きたことがない。さらに、彼らにとって、歴史は、たんに形式の変容でしかなく、なにごともそこでは起こらない。つまり、歴史は存在しないのである。映画では、彼らの世界はモノクロームで描かれており、主人公の天使ダミエルが人間になったとたんにカラーに転じる。彼は、自分の流した血をみて、はじめて色彩を経験するのだ。むろん、色彩はひとつの例でしかない。それは、いわば「形式」の外部を経験するということである。
★ 天使ダミエルは、人間になろうとする。それは、天使たることの放棄であり、有限で一回的な世界に生きることである。人間になるとは、彼にとって、他者(女)を愛することである。そのとたんに、彼は前方が見えない世界のなかで生きはじめる。それは「暗闇のなかでの跳躍」である。天使たることとは、何たる隔たりであろう。にもかかわらず、天使たちは、人間になることを欲する。それは、「外部」を欲するということである。
★ 「形式的」であることは、べつに特権的な事柄ではない。それはハイテク時代において、われわれのほとんど日常的といってよいような生の条件である。われわれは、そこでありとあらゆるものを「知覚」したり「経験」した気になっているだけで、実は天使と同じくモノクロームの世界、すなわち自己同一性の世界に閉じこめられているのである。私たちは、ブラウン管を通して血まみれの死体を見慣れているが、実際に血の色を見たことがないのだ。
<柄谷行人『内省と遡行』(講談社学術文庫1988)―“学術文庫版へのあとがき”>
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