Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

真面目と不真面目;もっと笑え

2009-11-09 10:53:27 | 日記
ぼくのブログ歴は、まる5年ほどになるが、この間、<笑うな>というタイトルのブログを2本書いたと思う。

だが、<笑え!>というブログは書いたことがない。

たとえば、“ひとのセックスを笑え!”
“なんてみっともなくて、無様なセックスなんだろー”と笑えるのである。

笑うという“行為”は、“私という現象”の発露(ハツロ=よい言葉だなー)なんである。
つまり、なにを、いつ、どこで“笑えるか”が、<自由>ということなんだよ。

“だから”ぼくは、<みんなで笑う>のが好きじゃない、“笑っていいとも”は全体主義である。
他人に演出されて、あるいは、隣の人が笑っているから、おかしくもないのに“生理的に”笑ってしまうなら、それは、インフル感染と同じである。
<笑う>というのは人類だけに可能な、高度な知性なのである。

ぼくにこういう高度な感想をもたらしたのは、昨夜見た古い映画「ホテル・ニューハンプシャー」である。
(ちょっとWik.で調べる)
ジョン・アーヴィング原作1981年、映画化1984年である。
監督トニー・リチャードソン、なるほどね、ただものではない(この程度のことを知らんで、映画について語るな;笑)
出演=ジュディ・フォスター(当然まだ若く輝きアリ)、ロブ・ロー(同様、つい最近「セントエルモズ・ファイア」も見たよ)、それにぼくの贔屓の“ナタキン”(ナスターシャ・キンスキー)
この“ナタキン”を語るだけで、“映画”が語れちゃうね(このひとのお父さんが“吸血鬼”だったことや、「パリ、テキサス」でのナタキンの“声(ハスキー)”について)

この映画は、“アメリカの家族”を描いている。
こう書いても、この手の映画は、それこそゴマンとあるワケ。
そのほとんどが退屈なワケ。
ぼくはその手の、家族ヒューマンドラマが大嫌いです。

この映画(読んでないが原作も)は、ことごとくその反対世界を創出している、だから快感である。
だいいち“ホテル”というのがよい。
“ホテル”というのは、リゾートの超高級ホテルから、いかがわしいゴキブリが生息する四流ホテルまでを含む多様な世界=宇宙である。
だいいちホテルというのは、人間の基本的生存の機能のみに特化している。
そこで一番重要なのは“ベッド”であり、ベッドでなにをするのかは、みなさんご存知の通りである(何、ベッドで“眠る”ことしか、あなたはしたことがないのか!)

この家族の夢想的な父は、ウィーンまでいって(友人“フロイト”の招待で)、ホテルを経営してしまい、“テロリスト”による事件に巻き込まれて“盲目”になってしまう。
“母と末っ子”は事故で死ぬ。
この家族の子供たち=兄弟姉妹が、“ユニーク”なのである。
学園で自分をレイプした男を慕う姉。
ずっとこの姉と“近親相姦”したい弟(その願望は徹底的に成就するであろう!)
背が伸びず、作家デビューで成功するが、2作目が不評で、“成長しないでごめんなさい”という遺書を書いて自殺する次女(この娘、かわいい!)

もちろんこの“映画=おはなし”は、リアリズムではございません。

しかし、これをアイロニーとかブラック・ジョークと呼んではならない。
ここには、なにか、もっと“静謐=真面目”なものがあるね。

舞台が“アメリカ”だけでなかったのも、よい。
“ナタキン”はヨーロッパ系の女優だし。

1980年代。
まだアメリカには、自由があった、知性という名の自由が。

たしかに“この間”(つまり80年代からの30年間で)いちばん“変わった”のは、“アメリカ”自体であり、それに“追随”する“ニッポン”であった。

とくに“9.11”以後、アメリカという国にはまったく<自由>が感じられない。
“オバマ”というのは、この自由の抜け殻、自由のパロディのように感じる。
ニッポンでもかつて天皇が危篤になったとき、社会全体が<自粛>ムード一色に染まったが、現在のアメリカは、もっと大規模な<自粛国家>と成り果てた。

