今日は昼から仕事に出たが、その前に読売新聞・編集手帳=“愚者の楽園”というのを読んだ。
夜仕事から帰って、ネット・ニュースを見たら62歳の“音楽プロデューサー”が自殺したとの記事。
ぼくはこのひとのファンではなかったが、ふたつのことが気になった;
a:今日はぼくの63歳の誕生日だった(笑)
b:自殺した場所が軽井沢のホテルだった。
なんかちょっとぼくに縁があるようなのだ。
つまりぼくも自殺しようと思ったら、軽井沢のホテルに行きそうだと思ったのである。
ぼくは母の“灰”を軽井沢にまいたし。
でも考えてみれば、この自殺したひととぼくには、年齢が近い以外なんの共通点もないのである。
だいいち彼は背が高い、ゆえに、脚が長かった。
ぼくは背が低く、ゆえに、脚が短い。
むかし、むかし“モーレツからビューティフルへ”というCMで、このひとが長い脚で飄々と歩く姿がカッコよく、嫉妬したものだった。
その後のことはよく知らないな、“フォークル”の北山修は精神病理学者になったんだよね。
でも、清志郎と和彦がおなじ年に死ぬとは思わなかった。
ぼくはJ-ポップなんぞになんの関心もなかったが、まあこういう同世代に近い人々の死になんの感慨がないというわけにはいかない。
《愚者の楽園》
とは、なんのことだったろうか。
そういえば今日も読売編集手帳で揶揄されている鳩山とかいうひとも、加藤和彦と同じ1947年生れではなかったか。
クリスマス前の要求攻勢に手を焼いた経験のあるお父さんはうなずくだろう。〈子供たちよ。サンタは大富豪じゃないんだぞ〉◆「秀作ネーミング事典」(日本実業出版社刊)によれば、ある銀行が雑誌広告に掲載したコピーという。子供たちを諭し、たしなめるこういうお父さんのいる家庭は堅実なやりくりが出来るに違いない。いささか心配なのは“鳩山お父さん”である◆あれが欲しい、これも欲しいと、子供たち(各府省)が競って大きな「靴下」を並べた結果、来年度予算の概算要求(一般会計の歳出総額)は95兆円台と過去最大の規模に膨らんだ◆子供手当といい、高校授業料の実質無償化といい、高速道路の一部無料化といい、靴下に入れる高価なプレゼントは鳩山お父さんが約束した品々である。約束の履行というメンツにこだわって火の車にまたがるか、メンツを捨てて「子供たちよ。今年はサンタは来ない」と告げるか、お父さんの器量が試される◆〈クリスマス愚者の楽園地下にあり 福田蓼汀〉。傷んだ家計簿から目をそむけ、プレゼントの山に酔いしれる「愚者の楽園」は願い下げである。(10月17日付 編集手帳)
ぼくは、鳩山とかいう“お父さん”が何をプレゼントするかなんぞには、トンと興味がない。
上記の文章で、気にかかったのは《愚者の楽園》という言葉だけである。
《愚者の楽園》というのは、下記ブログで引用した“ディズニーランド”のことであろうか。
あるいは“ディズニーランド”化したぼくらのこの日常、ぼくらの国や社会のことであろうか。
あるいは“それ”を先導する“マスメディア”やその手先の“芸ノージン”(タレントとかアーティストとかとも呼ばれる)のことであろうか。
《つまり、ディズニーランドが映画のスクリーンの三次元化としてあったのと同じように、現代日本社会における日常的現実も、次第にメディアによって提示される平面的な世界の拡張として経験されていくようになっていった》(昨日引用)
それが《愚者の楽園》ではないだろうか。
結局《愚者の楽園》とは、それを演出するものにとっても、その観客でしかないものにとっても、“平等な”楽園だったのだろうか(つまり“全員が”楽園に住んでいるのだから)
その楽園の内部で、椅子取りゲームし、勝ったり負けたりするものたちのなかで、“かすかに”センシティヴでありうるものに、死ははやく訪れるのだろうか。
それにしても、”あの素晴しい愛をもう一度”というのは、キツイ。
キツイぜ。
夜仕事から帰って、ネット・ニュースを見たら62歳の“音楽プロデューサー”が自殺したとの記事。
ぼくはこのひとのファンではなかったが、ふたつのことが気になった;
a:今日はぼくの63歳の誕生日だった(笑)
b:自殺した場所が軽井沢のホテルだった。
なんかちょっとぼくに縁があるようなのだ。
つまりぼくも自殺しようと思ったら、軽井沢のホテルに行きそうだと思ったのである。
ぼくは母の“灰”を軽井沢にまいたし。
でも考えてみれば、この自殺したひととぼくには、年齢が近い以外なんの共通点もないのである。
だいいち彼は背が高い、ゆえに、脚が長かった。
ぼくは背が低く、ゆえに、脚が短い。
むかし、むかし“モーレツからビューティフルへ”というCMで、このひとが長い脚で飄々と歩く姿がカッコよく、嫉妬したものだった。
その後のことはよく知らないな、“フォークル”の北山修は精神病理学者になったんだよね。
でも、清志郎と和彦がおなじ年に死ぬとは思わなかった。
ぼくはJ-ポップなんぞになんの関心もなかったが、まあこういう同世代に近い人々の死になんの感慨がないというわけにはいかない。
《愚者の楽園》
とは、なんのことだったろうか。
