Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ATG、悪魔、天使

2009-11-03 20:23:39 | 日記
先日“日本映画専門チャンネル”で『尼僧ヨアンナ』を見た。
この映画はATGで最初に公開映画されたポーランド映画である(なぜか“日本映画専門チャンネル”でATGで公開された映画を何本か連続放送する企画のようである)

“ATG”(日本アートシアターギルド)は、新宿に開設された映画館で、1962年この『尼僧ヨアンナ』上映でオープンした。
このATGの歴史やぼくの個人的なかかわり(つまり観客としての)について書くこともあるが、ここでは『尼僧ヨアンナ』という映画についてのみ語る。

この映画は“難解”だろうか?“つまらない”だろうか?
そんなことはないのである。
“複雑”だろうか、そうではない、むしろ最近の映画より情報量は少ない。
この映画が展開される尼僧院のある村の風景のように、シンプルである。
登場人物の数も少ない― ヨアンナを中心とする尼僧たち、尼僧院の門番、主人公の若い神父と数人の悪魔祓いの聖職者たち、若い神父が滞在する旅籠の従業員とそこにたむろする数人、旅の行商人。

さてこの映画のテーマは? 悪魔である。

この映画で展開される、悪魔および悪魔憑きという“現象”もシンプルである。
あっけなくネタバレしてしまえば、ヨアンナに憑いた悪魔を、彼女から退去させ、彼女を聖女にするために、若い神父は、みずから悪魔を自分に憑かせる(斧でふたりの男の首を落とす)

しかしこのシンプルな展開を支える構成と映像は見事である。
それは、見ているときよりも、見終わって“じっくり効いてくる”映像である。

たとえば神父が最初、“斧”につまずき、それを切り株に叩き込むシーン。
神父はかすかに笑うのである。
そもそもくりかえされる“風景”― 旅籠からなにもない荒地にたたずむ尼僧院が見える。
幼い兄妹だけがたわむれている。
あるいは、悪魔祓い儀式― 床に真白い装束の尼僧全員が腹ばいになる、撃ち落された鳥たちのように。
そしてヨアンナの<顔 ― 表情>。

しかし、悪魔とはなにか?
まさにこの映画は、そのことのみを問う。
“悪魔もまた、神が創造した”

けっして忘れてはならないのは、この映画がポーランドの“戦後”においてつくられたこと。
この時期のポーランド映画は、忘れ得ない作品を生み出している。

この映画では、若い神父が、ユダヤ教神学者を訪ねる場面がある。
問答のあと、若い神父は絶望して“あなたから何も学べない”と言う。
それに対する神学者の答え;“私にはなにもわからない”

もちろんぼくは“神学論争”には無縁できた。
<悪魔>も実感するわけではない。

しかしそうだろうか?
この映画でぼくが注目したのは、上記のような“中心のシーン”だけではなかった。
この映画の最後の“殺人”が起こる夜、旅の行商人(この映画で唯一“都会風”の小じゃれた衣服に身を包んだ若者)が、尼僧のひとりを誘惑することに成功するのだ。

なぜこの監督は、このエピソードを挿入したのか。
これは“俗世”の誘惑の象徴だったのだろうか。<追記>


きょうは、ひさしぶりに本を読んだ、徳永恂『現代思想の断層』(岩波新書)のベンヤミンに関する章を。

数日、本から遠ざかっていただけで、活字からくる“観念”に、衝撃を受ける。

有名なベンヤミン“歴史哲学テーゼ(歴史の概念について)”。

その第9テーゼ;<歴史の天使>

この“「新しい天使」と題されているクレーの絵がある”ではじまるテーゼの全文を引用したいが、今日は疲れた。

この徳永氏の本でも、岩波文庫『ベンヤミンの仕事2』でも、ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション1』でも読める、読んでください。


悪魔もまた堕天使であった。







<追記>

この文章はまったく不充分なので補足する。

この映画で、“悪魔と無縁”なのは、この男である。
“神学的には”、悪魔と無縁であることは、神とも無縁だということだ。

ならばこの“無邪気な男”、自分の快楽だけを求め、神も悪魔もけっして考えない(感じない)男が、“救われる”だろうか。<注>
もちろん“神学的=宗教的”に救われないのである(地獄に落ちろ!)

