Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

セザンヌの疑惑

2009-06-29 21:07:48 | 日記
サイード『故郷喪失についての省察1』の最初に収録されている“受肉の迷宮-モーリス・メルロ=ポンティ”の最後にメルロ=ポンティの“セザンヌの疑惑”からの引用がある。

この翻訳は、これで三つ目となった。
読み比べるとかなりニュアンスがちがうので、比較してみる。
ぼくは原文と比較したのではないし、仏文の読解力にも乏しいので、どの訳が“正確”かは判定できないが、“外国語を翻訳した日本語”というものが、いかに微妙であるかを知った(サイードの引用からの翻訳の原文は、当然、英語であろう)

A:サイード『故郷喪失についての省察』に引用された翻訳:大橋洋一ほか共訳

けれども彼が、キャンバスの上の色彩によって、おのれの自由を実現せねばならなかったのは、まさにこの世界においてである。彼はみずからの価値の証を、他者の賛同に求めねばならなかった。そうであるがゆえに、彼は、おのが手の下でかたちをなしてゆく絵画に問いかけたのだ。なぜわたしは、他人がわたしのキャンバスに向ける眼差しに一喜一憂するのか、と。まさにこれゆえに、彼は作品を最後まで完成しなかった。わたしたちは人生から逃れることはない。[人生に捕われた]わたしたちは、自分の観念や自由を、面と向かって見ることはない。


B:『メルロ=ポンティ・コレクション』(ちくま学芸文庫):中山元訳

セザンヌは相変わらず世界において、キャンバスの上に、色彩を使って、自分の自由を実現しなければならなかった。彼は自分に価値があるという証拠を、他者と他者による同意に求めざるをえなかった。彼が自分の筆の下で生まれてくる絵に疑問を抱き、他人がキャンバスに投げ掛けるまなざしを盗み見したのはそのためである。彼が制作をやめなかったのもそのためである。わたしたちは自分の生から離れることがない。観念も自由も、そのものを直視することはできないのである。


C:『メルロ=ポンティ・コレクション4 間接言語と沈黙の声』(みすず書房):粟津則雄訳

だがそれでもやはり、彼は、この世のなかで、カンヴァスの上に、色彩によって、おのれの自由を実現しなければならないのだ。彼はおのれの価値の証しを、他人に、彼らの同意に期待しなければならぬ。それゆえ彼は、おのれの手もとで生まれ出る絵に問いかけるのであり、おのれのカンヴァスにそそがれる他人のまなざしをうかがうのである。また、それゆえに、彼は、けっして制作をやめなかったのである。われわれは、けっしてわれわれの生を離れ去ることはない。われわれは、けっして、観念や自由を、差しむかいで眼にすることはないのである。


上記引用で、ぼくがいちばん好きな“日本語”は、さいごの“C”である。

いや、この翻訳が、いちばん“正確な”日本語だと思う。
メルロ=ポンティの思想にも忠実だと思う。


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