Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

デリダ

2010-01-04 12:14:49 | 日記


★ 『共産党宣言』では、『ハムレット』と同じように、「すべては幽霊の出現からはじまる」のだ。

高橋哲哉『デリダ-脱構築』(講談社“現代思想の冒険者たち”オリジナル1998、新版2003)からの引用である。

この引用が出てくるのは、デリダ『マルクスの亡霊たち』の“解説”部分である。

この引用の前に、すでに、この『マルクスの亡霊たち』という本が、
《The time is out of joint.》
というハムレットのセリフに“魅入られたかのようだ”と高橋氏は書いている。

時代の、あるいは時間の<関節が外れてしまった>

まさに、“ぼくらの時代”は、<関節がはずれてしまった>。

しかし、いったい“ぼくらの時代”とは、いつから始まったのか?(これはぼくの問いである)

ハムレットの<時代も>関節は外れていたのであった。
この<関節が外れた=脱臼>について、高橋氏は、ハイデガーとデリダの“ちがい”を述べる。
すなわち、ハイデガー“も”アナクシマンドロスの断片の解釈において、“out of joint”について述べている。
しかし、
★ この世の、時代の、時間の関節が外れていること、out of jointあるいはUn-fugeが、ハイデガーにとっては不正の極みであるのに対し、デリダにとっては正義のチャンス、正義の可能性なのである。

★ out of jointあるいはUn-fugeとしての脱-臼とは、脱-構築そのものだといえるかもしれない。他者との関係が開かれるためには、「われわれの現在としての現在」の安定性が破られ、「私の生あるいはわれわれの生」の調和が破砕されてしまうような、アナクロニック(反時間的)な契機が介入してくる必用がある。いいかえれば、存在と時間の秩序を撹乱し、一者あるいは全体性への「結集」の運動に乱調をもたらすもの、それこそ他者の到来であり、ここでは幽霊的他者の到来なのだ。


上記の高橋氏の文章(エクリチュール)につづいて、デリダ自身の引用がある;

★ ここに告げられるのは、つねに、贈与と脱構築不可能な正義の思想としての脱構築であるだろう。この正義は、あらゆる脱構築の脱構築不可能な条件であるが、それ自身、脱構築の状態にあり、Un-fugeの脱臼状態にとどまり続ける、また、とどまり続けねばならない――これは命令である――条件である。そうでなければ、正義は、義務が果たされたという潔白意識に安んじて、未来の、約束の、呼びかけの、そしてまた欲望(すなわち、それ「自身の」可能性)の、(同定可能な内容とメシアなしの)砂漠のメシアニズムのチャンスを失ってしまう。[・・・・・・]メシア的なもの、すなわち他者の到来、正義としての、到来するものの絶対的で予見不可能な特異性。このようなメシア的なものこそ、マルクスの遺産の抹消不可能な――抹消できないし、すべきでもない――マークであり続けるし、おそらくは継承することの、遺産継承=伝承一般の経験のそのようなマークであり続けると、私たちは信じている。
<ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』>


上記の引用文だけで、“わからない”と思ったひとは、<健康>である(笑)

実はぼくも、この高橋氏の“デリダ解説書”を、再読した。
前に、断続的に読んで一応読了したこの本を、この正月、一気に読んでいる(まだ数10ページ残っている)

この高橋哲哉氏の“解説=読解”だけが、唯一の読解ではありえないし、そもそも“他者を読む”ことに、<正解>などない。

けれども、この本はよい本だと思う、ぼくも<デリダ>へ向かうことが、できる。


《すべての他者はまったき他者だ》

《応答することからはじめなければならない》





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