Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

犯罪者と私

2009-11-10 09:33:03 | 日記
毎日、“事件”がおこる。
世の中には悪い人がたくさんいるものだなーと、つくづく思う。

そういう“報道”を見て、<怒る>というのは、どういうことなんだろう?

“怒っているとき”は、どうして自分が怒っているかについては、考えられないのではないだろうか。
だから“怒っている私”についても、考える必要があるのではないだろうか。

数日前、この<怒り>について印象的な記述を見た。
“我を忘れるような怒り”と書いてあった;

被害者の苦痛を想像し反省した場面では、以下のような記述がある。
 「(被害者の苦痛は)私の唯一の居場所であったネット掲示板で、私が荒らし行為によって、存在を殺されてしまった時に感じたような、我を忘れるような怒りがそれに近いのではないか」
 死刑を意識する記述もある。「私の罪は万死に値するもので、当然死刑になると考えています」「死刑は5分間の絞首だと聞いているが、(中略)皆様から奪った命、人生、幸せの重さを感じながら刑を受けたい」
 自分の母親に対する複雑な思いや、過去に原因不明の腹痛で気を失った体調不良などにも言及。「責任と原因は別の話であって、悪いのはすべて私です」「どうせ死刑だと開き直るのではなく、きちんとすべてを説明しようと思っています」
 手紙を受け取った男性は「この手紙を書いた人とあの事件はなかなか結びつかないが、二度とこんな事件が起こらないことを願っていることがわかり、一筋の光のように感じた」と話した。 (先日アサヒコム“秋葉原事件被告からの被害者への手紙”という記事)


つまりこの“秋葉原事件被告”は、現在において《我を忘れるような怒り》から脱して、“反省”しているわけである。
つまり“反省”というのは、《きちんとすべてを説明する(しよう)》という行為なのだと思う。

こう書いたところで、ぼくは、この被告を擁護しようとか、まして彼に<同情>しているのではない。
そうではなく、ぼくは<客観的>に考えて、書いているのだ。

だってそもそも、ぼくはこの加害者とも被害者とも、“関係ない”ではないか。
ぼくは<当事者>ではない。

この事件に限らず、報道されるある事件が、自分に関係あるか否かは、“想像力(思考)”の問題である。
だから、ある事件を<読む>のは、ある書物で“事件を読む”のと、なんら変わらないではないか。<注>

つまり、<事件>には、その事件それぞれの“個別性(特異性)”があると同時に、その事件は、それを読み取るひとの、“個人的な読み取り”を喚起している。

ぼくたちが、日々報道される<事件>に対して、この読み取りによる思考を開始しなければ、あらゆる事件に、なんの教訓もあり得ない。

なんの教訓もありえない、のである。

ゆえに、以下に掲げるような“天声人語的言説”は、まったく無駄なだけではなく、根本的な<倫理性>を欠落させている。

ぼくが考える<倫理性>というのは、少しでも“自分で考える”ことを意味する。
《鬼畜の所業と吐き捨てたところで、震えるほどの怒りは収まらない》とか、
《手口がむごいほど、あくどく逃げ回るほど、市民の心証は厳しくなる。この点、どの犯人も覚悟したほうがいい》
などと、“すごんでみせて”も無駄である。

むしろこういう<文章>から、この筆者の“空虚さ”が露出してくるのだ。
こういう“言説”を百万遍繰り返しても、事態はなんら変わらないであろう。

そういう<困難>にぼくらは、直面している。

そもそも《震えるほどの怒り》とか《我を忘れるような怒り》を、そう記述している本人がほんとうに感じていたかも、疑わしい。

ぼくたちが、誤認しているのは、この“感情の強度(つよさ)”自体かもしれない。


<引用>

毒舌の評論家大宅(おおや)壮一(そういち)が残した名言の中でも、〈男の顔は履歴書である〉は深い。女性も社会的なキャリアを重ねる時代、何も男に限ったことではなかろうが、面相には脚光や風雪の跡が正直に刻まれる▼英国人女性の遺体を捨てたとして手配された男(30)が、整形手術を重ねて逃げている。大宅流に言えば履歴書の改ざんである。元の顔からは目元の鋭さが消え、妙な造作になった。親からもらった顔をあえて崩し、別人になりすましていたらしい▼計100万円とも言われる整形代をどう払ったのか。履歴書の要らない職場で食いつないでいたのか、支援者はいるのか。2年半を超す逃亡の軌跡は、遠からずさらされるだろう▼いやな事件が続く。島根県の女子学生(19)はひどい殺され方をした。貧困や飢餓に関心を寄せる、まじめな女性だったと聞く。英語が得意で、留学を夢見た彼女の履歴書は、アルバイト以外の職歴を白く残して引きちぎられた。鬼畜の所業と吐き捨てたところで、震えるほどの怒りは収まらない▼隣の鳥取県では、詐欺容疑で捕まった女(35)の周辺で、何人もの男性が不可解な死を遂げていた。トラック運転手が、新聞記者が、警察官が、それぞれの履歴書を完結させぬまま不意に息絶えた。最期の顔がゆがんでいては浮かばれない▼いつの日か、これらの事件が裁判員を交えて裁かれる運びになれば、被害者の数だけが焦点ではなかろう。手口がむごいほど、あくどく逃げ回るほど、市民の心証は厳しくなる。この点、どの犯人も覚悟したほうがいい(11/10天声人語)






<注-追記>

ぼくが<想像力>という言葉を使うとき、いつも感じるのは、“想像力はけっして<現物>におよばない”という意識である。

“想像力はけっして<現物>におよばない”

しかしこれは<想像力>の無効性を証明するものではなく、その逆である。
たとえば“セックス”をはじめて体験したときひとは、“思ったより素晴しかった”とか、“なんだこんなモンだったのか”などという感想をいだくわけだが、いずれにおいても、“想像と現物はちがっていた”のである。

“想像力はけっして<現物>におよばない”

という経験を重ねることが、<認識>の基本だと思う。

それは現物の<リアリティ>の認識への基礎=ベースである。