★ 出来事の連鎖に必然の様相を帯びさせる最後の審判の視点そのものが、究極的には、偶然の選択の所産である。そこで、異なる最後の審判の視点を採用すれば、どうなるのか。それまで、存在していなかったことにされていた、過去の失敗や挫折が、存在しえたこととして見出され、しかるべき意味を受け取ることになるのだ。
★ こうした最後の審判の視点の置き換え、再選択は、しかし、歴史を専門とする学者の象牙の塔の中での知的努力の問題ではない。ある社会に内属する者として、歴史を振り返るとき、われわれは、その社会の基本構造を規定する規範や枠組みを受け入れてしまっている。言い換えれば、最後の審判の視点は、この場合、支配的な体制の視点と合致するほかない。それゆえ、過去の中の「存在していたかもしれない可能性」を救済するということは、現在の体制そのものを変換することを、つまり革命を意味しているのだ。革命は、未来を開くだけではなく、過去を救済するのである。
★ 逆に、こうも言える。「もし敵が勝てば、死者でさえも安全ではない」(ベンヤミン“歴史哲学テーゼⅥ”)。今、歴史の中で、輝かしい勝者や英雄として登録されていた死者も、革命の結果によっては、無視される敗者の方へ、遺棄されるクズの方へと配置換えになるかもしれないからだ。死者が、もう一度死ぬこともあるのだ。
<大澤真幸『量子の社会哲学』(講談社2010)>
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