Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

4分間のピアニスト

2009-04-23 09:16:18 | 日記

数日前、テレビで「4分間のピアニスト」という映画を見た。

例によって、ぼくは映画の解説を書くのが、面倒なのでWikipediaから引用する;

『4分間のピアニスト』(Vier Minuten)はクリス・クラウス監督、モニカ・ブライプトロイ、ハンナー・ヘルツシュプルング主演の2006年のドイツ映画である。
キャスト
· モニカ・ブライプトロイ:トラウデ・クリューガー
· ハンナー・ヘルツシュプルング:ジェニー・フォン・レーベン
· スヴェン・ピッピッヒ:ミュッツェ
· ヤスミン・タバタバイ:アイゼ
· リッキー・ミューラー:コワルスキー
あらすじ
80歳のピアノ教師トラウデ・クリューガーは、女性刑務所内で、殺人罪の判決を受けた21歳のジェニーと出会う。ジェニーは天才ピアニストと騒がれた過去があったが、道を踏み外し、刑務所内でもたびたび暴力を振るう問題児となっていた。しかしジェニーの才能を見たトラウデは、所長に頼み込んでジェニーとの特別レッスンを始めた。
(以上引用)


ぼくはドイツ映画にもドイツ俳優にも、最近の映画全般にも詳しくない。
またこの映画の公開当時、日本でどういう反響があったかもしらない。

ぼくは、ただなんの予備知識もなく、この映画を見たのだ。

そこで感じたことは、大雑把に言えば以下のようなことだった;

① この映画は、最近ぼくがテレビで見ているアメリカ映画(ドラマ)や日本映画や韓国映画と、ずいぶん“ちがう”のだが、それはどうしてか?
② ドイツ(ヨーロッパ)における“クラシック(音楽)”の意味


ぼくは①で、“ずいぶんちがう”と書いたが、この“ヨーロッパ映画”は、ぼくがこれまで愛好してきた“ヨーロッパ映画”とも、ちがっているところと、ちがっていないところがあった。

全般の印象をひとことで言えば、この映画を、ぼくはそれほどいいとは、思わなかった。
展開が図式的で、とくにクライマックスのラストの“4分間”のピアノ演奏(パフォーマンス)もわざとらしく感じられた。

つまり“ハリウッド的”である。
そうけなしたうえで、やはり、ヨーロッパ映画の伝統の片鱗(すなわち長所)について書きたい。

ひとことで言えば(陳腐な言葉で申し訳ないが)、この映画の登場人物(ピアノ女教師とその“弟子”になる少女)には、情熱がある(つまりこの情熱が映画として表出されている)

この“情熱”こそ、「24」の主人公やウディ・アレン映画の主人公が決して持ち得ないものである。
もちろんスピルバーグ映画の主人公も、イーストウッド映画の主人公も持ち得ない。
(アメリカ映画であっても、ペキンパーやカサヴェテス映画の人物たちは“これ”を持っていた)

いったいこの“情熱”とは何であるのか?

これまた陳腐な考え(ぼくの)であるが、それは“伝統”(歴史的“文化”の厚み)ではないのか。

ゆえに、“クラシック”が問われる。

ぼくはクラシック音楽の愛好家ではない(どちらかというとロック・フリークである)

しかし、こういう映画を見ていると、ぼくのふだん聴かない(つまり好きじゃない)シューマンだかシューベルトだか分からない“音楽”がこころに沁みるのであった(笑)
もちろん“たまに”知っているモーツアルトのピアノ曲が出てくれば、カイカン!であった。

もちろんこの映画は、ぼくのようにピアノが弾けず、それを“鑑賞”するようないいかげんなひとの映画ではないのである。

“自分で弾くひと”の映画なのである。
しかも老教師は、フルトヴェングラーの弟子であったらしいし、刑務所にいる少女は“天才ピアニスト”の可能性があるのである。

この映画の最初のほうに、老教師が凶暴少女に言う印象的なセリフがあった。
うろおぼえだが、“わたしはあなたを良いひとにすることはできないが、良いピアニストにすることはできる”というふうなものであった。

このセリフ自体も“重層的な”意味を持つだろう。

もちろんこの凶暴少女の“現在”と老教師の“過去”(ナチス体験とレズビアン)というよなことに“意味”を感じる人がいてもよいのである。

つまり、このような“意味”を、“ああまたか”と感受することも、再度、なにかを考えはじめるきっかけにすることも可能である。

しかし、“ドイツだから”、ナチという過去があるのではないだろう。

ぼくたちの“過去”というのは、いずれにせよ、不気味なものの重層性としてある。
それが伝統であり、文化であり、歴史である。<注>

その“厚み=重層性”を、現在において感受できるか否かが、たぶん、“文化の差”なのである。

自分の感覚の核に、“それ”をもちうるか否か。
ぼくはふだん、“この日本”をバカにしているが、それは“現在”の状況のことであって、この場所の歴史的重層性は(ただしく感受するなら)けっして、“みすぼらしい”ものではないと思う。

ただ、その重層性を感知する回路は、ますます閉ざされつつあると感じる。



書き忘れた。
この映画のウェッブ・サイトを見たのだ。
そのキャッチ・コピーは以下のようであった;

《弾く時だけわかる。何のために生まれてきたか》



<注>

もちろんこの“文化=カルチャー”というのは、危険な言葉(概念)である。

単純なはなし、ひところ“カルチャー”と“サブカル”の差異というようなことが問題であった。
最近、なぜかこの問題は消えてしまった。
サブカルがカルチャーを圧倒した(消滅せしめた)のであろうか。
そんなことは、ないのである。
なんかたいそれた“大美術展”などには、たくさんの人々が(今も)押しかけているらしい。

しかし、ぼくにとっても“そんなこと”は問題ではないのである。
だいいち、“映画”について、純粋芸術映画と大衆娯楽映画の差異を論じてもたいして意味はないと思う。

つまり、ぼくにとっては、映画は映画である(よい映画と悪い映画がある)
もし映画を、“低次元のカルチャー”として軽蔑するひとが“まだ”いるなら、その人が馬鹿(鈍感)なだけである。

もしクラシック(音楽)より、ロックが良い音楽だなどというのなら、このロック・フリークのぼくはそのひとを、ただ軽蔑するだけだ(逆もいえる)

まさに現在のぼくらは、ジャンルなど無視した重層的・ゴチャマゼ的“カルチャー”を貪婪に感受すべきだ。
“カルチャー”の唯一の定義は、この混沌的エネルギーの運動そのものである。
それは時間と空間を越境する。
ひからびた固定観念を超えていくのだ。


昨日よい言葉を読んだ;

《やがて去ってゆく旅行者として見る時、人生の快楽は増してくる》

この言葉はE.M.フォースターが自分の著書に引用したフィロンというひとの言葉だそうだ。
ぼくがこの言葉を読んだのは、フォースター『アレクサンドリア』(晶文社1988)の最後に付された“方法としてのアレクサンドリア”という鶴見俊輔氏と長田弘氏の対談においてだった(その鶴見氏発言)


ぼくはなかなか、この人生を“快楽”として感じられないのだが、残りの人生をこの言葉のように生きられたら、と思うのだ(笑)


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1 コメント

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Unknown (uud)
2009-06-30 08:47:56
・や!励蔓・祉r・≪~懌サ諞溘%・!・fャ・メ・cヮ烙昶!・@・・蚕苒鯛!吮"銀!蚊>瘁吾~懌!障□痿昶!・"銀!・i・≫!昶!・査・悟E・洪鐚亥(阪ぁ鐚俄!・□・鯛!с≠・銀 ・

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