そういえば今日も読売編集手帳で揶揄されている鳩山とかいうひとも、加藤和彦と同じ1947年生れではなかったか。
クリスマス前の要求攻勢に手を焼いた経験のあるお父さんはうなずくだろう。〈子供たちよ。サンタは大富豪じゃないんだぞ〉◆「秀作ネーミング事典」(日本実業出版社刊)によれば、ある銀行が雑誌広告に掲載したコピーという。子供たちを諭し、たしなめるこういうお父さんのいる家庭は堅実なやりくりが出来るに違いない。いささか心配なのは“鳩山お父さん”である◆あれが欲しい、これも欲しいと、子供たち(各府省)が競って大きな「靴下」を並べた結果、来年度予算の概算要求(一般会計の歳出総額)は95兆円台と過去最大の規模に膨らんだ◆子供手当といい、高校授業料の実質無償化といい、高速道路の一部無料化といい、靴下に入れる高価なプレゼントは鳩山お父さんが約束した品々である。約束の履行というメンツにこだわって火の車にまたがるか、メンツを捨てて「子供たちよ。今年はサンタは来ない」と告げるか、お父さんの器量が試される◆〈クリスマス愚者の楽園地下にあり 福田蓼汀〉。傷んだ家計簿から目をそむけ、プレゼントの山に酔いしれる「愚者の楽園」は願い下げである。(10月17日付 編集手帳)
ぼくは、鳩山とかいう“お父さん”が何をプレゼントするかなんぞには、トンと興味がない。
上記の文章で、気にかかったのは《愚者の楽園》という言葉だけである。
《愚者の楽園》というのは、下記ブログで引用した“ディズニーランド”のことであろうか。
あるいは“ディズニーランド”化したぼくらのこの日常、ぼくらの国や社会のことであろうか。
あるいは“それ”を先導する“マスメディア”やその手先の“芸ノージン”(タレントとかアーティストとかとも呼ばれる)のことであろうか。
《つまり、ディズニーランドが映画のスクリーンの三次元化としてあったのと同じように、現代日本社会における日常的現実も、次第にメディアによって提示される平面的な世界の拡張として経験されていくようになっていった》(昨日引用)
それが《愚者の楽園》ではないだろうか。
結局《愚者の楽園》とは、それを演出するものにとっても、その観客でしかないものにとっても、“平等な”楽園だったのだろうか(つまり“全員が”楽園に住んでいるのだから)
その楽園の内部で、椅子取りゲームし、勝ったり負けたりするものたちのなかで、“かすかに”センシティヴでありうるものに、死ははやく訪れるのだろうか。
それにしても、”あの素晴しい愛をもう一度”というのは、キツイ。
キツイぜ。
それにしても、加藤和彦の件は衝撃でしたね。軽井沢ですか・・・、首吊りですか・・・。
warmgunさんの誕生日だというのに非常に複雑な心境になっております。
そして、奇しくもこの17日に僕はブログのタイトルを変更しました。
何かの分岐点となるような、不思議で形容し難い17日でした。
63歳のwarmgunの初コメントを君に送る。
君のこのコメント及び最新ブログを読んで、“スモール・カフェ”という曲を思い出した。
むかし、FMの坂本龍一の番組で聴き、CDを買ったのだった。
今は、押入れのダンボール箱の中にあり、忘れていた。
作曲は坂本?加藤の不安定なヴォーカル(浮遊するヴォーカル)がよい。
しかし彼ら、ぼくの“同世代(近接世代)の現在”というものに、(当然)ぼくは違和感を感じる。
かれらの“青春”の情念、反ニッポン的感性はどこへ行ったか?
かれらもまた、結局、商業主義に取り込まれた“有名人”に納まってしまったダケではないのか。
もし彼らが、かれらのデリカシーあるいはセンシビリティすなわち、反逆-批判の意志を持続したなら、ニッポンの音楽シーンは、現在のようなていたらくではありえなかった。
彼らが“ミュージシャン”でしかなかったから、かれらの“ロジック”が弱体だったのだろうか?
そうだと思う。
また彼らが“豊か”になったこと、かれらが“有名人”になったことが、彼らを弛緩させたのだろうか?
そうだと思う。
ぼくは昨日コメントで“文学に依拠する”と書いたが、これは“音楽に依拠する”でも、“映画(映像)に依拠する”でも同じだ。
ぼくが哲学や社会科学を参照(勉強)しているのは、“その根拠”を見出す(明確化する)ためだ。
結局、“ただひとつの生”しかない。
これは“ただひとつの世界しかない”ということと同じだ。
その“ただひとつ”が、混沌とカオス的に渦巻いているのだ。
“ジャンル”は、方法にすぎない。
もしミュージシャンがミュージシャンでしかないのなら、彼らは“すでに”敗れていたのだ。
あるいは“カタログ収集家”でしかないなら、彼らは、すでに敗れていたのだ。
ぼくは“古典”を尊重するが、“新しい感性”を信じる。
それは文学においては、デュラスのようなひとびとによってもたらされたのだ。
そして、音楽においては、やはりビートルズにはじまる、“ロック革命”の意味が、いまもって理解されていないと考える。
それは、グールドのバッハにおける“感性”でもあった。
つまり“感性”という概念が、“論理的な言葉”に拮抗し、それを変革するということの“リアル”がである。