Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

テレビで中継される世界

2010-10-21 08:15:46 | 日記


今日の‘あらたにす’新聞案内人=西島雄造(ジャーナリスト、元読売新聞芸能部長)を読んでみよう;

☆ チリ・コピアポのサンホセ鉱山落盤事故現場は、まるで野外劇場と化した。事故の映画化も目論まれているというが、CNNやBBCによるテレビ中継を通じてとはいえ、視聴者が体験したこれほどの臨場感を、改めて映像化するのは、至難の技だろう。
☆テレビが通信衛星を介して初の日米同時中継を試みた1963年11月23日朝6時(日本時間)。ジョン・F・ケネディ大統領の演説は、『ダラスの悲劇』を伝えるニュースにとって代わった。その2年前の5月、大統領自身が「60年代にわが国は、月に足跡を残して地球に帰還する」ことを約束したアポロ計画に基づき、69年7月20日、アポロ11号は月面着陸に成功。人類が月面を歩く、その中継映像を世界が共有した。
(以上引用)


ということで、この文章のテーマは、テレビが世界を中継するということであるらしい。

たとえば、上記にある“ダラスの悲劇”とか“人類が月面を歩く”を、ぼくはテレビで見た、“2001.9.11”も見た。

そういう映像について自分がそのとき感じた“衝撃”を語ることもできるだろうが、むしろぼくが今思うのは、そのとき、ぼくは“世界を見たのだろうか?”という疑問である。
なにも見ていなかったのではないか。

上記の(長たらしい)西島雄造(ジャーナリスト、元読売新聞芸能部長)の文章の最後も以下のように結ばれている;

☆<命のカプセル着々「神が引っ張ってくれた」><地底から奇跡の生還><救出劇 世界沸く><家族が勇気くれた>と新聞各紙に躍った見出しにうなずく日々だった。
<絶望から希望へ>と、全員生還の感動を新聞が伝えた同じ15日、朝日の朝刊《時時刻刻》は<アフガン戦争10年目>を特集していた。記事は「米軍など外国軍の戦死者が今年、既に580人以上と過去最悪を更新」と記していた。
人類の行動は、いぜん矛盾に満ちている。
(引用)


《人類の行動は、いぜん矛盾に満ちている》というのが“結論”である。

しかしいったい《人類の行動が矛盾に満ちていない》ということは、どういう事態なのだろうか。

そういう<世界>が実現することがあるのだろうか。
そういう世界を“実現すべき”なのだろうか。
“実現すべき”なら、どうすればよいのだろうか。

テレビで中継される世界に、新聞で報道される世界に、《うなずく日々だった》という“世界認識”で、よいのであろうか?

そもそも、“この世界には矛盾がある”ということを認識するのは、たんに“世界を認識する”ことではないのだろうか。

すなわちぼくたちは、<たんに世界を認識して>いるのだろうか?

新聞やテレビを通じて、殺到する<世界>は、そもそも<世界>を“中継して”いるだろうか。

あるいは、その<映像>や<文章>を、ぼくたちは、ほんとうに“読めて”いるのだろうか。

“元読売新聞芸能部長”という肩書きを持つ“老人”は、自分のキャリアの最後に、《人類の行動は、いぜん矛盾に満ちている》と詠嘆して“終わる”だけなのだろうか?

“ジャーナリスト”とは、何をする人々なのか。

“ジャーナリストでない人々”は、ただ彼らが“中継する”世界に、《うなずく日々だった》でよいのであろうか。





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