まったくの“無知性”的沈黙を、マネーの無言の循環が駆動している。
さわぎたてる“メディア”自体が、圧倒的な無意味=無言に支配されているのだ。

要するに“アメリカ合衆国”は、かつて、もっと面白い国だったのである。
このアメリカの“帝国化”による“退屈化”と、現在ニッポン国の白痴的退屈さは、まったくパラレルであると感じる。

すべてが“ラップ”に包まれてしまったように感じる。
<生(ナマ)なもの>がどこにもないのだ。

“脳味噌”自体がラップされた人々が、“ラップされた”言語をしゃべる。
“ラップされた笑い”で、何万人の人々が同時に笑っている。

まさに機械人形のような、奇妙な音声とイントネーションでしゃべるひとびとが、今日も街にあふれる。

ぼくは、機械人形ではなく、<人間>が見たい。
<人間>の声が聞きたい。

つくづく、切に、ねがう。

人間とは、かつて、もっと自由な存在であった。




<追記>

このアメリカ“帝国”による世界支配は、たんに経済的-軍事的-国際政治的支配のみを意味しない。

それはあらゆる<学>、あらゆる<観念>、あらゆる<哲学>、あらゆる<事務処理>、あらゆる<臨床>における支配である。
あらゆる<事実認識>、あらゆる<現実認識>、あらゆる<実証>、あらゆる<空想>、あらゆる<歴史認識>、あらゆる<夢>の支配である。

あらゆる<文化(カルチャー!)>、あらゆる<言説>、あらゆる<映像>、あらゆる<音楽(ミュージック!)>における支配である。
あらゆる<セックス(性行為!および婚姻形態!および家族主義・家族イデオロギー)>の支配である。

つまり<肉体>と<魂>の支配である。

“9.11”以後露出したのは、“ピューリタニズム”の退屈道徳(ゴリゴリ保守)である。

“ピューリタニズム”は勤労・節約を旨とする。
勤労しない人間は、ゴミである。
効率を追求しない人間はクズである。

“役に立たない人間”は、廃棄せよ。
“つつましく・地道な”勤労者のみがパンを得る。
つつましく・地道に勤労して、たくさんの商品を生産し、つつましく・地道に勤労するものが稼ぎ出すカネを上回る商品を売りつけよ。

すなわち<商品>がモノである必要はなく、それが<カネ>であっても<幻想>であってもよいのである。
カネがカネを買い、無限にこのカネ-カネ・ループが増殖・循環していればよいのである。

カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-幻想--カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-カネ-幻想-・・・・・・・(無限循環)


<魂>の問題は、とっくに、すべて、<神>さまにまかせてあるから、<人間>はそれについて考える必要もなければ(それは神に対する傲慢だから)、みんなおまかせして、ひたすら<カネ>と<健康=長生き>のことだけを考えればよいのである。


だから、

もっと笑おう!





<さらに>

しかし、とにかく、ぼくも生きねばならぬ(爆)

“だから”、
バイトで雀の涙を稼ぎ(経営の厳しいNPOに感謝しよう!)、商品を買ったり、幻想を買うのです。

最近のぼくの読書は、真面目な本ばかりで、息切れが・・・・・・(笑)

アーヴィングを読んでみよう!
80年代ぼくは『ガープの世界』を読みかけて、放り出してしまった。

新潮文庫のカタログでアーヴィングを引く;
★ 『ガープの世界』上、下(平均760円)
★ 『ホテル・ニューハンプシャー』上、下(平均720円)
★ 『未亡人の一生』上、下(平均840円)
★ 『オウエンのために祈りを』上、下(各900円)

『ホテル・ニューハンプシャー』から読もう。
『未亡人の一生』というのも興味をそそられるね(笑)



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