Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

刹那的な

2009-12-18 13:36:29 | 日記
歴史認識の反対は、刹那主義である。

しかし歴史認識をきたえるなら、この刹那に歴史を感受することができるかもしれない。
ベンヤミンが考えていたのは、そのようなことではないか。

また<歴史>とは時間概念ではない、<空間概念>である。

ぼくらが、旅するのは、ちがう土地だけではない。
まさに、この次元を超える(越境する)


あるいは、<学>の抽象性(机上の空論)に対して、<具体物>を提示する。

解釈するのではなく、変える(変更する)


<哲学>とか<法学>とか<政治学>とか<経済学>とかに対して<具体物>を提示する。
これまで、具体物を提示してきたのが<文学>であるなら、そこから考える。<注>

まさにこれが<科学的態度>である。
<科学>と<実証主義>はちがう、まして<統計学(世論調査、アクセス数、ベストセラー、人気者!)>は。

データをいくらかき集め、“解析”しても、わからない。
脳をいくら解剖しても、わからない。

しかし<オカルト(宗教!)>でもない。

ぼくが<血と汗と涙>という言葉を使ったなら、それは“ゲルマン民族の血”とか“大和民族の血”というような<血>とは対極にある。

いま傷口からにじむ、一滴の血。
あるいは虐殺された人々から、“歴史上”流されたおびただしい“血の海”である。

あるいは、血さえ流さず、一滴の涙も乾いた人々への想像力である。

<テレビ>は、この想像力を奪った、うばっている。

汗。

言葉を打ち出すのには、汗がいる。

人間は水である。



<注>

しかし村上春樹『1Q84』には、この<具体物>がまったくないのである。
おどろくべきことである。

村上春樹の世界は、いつのころからか<オカルト>に取り込まれた。







<参考>

“刹那主義”であるぼくに<歴史認識>への関心をもたらしたのは、ベンヤミンやサイードである。
彼らを<読むこと>も、まだ“とば口”にある。

しかし彼らは“西洋”について語る、あるいは“ドイツ悲劇”について、“天使”について、“オリエンタリズム”について“パレスチナ”について。

<日本>はどうなんだ?(笑)

日本<近代>への突破口をみつけた。
前田愛(とっくに死んだ人)である。

『都市空間のなかの文学』(ちくま学芸文庫1992)

この本の、“濹東の隠れ家”、“開化のパノラマ”、“廃園の精霊”、“塔の思想”の4章を読んだだけで、そう感じた。



★ 為永春水が隅田川のほとりにつくりだした郊外の隠れ家は、江戸という都市空間のさまざまな局面をつぎつぎと開発して行くことで素材を拡大しつづけた戯作文学が到達したさいごの地点を指し示すものかもしれない。「膝栗毛」の弥次・喜多が江戸の生活を見切って東海道の旅に出発した時点で、江戸空間の現実はすでに成熟から頽廃への途を確実に歩みはじめていたとするならば、春水が発見した郊外の<自然>に健康な生命力のあかしよりも倦みつかれた江戸人の鋭敏すぎる感受性がえがきだした繊細な美学があり、それが病める江戸空間を反転させた陰画にちかいものとして見えてくるのも当然なのである。
★ また江戸空間の<制度>からの脱出の衝動が戯作文学にエネルギーを供給する源泉であったかぎりで、その枯渇と拡散の位相をあらわすものが春水の人情本だったということができる。しかし皮肉なことに、近代日本が文明開化の名のもとに江戸空間の解体作業をおしすすめたときに、「梅暦」のものがたりは江戸の幻影を垣間見せてくれる隅田川神話のひとつとして醇化されることになるだろう。荷風の「すみだ川」の一節がそれである。
<前田愛“濹東の隠れ家”―『都市空間のなかの文学』>

★ さきに私は、狐狩りの一幕が、崖下の世界にわだかまっていた「母なるもの」の原像を殺戮する祝祭劇であったといったが、歴史的な文脈のなかに置きかえてみるならば、それは文明開化の実利的・合理的な世界が、江戸空間のなかにたくわえられていたおどろな記憶を抹殺する象徴劇であったということになるだろう。劇中で「私」の父親に与えられた役割は、暗い木立につつまれた混沌の相のもとに「私」の前に立ちあらわれた崖下の世界に秩序をもたらすことであり、その多義的な意味を一義的なものに還元することであった。
★ 狐の死骸をつきつけられたとき、「母親の柔い袖のかげに顔を蔽ひかくし」た「私」が、父久一郎の生を包摂していた「文明開化」の男性的な世界から遁走を開始しようとする荷風自身を意味していたことはいうまでもない。「母なるもの」の原像に重ね合わされた江戸空間の記憶を探る荷風の長い遍歴はようやくはじまったばかりなのである。
<前田愛“廃園の精霊”―『都市空間のなかの文学』>

★ モースによれば、東京にはヨーロッパやアメリカの都市を引きしめている垂直軸のアクセント――教会の尖塔に相当するものが欠けているという。灰色の屋根の海に生気をそえているのは、寺院の巨大な屋根とそれをとりかこむ緑の木立にすぎない。それよりもモースの心をうごかしたのは、灰色の海のうえにひろがる透明な大気の印象であった。炭火の熱源で事足りていた東京の市民は、ヨーロッパの巨大都市を悩ませていた煤煙の天蓋を、まだ体験していなかったのだ。
★ これらの時計塔の鐘は、4,500メートルの有効半径をもっていたらしいから、新橋ステーションから万世橋まで約4キロにわたる街筋のどこに立っていても、その時報の音は途切れることなく聞えたはずだ。開化のメインストリートを1時間ごとに包みこむチャイムの音のひろがりは、はるかな西洋の世界から明治の日本におくりとどけられた遠い谺(こだま)だったのである。その向う側には、上野の寛永寺や浅草寺の時報の鐘が庶民の生活のなかにとけこんでいた神田川以北の下町が広がっていた。江戸の町家に一刻ごとに時報を知らせていた時の鐘を引きついだ寛永寺や浅草寺の鐘と、文明の鼓動を規則正しく刻んでいた時計塔のチャイムとは、明治初年の東京が二つの異質な時間の流れに切り分けられていたことを指し示している。旧暦にそくしたゆるやかな生活のリズムを温存させていた自然的な時間と、ヨーロッパ式の24時間制が約束する管理された均質な時間である。
<前田愛“塔の思想”―『都市空間のなかの文学』>




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