★ 日本という国は、雨が本当に美しい国だと思います。
★ 映画がわたくしたちの現実の表象において演じている役割に、わたくしは深く感銘を受けました。わたくしたちにとっての現実は、わたくしたちが直接に見ているもの以上のものです。
★ われわれの現実の表象のなかでの映画が演じる役割のこの重要性は、ヌーヴォ・ロマンの作家たちの特徴のひとつであるとわたくしは考えます。
★ 技術の分野において、映画が新しい技術と戦うことはできません。映画が戦うことができるのは、質の領域においてのみです。すなわち別の種類の観客に対して訴えかけるような、質のレベルで競争することしかできないのです。映画が映画として存在していくためには、映画はますます作家主義の映画、作家の映画とならなければならないでしょう。作家の映画とは、監督が努力をして、できるだけ大きな自由を表明しようとする作品のことです。
★ 作家の映画という時、作家という言葉を複数にするべきではないかと思うのです。なぜなら、映画をひとりではつくることはできないからです。作家たちの映画と言うべきでしょう。監督は自分の周りにいる人々に多大な依存をしています。映画作品とは、何人かの人々の間の共同作業の産物です。それはすでに、書物についても同様でした。
★ 芸術作品は、すべて個人的なものであると同時に、集団的なものです。芸術作品のなかにはさまざまなひとが関わってきます。そして、そのなかから、単数の個性、あるいは複数の個性を表出するのです。同じようにわたくしは、今日みなさんの前で講演をさせていただきました。けれどもこの講演の作者は、わたくしひとりではありません。
<ミシェル・ビュトール“映画について、小説について”―2008年9月、東京日仏学院での講演(『早稲田文学』2号に掲載)>
《わたくしたちにとっての現実は、わたくしたちが直接に見ているもの以上のものです。》
それなら、《わたくしが見ている現実》にふくまれる<私>もまた、《直接に見ているもの以上のもの》ではないだろうか?
“ありえたかもしれない自分”と出会う。
<ビュトールの本>
すぐ入手可能なもの;
* 『時間割』(河出文庫2006)
* 『心変わり』(岩波文庫2005)
絶版(→古本で入手せよ)
* 『ミラノ通り』(竹内書店)
* 『段階』(竹内書店、集英社世界の文学)
* 『合い間』(岩波現代選書1984)
* 『即興演奏』(河出書房新社2003)
* 『ビュトールとの対話』(竹内書店1970)
* 『ディアベリ変奏曲との対話』(筑摩書房1996)
* 『絵画のなかの言葉』(新潮社・創造の小径1975)
* 『モンテーニュ論』(筑摩叢書1973)
* 『中心と不在のあいだ』(朝日出版社・エピステーメ叢書1983)
* ”エジプト-『土地の精霊』より”(新潮社・フランス文学13人集4-1966)>
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