トリビアなことかもしれないが、昨日自分が書いたブログのタイトルを見て気づいた。
<国家に殺されるひと>である。
このブログの“きっかけ”は、<林被告「国には殺されたくない」>であった。
なにが問題なのか。
<国家>と<国>である。
ぼくは、ふかく考えて<国家>と書いたのではない(“邦”という表記もある)
しかし“くに”とか“国”とか“国家”というのは、いったい“何”であるのか。
前のブログで書いたことがあるのだが、ぼくは、電子辞書“ジーニアス和英辞典”で<国家>を引いて、びっくりしたのだ;
state:(主権を有する)国家、国;(しばしば)国政、政府
nation:(民族または政治的結合体としての)国、国家
country:(地理的な意味での)国、国家、国土
* countryは地理的な国土としての国、nationは歴史的共同体としての国民からなる国、stateは法律的・政治的な概念としての国家をさす
この定義が絶対かどうかはしらないが、かなり明瞭な定義がなされていると思う。
ならば、ぼくたちがふだん“国とか国家”とか呼んでいる(書いている)ものは、上記の“どれ”なのだろうか。
また上記辞書にもあった<民族>とは、どういう“意味”なのだろうか。
これもジーニアスで引いてみる;
people:人種、民族、(形容詞的に)人種の
nation:(集合的に;単数・複数扱い)共同体、民族、種族、《共通の言語・歴史・宗教・文化を持つ人々の共同体。必ずしもひとつの国家を形成しているとは限らない》
さて、<民族>と<人種>はどうちがうのだろうか。
広辞苑でも引いてください(笑)
ぼくはここで、“辞書”の批判をしているのではありません。
ぼくたちは、こういう“言葉”(概念)の定義を、いつ習ったのでしょうか。
ぼくたちは、こういう言葉=概念を、わかった上で使用しているのでしょうか。
この“ぼくたち”には、もちろん、マスメディアや学者先生も含まれます。
だからぼくは、“基礎の基礎が大事”と思うのであります。
さらに“感覚的な”違和感を表明します。
このブログのタイトルにしたことです;
“なぜ“国家”には“家”がふくまれるのか“
つまり、今日の天声人語と読売・編集手帳は、またしても同じ“テーマ”を扱っています。
“世襲”とか“親の七光り”とかの問題です;
《▼高い枝に果実がぶら下がっている。普通の身の丈では手が届かない。そこへ親譲りの竹馬に乗った者が現れて悠々と実をもいでいく――。それが世襲の印象だ。竹馬どころかクレーンのように盤石な七光りも多い。ここ3代の首相など、そのくちだろう》(天声人語)
《◆紀文二世ばかりの国会では困る。さりとて未来の名宰相になるやも知れぬ器が、世襲だからと野に埋もれてもまた困る。「じつにどうもむずかしいもので、てへッ」と、円生さんの声が聞こえてきそうである》(編集手帳)
しかし“世襲”や“親の七光り”というのは、“政治家”の問題だけではない。
“家系”の問題なのだ。
日本という<国>の象徴的中心にいる“家系”が、“万世一系”であるなどという虚偽を担っている<国家>において、どうしてあらゆる“虚偽”を否定することができるのだろうか。
虚偽を告発する“ゲーム”だけが、延々と繰り広げられているだけではないのか。
この国でない国については、また別の話である。
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