《クリスマスムードに包まれた街をカップルが行き交う12月。失恋した人にはつらい季節だ。早く次の恋を見つけてもらおうと、京都の若者らが「失恋回復手帳」を作った。気分の変化を日々記録することで自分を客観的に見つめ、恋の痛手から3カ月で立ち直りを目指す》(アサヒコム12/19)
上記はたまたま見た今日のニュースである。
ならば、以下に引用するのは、いったい、いつどこの<12月>であろうか;
★ 12月17日木曜日の夜、ビル・ボナンノとフランク・ラブルッツォは毎週訪れていたロング・アイランドの公衆電話のブースに行った。毎週木曜日にそこへ行くのは、これで6回目である。一週間後の木曜日はクリスマス・イヴにあたるので、電話のブースへ行く途中、二人は今年もこれまでと同じように各ギャング間でクリスマス停戦が行われるのだろうかと話しあった。例年のような事情であれば停戦になり、全組織のメンバーは1月1日が過ぎるまで一時的に確執を忘れるのだったが、しかしボナンノ一家に忠義立てする分子は全米の組織から資格停止の処分をうけていたために、ビルもラブルッツォも、クリスマス停戦がボナンノ派にも及ぶのか、はっきりしたことはわからなかった。二人は最悪の場合も覚悟しなければならないと心を決め、どちらもクリスマスを妻子と過すつもりはなかった。
(以上引用)
つまり上記引用もクリスマスをどう過すかについての、歴史的記述である(笑)
まあ、《全米》とかあるから、どうやら話はアメリカでのことらしい。
《ギャング》とか、《クリスマス停戦》とか、《全組織》とか、《一家》とか、《資格停止処分》とか、《最悪の場合》とかあるから、どうやら物騒なはなしらしい。
それにしてもこの“イタリア系”らしい名前の二人は、なんで、毎週木曜毎に公衆電話ブースに行っているのであろうか!
さらに読んでみよう;
★ 午後7時55分、簡易食堂の近くの駐車場に車を乗り入れ、公衆電話から2、3フィートのところに駐車した。寒い夜で、ビルはラジオを消し、ウィンドーをすこしあけて、車内で待った。空は暗く雲におおわれ、ただ簡易食堂の上の大きなネオン・サインだけが明るかった。簡易食堂の前には3台の車が駐っていて、カウンターにすわっている3、4人の客と、テーブルに初老の男女がいるほかは、店のなかはがらんとしていた。きっと料理がまずいのだろう、とビルは思った。彼が来たとき、簡易食堂が混んでいたためしは一度もなかった。
(以上引用)
さて、以上の引用個所は、この本のなんのハイライト・シーンでもございません。
これをここに引用したのは、たまたま今朝この部分をぼくが読んだからにすぎない。
そして“クリスマス”という、時節の一致。
最初のアサヒコム引用と、この引用を並べたのにも、特に意図などない。
けれども、ぼくはビル・ボナンノという名の男のまわりの、“ありふれた”この日の描写を読んで、幸福な感じがした。
つまり、12月の夜やクリスマスにもいろいろな過し方がある、ということが。
これは“フィクション”ではない。
このありふれた夜を、誰かが書かなかったら、だれも思い浮かべない。
みなさん
本を読めば、楽しいこともあるんだよ!(爆)
*引用はゲイ・タリーズ『汝の父を敬え』
上記はたまたま見た今日のニュースである。
ならば、以下に引用するのは、いったい、いつどこの<12月>であろうか;
★ 12月17日木曜日の夜、ビル・ボナンノとフランク・ラブルッツォは毎週訪れていたロング・アイランドの公衆電話のブースに行った。毎週木曜日にそこへ行くのは、これで6回目である。一週間後の木曜日はクリスマス・イヴにあたるので、電話のブースへ行く途中、二人は今年もこれまでと同じように各ギャング間でクリスマス停戦が行われるのだろうかと話しあった。例年のような事情であれば停戦になり、全組織のメンバーは1月1日が過ぎるまで一時的に確執を忘れるのだったが、しかしボナンノ一家に忠義立てする分子は全米の組織から資格停止の処分をうけていたために、ビルもラブルッツォも、クリスマス停戦がボナンノ派にも及ぶのか、はっきりしたことはわからなかった。二人は最悪の場合も覚悟しなければならないと心を決め、どちらもクリスマスを妻子と過すつもりはなかった。
(以上引用)
つまり上記引用もクリスマスをどう過すかについての、歴史的記述である(笑)
まあ、《全米》とかあるから、どうやら話はアメリカでのことらしい。
《ギャング》とか、《クリスマス停戦》とか、《全組織》とか、《一家》とか、《資格停止処分》とか、《最悪の場合》とかあるから、どうやら物騒なはなしらしい。
それにしてもこの“イタリア系”らしい名前の二人は、なんで、毎週木曜毎に公衆電話ブースに行っているのであろうか!
さらに読んでみよう;
★ 午後7時55分、簡易食堂の近くの駐車場に車を乗り入れ、公衆電話から2、3フィートのところに駐車した。寒い夜で、ビルはラジオを消し、ウィンドーをすこしあけて、車内で待った。空は暗く雲におおわれ、ただ簡易食堂の上の大きなネオン・サインだけが明るかった。簡易食堂の前には3台の車が駐っていて、カウンターにすわっている3、4人の客と、テーブルに初老の男女がいるほかは、店のなかはがらんとしていた。きっと料理がまずいのだろう、とビルは思った。彼が来たとき、簡易食堂が混んでいたためしは一度もなかった。
(以上引用)
さて、以上の引用個所は、この本のなんのハイライト・シーンでもございません。
これをここに引用したのは、たまたま今朝この部分をぼくが読んだからにすぎない。
そして“クリスマス”という、時節の一致。
最初のアサヒコム引用と、この引用を並べたのにも、特に意図などない。
けれども、ぼくはビル・ボナンノという名の男のまわりの、“ありふれた”この日の描写を読んで、幸福な感じがした。
つまり、12月の夜やクリスマスにもいろいろな過し方がある、ということが。
これは“フィクション”ではない。
このありふれた夜を、誰かが書かなかったら、だれも思い浮かべない。
みなさん
本を読めば、楽しいこともあるんだよ!(爆)
*引用はゲイ・タリーズ『汝の父を敬え』
何か起こりそうな緊迫感があって。
空気は緊張するクリスマス。
もちろん映画でもどきどきするし、現実でもどきどきするし、小説でもどきどきするが、こういうノン・フィクション(当時はニュー・ジャーナリズムといった)の”文章”というのに注目するね。
やっぱ映画には映画の、ことばの連鎖には言葉独自の魅力があるね。