Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

拡散と凝集

2009-11-13 08:41:06 | 日記
ぼくたちは“どんなひとでも”、日々言葉と共に生きている。

一日、一言も発せず、一言も聞かないで過ごすことは、不可能である。
新聞を読まなくても、本を読まなくても、言葉と無縁であることはできない。

あなたがどのように言葉を受け取り、どのように言葉を発するかが、生きるということである。
あなたが“無言”であっても、それは言葉である。

たとえば現在ニッポンの“言葉の配置”というものを考えてみる。
一方にテレビを代表とするマスメディアの言葉があり、その対極にケータイ言語がある。
“ブログ”とか“Twitter”というものは、その“中間に”あるのだろうか。
もちろんかぎりなく“ケータイ言語”に近いものとしてブログやTwitterはあるのかもしれない。

わざと図式的に言えば、“公的な言語”と“私的な言語”が渦巻き、錯綜しているわけであり、そこには、無限のグラデーションがある。
すなわち“テレビ言語”や“新聞論説”が、公的を装って、“ケータイ言語”でしかないこともまた、事実(真実)である。

この混沌を日々感受するとき、ある眩暈(めまい)に襲われる。
この世界が“島宇宙化した”ということは、もうとっくに言われたことである。
ここにもアメリカ帝国の“グローバリゼーション”(無限の自由主義)と<わたくし>の無限の錯綜があるのだ。
すべてのひとが、年齢を問わず、“おたく化”したとき、“おたく・オタク”というカテゴリーは消えたのである。

すべてのひとが、“新人類”となったとき、<人類>は消えるのである。

もっと“学術的”に言うならば、まさに<現在>、近代(モデルネ)が崩壊し、まったく未知のものが現れてきていると感じる。
それは“二つの大戦”の経験による<戦後>が60数年をかけてたどりついた、混沌である。

それは、あらゆる<事件>の錯綜であったが、それを“あらゆる言葉の錯綜”として捉えることができる。
しかしこれは“マクロ認識”である。

もし、これらの<言葉>のリアルにいちいちつきあうなら、ぼくたちは発狂するだろう。
つまり、そこには限りなき<拡散>があるのだ。

だからひとは、<紋切り型の言葉>の砦に立て籠もろうとする。
なるべく“多様な言葉”の錯綜から身を守ろうとしている。
現実のリアルな言葉を排除し、安全な言葉のみを牛のように反芻している。

《森繁さんの原点には、旧満州からの過酷な引き揚げ体験がある。死と隣り合わせの日々を、後に繰り返し語り、書いている。
 50年に公開された最初の主演映画の出演料で自分の墓を建てたと自伝に記している。「拾った後半生、終着駅だけはちゃんとしておきたい」と。
 それからほぼ60年。自身が思い描いた「華々しく、悠々と」した人生の幕がおりた。96歳。見事な生涯である。》(今日朝日社説)

というような言葉を読んで、なんとなく安心する人々がいる。
しかしもちろん、このような言葉も、“多数に支持”されているわけではない。
そもそも大新聞の社説を読む人がどれだけいるのだろう。

もちろんどの時代にも、“多数に支持される言葉”はあったが、そんなものは歴史に残っていない。
これまでの歴史に残っていないような言葉が、どうしてこれからの<未知>に対応できるだろうか。

“これまでの歴史”に残ってきた言葉は、“少数者の言葉”であった。
現在<古典>と呼ばれている言葉は、すべて少数者の言葉だった。
“イエスの言葉”もである。

しかし繰り返すが、現在起こっていることは、多数者の言葉も少数者の言葉も、すべて残りえないような事態なのではないか。

ぼくたちが、“意識的でない限り”すべての言葉が死ぬような事態にぼくらは直面しているのではないか。

ただ<本の世界>だけでも、ぼくらは<すべての言葉>を読むことはできない。

だから、<選択>が、決定的に重要である。

つまり、上記のような<人間の歴史>を感受した人々の言葉を<読む>ことが、決定的に重要である。



*写真はSally Mann