しかしこの映画の時代背景においては、アウシュビッツも原爆も“神がつくりたもうた”ものだったのである(いや現在においても同じである)

ならば、この<時代認識>において、神に対する不信、神の死もまた明瞭であった。
ならば、この“神学”が終焉した現在につらなる“時代”において、“救われない男”たちは無罪放免になったのだろうか。

まさにこの“救われない男”たちこそ現代の“主流”である。

ぼくはキリスト教に還れ、とか、なんらかの宗教を持つべきだなどと、まったく言う気がない。

しかし、この“救われない男”たちだけの世界を、ただ呆然と、受け入れることはできない。



<注>

”快楽”の反対は、”禁欲”ではない。

”エスのある所に自我をあらしめよ”(晩年のフロイト)―徳永恂による。






<引用;ベンヤミン>

“歴史哲学テーゼNo.9”は引用しなかったが、今読んだ部分を引用する;

★ ひとつの比喩として、成長してゆく作品を炎をあげて燃える薪の山と見なすなら、その前に立つ注釈者は化学者のようであり、批評家は錬金術師に似ている。化学者にとっては木と灰だけがその分析の対象であり続けるのに対し、錬金術師にとっては炎そのものこそが謎を、生き生きとしてあるものがもつ謎を秘めている。そのように批評家は真理を尋ねるのだ。かつて在ったものという重い薪と、体験されたものという軽い灰の上で、真理の生き生きとした炎が燃え続けている。
<ヴァルター・ベンヤミン“ゲーテの「親和力」”(『ベンヤミン・コレクション1』ちくま学芸文庫)>




<再追記>

やはりぼくはずっと父を求めていたのではないか。
(だがこれは“日本人の条件”ではないか、父の不在こそは)

“キリスト”はぼくの父ではない。
ならば、どんな“日本人”を父とすればよいのか。
たしかにぼくは大江健三郎→吉本隆明→村上春樹を集中的に読んだ時期があった。
しかしこのなかで最も年長の吉本隆明は、“父”ではなかった。
村上春樹はぼくより年下である。
ぼくは中上健次を同年代の“兄弟”として見出し、それを通してまた大江健三郎を“兄”のように感じる。

しかし“父”はいない。
ひじょうに奇妙でまだ書くべきでないのだが、ぼくは“かすかに”ベンヤミンという人に“父”を感じる。
もちろんベンヤミンの“ユダヤ神学”は、まったくぼくに縁遠いものである。
にもかかわらず、だが、だから、ぼくは“かすかに”と書いた。



等身大

2009-11-03 14:35:04 | 日記

不自然な“誇大妄想”を避け、“等身大で語る”ことは、良いことであると思われている。

しかし、“すべてを”を“自分の身の丈に合わせて”カットしてしまったら、どうなるのだろうか。

すべての事態、この生活で起こること、この社会で起こること、この世界で起こること、この宇宙で起こることを、“自分の身の丈に合わせて”しか理解・認識しないなら、それはかぎりなく“貧しく”はないのか。

結局、なにを“見ても”、“聞いても”、“読んでも”、あらかじめ<自分>の属性でないことのすべてを、“排除”することは、たんに“偏狭”であるなどといったこととはちがう、根本的“錯誤”ではないか。

しかも<それ>が、自分の“家族問題”の範囲から、決して出ようとしないなら、その“誠実性”自体が、ひとつの虚偽ではないのだろうか。




女と男(下記ブログを展開する)

2009-11-03 13:12:25 | 日記
たとえば映画「人のセックスを笑うな」の主人公男子学生の“キャラクター設定”の核心は、“年上既婚女教師”との<睦語(むつご)>に現れる。

すなわち、“ぼくはカレーが嫌い、辛いものはダメ、コーヒーは飲めない、コーラも炭酸がダメ、鮨はさび抜きじゃないと食べられない”

