★ ミシェル・ビュトールの大胆さは、なにも既得のものにしないこと、なにも持たないことにあります。
★ それは私たちのものの見方、理解のしかたを変えること、人間の関係を変え改善すること、自然や動物に対する私たちのまなざしを変え、彼らとべつのつながりを持つことを学ぶことです。これらすべてのことは私たちが言語や諸言語との関係を変えないと実現できません。
★ 《私たちの言語状況から、近くすべての文学ジャンルが徹底的に変化するだろうと予想される。私たちは文学史のはじまりにいる》
★ 《私は関係の変化の中に入っていくだろう。私の旅はその表現であり、私以外にも多くの人々がそこに行き、聞き、尋ねるだろう。(……)私たちは始まりにいるに過ぎない》
★ 《幸福とは、我々に対してつねに施錠し閉ざされようとしている世界の開口部である》
★ ミシェル・ビュトールが「もののあはれ」、すべてのものの中で「ああ!」と言わせるものに見出すのは、存在の古代の言語です。そのアーカイブです。
★ ビュトールはこれらのページで、固定観念を覆すひじょうに強いなにかを提示しています。すなわち「真正さ」は、同一であるもの、一義的なもの、自己完結の問題ではないということです。それを敷衍して、国家主義や独我論や共同体主義も退けられます。「真正さ」は異邦人とともに、異邦人のかたわらでのみ存在します。「他者という証による通過」のなかに存在するのです。
★ 「あはれ」、この名付けられる以前の、知の獲得以前の裂開は、世界の隠れた面であり、それは、我知らず夢が実践する難解なコラージュが存在の隠れた面であるのと同様です。従って、夢の空間は、いかなる論理をもってしても『土地の精霊』の極限の場なのです。
★ 完全に他者に向かう自画像。他者たちのかくも遠くて近いあわいの中に自分を見つけることに魅了された自画像。
★ 《作家は差異をつくることができなければならない》
★ あまりにも見てきたために、もはや我々が見るすべを知らないもの、まさにそれが、文学が与えてくれる異邦人の視力の力によりよみがえることでしょう。『土地の精霊2、どこでもない場所』がすでにそれを讃えていました。
★ 《その時、私は自分が異邦人であるかのように、君を味わってみるだろう。地球の向こう側から突如やって来て、初めて君を発見したかのように、そして、「前世では、私はここに暮らしていたに違いない。これらすべてを知っていた。どんなに小さな車止めも、どんなに小さな煙突も、どんなに小さな水たまりも、血の跡も。」と考えているかのように、君を味わってみるだろう》
<ミレイユ・カール=グルバー“ミシェル・ビュトールの文学キット”―2008年9月立教大学で開催されたビュトールをめぐる国際学会での基調講演(『早稲田文学』2号に掲載)>
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