Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

女と男(下記ブログを展開する)

2009-11-03 13:12:25 | 日記
たとえば映画「人のセックスを笑うな」の主人公男子学生の“キャラクター設定”の核心は、“年上既婚女教師”との<睦語(むつご)>に現れる。

すなわち、“ぼくはカレーが嫌い、辛いものはダメ、コーヒーは飲めない、コーラも炭酸がダメ、鮨はさび抜きじゃないと食べられない”

こういう“嗜好(テイスト)”は、近年の“激辛好き”と反対に見えて、実は同じ“テイスト”の裏返しである。
もっと極端化すれば、“シャブ依存症(薬物依存症)とおなじ”やまい“である。<注>

ぼくはここで“中庸の美徳”についてなど述べようとしていない。
なにごとも“適度”がよいなどと、言う気はない。

ただぼくは“自然性”ということを言いたい。
しかしこの<自然性>こそ曲者である。

つまりこの映画における、夫がいるのに、年下の男の子と“遊びたい”女も、“自然性”であるかもしれないからだ。

そんなことはどうでもよい。
あるいは、“そんなこと”に現在のすべての問題がある。

“すべての問題”をひとつのブログとか、“ブログ連鎖”で書ききれるわけではない。
だから“このブログ”は永遠に続く。

ただ“結論”を先取りすれば、現在“常識”であるような、“家族(あらゆる家族)”というものを、もっと根源的に“疑う”ことは、緊急・必須の“課題”である。

すなわち<家族の自然性>という命題をである。

低レベルでは、連日天声人語やメディア・コラムなどが“暗黙の前提”としている<家族>およびそれに伴う<家族美談>こそ、あらゆる<思考停止の根源>であることを認識しなければ、なにひとつ考えることはできない。

すなわち、低レベルでは、“のりピーから民主党マニュフェストまで”。
しかし、これは国内問題ではなく、全人類的問題(笑)である。
もう自分の周辺1.5mにしか想像力=認識力が働かない人々によるメディア言説などを相手にしていても無駄である。

いちおうそういう言説のサンプルを(またも)掲げる;

▼ ネットを介した出会いで泣くのは女性、毒手は男に生えているという「常識」を揺るがす展開である。4人はこの女と接した後、なぜか相次いで亡くなった。不自然な最期と女のつながりに世間の目が注がれている▼晩婚の時代、30代前半の未婚率は男性で50%に迫り、女性も30%を超す。相手を探して積極的に動く「婚活」の市場で、女は悪意を糖衣にくるみ、時には甘えてみせ、良縁を願う中高年を信じ込ませたらしい▼ネット上では、異性に化けることも、若く装うこともたやすい。姿形をさらしての付き合いでさえ、あばたがえくぼになる男女の仲である。その女が地味だ平凡だと聞くほどに、実像と虚像の境界はぼやけ、ネット空間で増殖する毒素が浮き彫りになってくる(引用)


死ぬほど退屈で、馬鹿げている。

《姿形をさらしての付き合いでさえ、あばたがえくぼになる男女の仲である》

とは、いかなる<認識>であろうか。

ハー、男女関係とは“そういうモンですか”とでも、納得すればよいのか。
こういうのを<リアリズム>というのであろうか。

ふざんけんじゃねーぜ。

そんな認識しかないなら、
ぼくは死にたい、
今朝も死にたい、
夕方が来ると死にたい、
明日も死にたい、
(ジョン・レノン)
とでも歌うほかない。

ひとりの<女>も愛したことがない<男>なぞ、文章を書くな。

<毒素>
毒素とは、こういうサビ抜き鮨、カフェイン抜きコーヒー、魂抜きニンゲンが発散するもののことである。

上記<事件>について論評するなら、だます方もだまされるほうもバカであったということノミである。
そんなことについて、クドクド書くな。
そういうことには、なんの普遍性も教訓(学ぶべきこと)もない。

ただ、野次馬的下賎な好奇心が、またぞろ、稼動しているだけだ。
いいかげん、そういう野次馬的好奇心ノミで生きる生き方や言説にオサラバしようではないか。

これら天声人語的マイホーム主義者の<天国>などに、ぼくは金輪際住みたくはない。

結婚する能力がないなら、結婚するな。
あたりまえではないか、なにが“婚活”だ。

“子供”の誕生を、労働力の再生産としか考えられない“ニンゲン”が、ヒューマニズムを語るな。

まったくこのネットやテレビや新聞紙で読める文章というのは、屑のクズである。

自分が<男>というセックスなら、自分が男であるか否かを熟考すべきだ。
自分が<女>というセックスなら、自分が女であるか否かを熟考すべきだ。

<男と女>の関係について考えるのは、そのあとだ。







<注>

この映画では主題化されてないが、最近いくつかのブログを読んでいて気づいた奇妙なことがある。

つまり“最近のヤング”は、自分が親より先に死ぬと思っているらしい、ということ。

これは“人間の自然性”にたいする完全な“無知(誤認)”である(笑)

自分が死ぬとき“まで”、親が自分を看取ってくれると(なぜか)“想像できる”のである。
この根源的<依存症>こそ、現在の家族問題=社会問題=世界認識=宇宙認識の根源的錯誤でないとしたら、ナンなんだ?

しかもこの“最近のヤング”の年齢的上限をどこに定めたらよいのかわからない、という不気味さなのだ。

さいわい、ぼくには、すでに母も父も死んでいるので、<誤認>の余地はない。




<さらに>

この<注>を読み返して、「人のセックスを笑うな」という映画での“大人描写”の奇怪さを思い出す。

ふたつのシーンである;
① 主人公が“関係を持った”女教師の“夫”(あがた森魚)に会う場面でのこの夫描写。
この夫は、主人公に‘きな粉まぶし’和菓子を勧めて、その菓子の食べ方について延々講釈するのである(夫からみればこの主人公は妻と寝ている男である)
このシーンでの、“夫”の“おかしさ”というのは、なんなのか。
そう言えば、この夫は、主人公と“寝てきた”妻がりんごを剥こうとして手を切るといそいそと介抱するのである。
もう一度言う、この夫の“キャラクター”はなにが面白いのか?
② もっとどうでもいいシーンだが、主人公の家に、この映画のもうひとりの“主役”である主人公を片思いしている同級生がたずねてきた時の、主人公の父親(だろうね)の描写。
この父親は、気をきかしてコタツからでて座をはずし、しばらくして戻ると、二人はいない→コタツを覗き込む。

以上のようなシーンで、“笑をとる”神経は、いかなるものか。

上記の2シーンの、“夫”および“父親”というのは、<大人>のことである。
ゆえに、この作者の(まだ“若い”らしい作者の)、大人に対する感性というものが表出されていると、この夫もしくは父親の世代である“ぼく”は考えるわけだ。

このような<大人>しかいないという認識なのか、ほんとうにこういう<大人>(父、夫)しかいないという事実なのか、ただ面白い<大人>をでっちあげて笑っていられるのか、この作品の“作者”に聞きたい。


すなわち、“あなたの”父や母、“あなたの”配偶者や恋人・愛人のような<大人>しかこの世にはいないという、あなたの思い込みは傲慢である。

この作品の作者・監督にだけ聞きたいのではない。



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