こういう“嗜好(テイスト)”は、近年の“激辛好き”と反対に見えて、実は同じ“テイスト”の裏返しである。
もっと極端化すれば、“シャブ依存症(薬物依存症)とおなじ”やまい“である。<注>

ぼくはここで“中庸の美徳”についてなど述べようとしていない。
なにごとも“適度”がよいなどと、言う気はない。

ただぼくは“自然性”ということを言いたい。
しかしこの<自然性>こそ曲者である。

つまりこの映画における、夫がいるのに、年下の男の子と“遊びたい”女も、“自然性”であるかもしれないからだ。

そんなことはどうでもよい。
あるいは、“そんなこと”に現在のすべての問題がある。

“すべての問題”をひとつのブログとか、“ブログ連鎖”で書ききれるわけではない。
だから“このブログ”は永遠に続く。

ただ“結論”を先取りすれば、現在“常識”であるような、“家族(あらゆる家族)”というものを、もっと根源的に“疑う”ことは、緊急・必須の“課題”である。

すなわち<家族の自然性>という命題をである。

低レベルでは、連日天声人語やメディア・コラムなどが“暗黙の前提”としている<家族>およびそれに伴う<家族美談>こそ、あらゆる<思考停止の根源>であることを認識しなければ、なにひとつ考えることはできない。

すなわち、低レベルでは、“のりピーから民主党マニュフェストまで”。
しかし、これは国内問題ではなく、全人類的問題(笑)である。
もう自分の周辺1.5mにしか想像力=認識力が働かない人々によるメディア言説などを相手にしていても無駄である。

いちおうそういう言説のサンプルを(またも)掲げる;

▼ ネットを介した出会いで泣くのは女性、毒手は男に生えているという「常識」を揺るがす展開である。4人はこの女と接した後、なぜか相次いで亡くなった。不自然な最期と女のつながりに世間の目が注がれている▼晩婚の時代、30代前半の未婚率は男性で50%に迫り、女性も30%を超す。相手を探して積極的に動く「婚活」の市場で、女は悪意を糖衣にくるみ、時には甘えてみせ、良縁を願う中高年を信じ込ませたらしい▼ネット上では、異性に化けることも、若く装うこともたやすい。姿形をさらしての付き合いでさえ、あばたがえくぼになる男女の仲である。その女が地味だ平凡だと聞くほどに、実像と虚像の境界はぼやけ、ネット空間で増殖する毒素が浮き彫りになってくる(引用)


死ぬほど退屈で、馬鹿げている。

《姿形をさらしての付き合いでさえ、あばたがえくぼになる男女の仲である》

とは、いかなる<認識>であろうか。

ハー、男女関係とは“そういうモンですか”とでも、納得すればよいのか。
こういうのを<リアリズム>というのであろうか。

ふざんけんじゃねーぜ。

そんな認識しかないなら、
ぼくは死にたい、
今朝も死にたい、
夕方が来ると死にたい、
明日も死にたい、
(ジョン・レノン)
とでも歌うほかない。

ひとりの<女>も愛したことがない<男>なぞ、文章を書くな。

<毒素>
毒素とは、こういうサビ抜き鮨、カフェイン抜きコーヒー、魂抜きニンゲンが発散するもののことである。

上記<事件>について論評するなら、だます方もだまされるほうもバカであったということノミである。
そんなことについて、クドクド書くな。
そういうことには、なんの普遍性も教訓(学ぶべきこと)もない。

ただ、野次馬的下賎な好奇心が、またぞろ、稼動しているだけだ。
いいかげん、そういう野次馬的好奇心ノミで生きる生き方や言説にオサラバしようではないか。

これら天声人語的マイホーム主義者の<天国>などに、ぼくは金輪際住みたくはない。

結婚する能力がないなら、結婚するな。
あたりまえではないか、なにが“婚活”だ。

“子供”の誕生を、労働力の再生産としか考えられない“ニンゲン”が、ヒューマニズムを語るな。

まったくこのネットやテレビや新聞紙で読める文章というのは、屑のクズである。

自分が<男>というセックスなら、自分が男であるか否かを熟考すべきだ。
自分が<女>というセックスなら、自分が女であるか否かを熟考すべきだ。

<男と女>の関係について考えるのは、そのあとだ。







<注>

この映画では主題化されてないが、最近いくつかのブログを読んでいて気づいた奇妙なことがある。

つまり“最近のヤング”は、自分が親より先に死ぬと思っているらしい、ということ。

これは“人間の自然性”にたいする完全な“無知(誤認)”である(笑)

自分が死ぬとき“まで”、親が自分を看取ってくれると(なぜか)“想像できる”のである。
この根源的<依存症>こそ、現在の家族問題=社会問題=世界認識=宇宙認識の根源的錯誤でないとしたら、ナンなんだ?

しかもこの“最近のヤング”の年齢的上限をどこに定めたらよいのかわからない、という不気味さなのだ。

さいわい、ぼくには、すでに母も父も死んでいるので、<誤認>の余地はない。




<さらに>

この<注>を読み返して、「人のセックスを笑うな」という映画での“大人描写”の奇怪さを思い出す。

ふたつのシーンである;
① 主人公が“関係を持った”女教師の“夫”(あがた森魚)に会う場面でのこの夫描写。
この夫は、主人公に‘きな粉まぶし’和菓子を勧めて、その菓子の食べ方について延々講釈するのである(夫からみればこの主人公は妻と寝ている男である)
このシーンでの、“夫”の“おかしさ”というのは、なんなのか。
そう言えば、この夫は、主人公と“寝てきた”妻がりんごを剥こうとして手を切るといそいそと介抱するのである。
もう一度言う、この夫の“キャラクター”はなにが面白いのか?
② もっとどうでもいいシーンだが、主人公の家に、この映画のもうひとりの“主役”である主人公を片思いしている同級生がたずねてきた時の、主人公の父親(だろうね)の描写。
この父親は、気をきかしてコタツからでて座をはずし、しばらくして戻ると、二人はいない→コタツを覗き込む。

以上のようなシーンで、“笑をとる”神経は、いかなるものか。

上記の2シーンの、“夫”および“父親”というのは、<大人>のことである。
ゆえに、この作者の(まだ“若い”らしい作者の)、大人に対する感性というものが表出されていると、この夫もしくは父親の世代である“ぼく”は考えるわけだ。

このような<大人>しかいないという認識なのか、ほんとうにこういう<大人>(父、夫)しかいないという事実なのか、ただ面白い<大人>をでっちあげて笑っていられるのか、この作品の“作者”に聞きたい。


すなわち、“あなたの”父や母、“あなたの”配偶者や恋人・愛人のような<大人>しかこの世にはいないという、あなたの思い込みは傲慢である。

この作品の作者・監督にだけ聞きたいのではない。



人のセックスを笑うな;男と女

2009-11-03 10:15:09 | 日記
まずぼくはこのタイトルの“人のセックスを笑うな”という “主張を”したいわけではありません。

昨日たまたまテレヴィで見ただけです。
この映画および原作、およびこれを書いた女性についての情報ももっていません。

で、どーだったか?つまらなかったです。
ぼくはこういう映画(どういう映画?)を見るたびに、“映画”というものをつくるという情熱の希薄さを感じるだけです。
しかし、この映画(たぶん原作)も“愚作”ではないと思う。

たぶん“情熱の希薄さ”そのものが、テーマなんです。

<映画>というものが、<男と女>を描いてきたことに、異論のある方は、いらっしゃらないでしょう。

こう書くとぼくにはただちに、この“男と女”という順番が気になるのです。
なぜなら、「男と女」というタイトルの作品もあったが、「女と男のいる舗道」という作品もあったからです。
この2本を比較するだけでも、映画についても、“女と男”についてもほぼ無限のことが語れる。
しかし、この2作品を“両方とも”見ていなければ、語れない。

男と女について、今日も語る人々がいる。
天声人語は“蜘蛛の巣=ネット”の比喩で、最近の“男を食う”女について書く。
読売編集手帳は、勲章をもらった“歌姫”の人生認識について書く。
この歌姫は、20代で“女と男の”機微を熟知していたかのように。

まさに“ひとのセックスを笑うな”でしょうか?

ぼくもまた、現実より映画や中島みゆきの歌で、“男と女”とか“ひとのセックス”を学んだのでしょうか。
いったいぼくは、何回の、キスシーン、ベッドシーンを“見た”のでしょうか。
それどころか、“アダルト系”によって、人の性交や性器まで見てるじゃないか!

「男と女」というもはや“古典的”映画のクライマックスでは、シャラーラ、ダバダバダ、ダバダバという例の曲“ではなく”、<愛は二人より強い>という歌が流れたのです。

「女と男のいる舗道」では、まだ若いジャン=リュック・ゴダールは、惚れている女の顔を巻頭タイトルで延々とフィックスして撮る。
まさにこの映画はこの“惚れている女の顔”を撮るために存在した。

これは、映画ですよ。

“男と女の言説”については、最近おそるべき大澤真幸による“恋愛の不可能性について”の<分析>を引用しました。

なに、見てない?(笑)

ぼくは親切なので再引用しよう;

★ 要するに、命名においては、どうしても「これ」とか「それ」といって、指示語による直示が必要になるのだ。それらは、対象を、発話する私との関係において指示することである。要するに、名前で指示するためには、名指す私を中心=原点とする宇宙の内部における要素として、その個体を指示することなのであり、対象とともに宇宙そのものを同時的に指示することなのである。そうであるとすれば、今や、こう言うことができるだろう。名前が、個体の性質の記述に還元できないのは、この私が、記述に還元できないからである、と。名前は、私の記述の還元不可能性を委譲されているのである。

★愛とは、私であるということと、他者(あなた)であるということとが、同じことになってしまうような体験なのだ、と。愛とは、私であるという同一性が、他者であるという差異性と完全に等値されている関係なのだ。

★私であるということ、私が空想や幻想を帰属させうる最小限の同一性を有するということ、このことが、すでに、私の固有性に還元できない外部性を帯びており、差異性=他者性としてあるということ。愛とは、こうしたことを私に対して告げ知らせる体験なのである。

★だから、逆説的なことだが、愛においては、私がすでに他者=差異性であるがゆえに、かえって、他者は私に対する絶対的な差異であって、私がそこに自己の性質や空想を投影することができない絶対の距離として顕現するのである。

★だから、愛は、関係の中で最も純粋な関係についての、つまり差異についての体験である。そして、その最も単純な関係とは、それ自身、関係の不可能性――相互に架橋しうる場をもたない絶対の差異――なのである。要するに、恋愛は、自らの不可能性というかたちでしか存在しえないのだ。愛が憎悪と同じものになりうるのもこのためであろう。

<大澤真幸 “これは愛じゃない”―『恋愛の不可能性について』序章(ちくま学芸文庫2005)>


なに、わからない?
ならば、この本を読んでください(笑)

こういう“理知的な分析”がお好きでないかたには、ベンヤミンから引用しよう(ベンヤミンがけして理知的じゃないわけではないよ;笑);

★ ぼくは生涯において、三人の異なった女性を知り、そしてぼくの内部の三人の異なった男性を知った。ぼくの生涯の歴史を書くことは、この三人の男性の形成と崩壊を、またこの三者のあいだの妥協をえがくことだろう。(ベンヤミン;1931年5月の日記)
<野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー1993)>


以上、ぼくもまた<男と女>について語った。

つまり、映画においても、読書においても、ひとは、<女と男>について学べるのだ。

しかしだからといって、(現実の)恋愛や結婚が“うまくゆく”とは限らないのさ。

そもそも、けっしてうまくゆかない恋愛や結婚について、いつまでもまちがった固定観念にもとづいてしか“語れない”ことが、退屈なのだ。



今日は何の日?  文化の日。

つまり<男と女>もしくは<女と男>は、<文化>なのよ。







*写真に写っている<俳優>は、ロミー・シュナイダー、ジャン=ルイ・トランティニャン、アンヌ・ヴィアゼムスキー。

<映画>は、「列車」(”離愁”)。

ぼくが、わざわざこうクレジットしているのは、この俳優たち及び映画が好きだから。