平成25年10月13日、三連休の中日、鎌倉街道の上道に行きたいという、ふたりの希望が一致して、行くことにした。場所は埼玉県所沢市小手指原。
1333年5月8日、新田義貞は群馬の太田市にある生品神社で挙兵し、そこから鎌倉を攻めるために南下するのだが、その途中にあるのが、小手指原。
私は、この夏、この義貞が住んでいたという太田市にある新田荘に行った。その時、歴史資料館で詳しい説明を受けているし、千ちゃんとは、分倍河原や鎌倉井戸、それに鎌倉の稲村ヶ崎にも行っている。こう振り返ってみると、鎌倉街道沿いを新田義貞の軌跡を追っている感じである。そして今回もそれに付随したかんじでのウオーキングとなった。
まずは、小手指原である。
本によると、こう書いてある。
3/11 金剛山の戦いに参加していた新田義貞、後醍醐天皇の論旨を得て、病と偽り帰郷する。
5/08 新田義貞、鎌倉の使者を斬る。生品神社で挙兵し、笠懸野へ。利根川付近で越後・信濃の 援軍と合流。
5/09 武蔵野へ進撃。足利千寿王の軍と合流。上野・下野・上総・常陸・武蔵より援軍。
5/11 小手指腹で幕府軍と最初の合戦。勝敗つかず、義貞軍は入間川に、幕府軍は久米川に陣を 置く。
5/12 久米川で合戦。義貞軍が優勢。義貞軍は久米川に陣を置き、幕府軍は分倍に退却。
5/15 分倍河原で合戦。幕府軍劣勢の知らせを受け、鎌倉から援軍到着。義貞軍は劣勢になり、堀 兼まで敗走。晩に、三浦義勝軍が義貞軍に参陣。
5/16 義貞軍は16日午前4時に分倍河原を急襲。分倍河原・関戸で合戦。前日の勝利に油断した幕 府軍は破れ、鎌倉に退却。
5/18 義貞軍、極楽寺坂切通・巨福呂坂・仮粧坂の三方より鎌倉を攻めるも、突破できず。
5/21 義貞軍、稲村ガ崎へ
5/22 義貞軍、稲村ヶ崎を突破し、市中に乱入。東勝寺にて北条高時一門が自害。幕府滅亡。
一進一退を繰り返して、鎌倉に攻め入ったことがよく分かる。
途中、鎌倉街道と書いてある標識があった。この道を馬で行ったり来たりしたんだなと思うと、感慨深かった。
東村山にある「ふるさと歴史館」に行った。
そこでは、この辺に関係ある武将たちのことがまとめてあった。
鎌倉時代、頼朝に追われた、大姫の許嫁でもあった「木曽義高」はこの入間川で討ち死にしている。
徳蔵寺では門に八幡太郎義家の源氏の紋が大きく掲げられていた。
今回もよく歩いた。25039歩(約12キロ)
こうやって気ままに歩けることに甚く感謝している。
1333年5月8日、新田義貞は群馬の太田市にある生品神社で挙兵し、そこから鎌倉を攻めるために南下するのだが、その途中にあるのが、小手指原。
私は、この夏、この義貞が住んでいたという太田市にある新田荘に行った。その時、歴史資料館で詳しい説明を受けているし、千ちゃんとは、分倍河原や鎌倉井戸、それに鎌倉の稲村ヶ崎にも行っている。こう振り返ってみると、鎌倉街道沿いを新田義貞の軌跡を追っている感じである。そして今回もそれに付随したかんじでのウオーキングとなった。
まずは、小手指原である。
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本によると、こう書いてある。
3/11 金剛山の戦いに参加していた新田義貞、後醍醐天皇の論旨を得て、病と偽り帰郷する。
5/08 新田義貞、鎌倉の使者を斬る。生品神社で挙兵し、笠懸野へ。利根川付近で越後・信濃の 援軍と合流。
5/09 武蔵野へ進撃。足利千寿王の軍と合流。上野・下野・上総・常陸・武蔵より援軍。
5/11 小手指腹で幕府軍と最初の合戦。勝敗つかず、義貞軍は入間川に、幕府軍は久米川に陣を 置く。
5/12 久米川で合戦。義貞軍が優勢。義貞軍は久米川に陣を置き、幕府軍は分倍に退却。
5/15 分倍河原で合戦。幕府軍劣勢の知らせを受け、鎌倉から援軍到着。義貞軍は劣勢になり、堀 兼まで敗走。晩に、三浦義勝軍が義貞軍に参陣。
5/16 義貞軍は16日午前4時に分倍河原を急襲。分倍河原・関戸で合戦。前日の勝利に油断した幕 府軍は破れ、鎌倉に退却。
5/18 義貞軍、極楽寺坂切通・巨福呂坂・仮粧坂の三方より鎌倉を攻めるも、突破できず。
5/21 義貞軍、稲村ガ崎へ
5/22 義貞軍、稲村ヶ崎を突破し、市中に乱入。東勝寺にて北条高時一門が自害。幕府滅亡。
一進一退を繰り返して、鎌倉に攻め入ったことがよく分かる。
途中、鎌倉街道と書いてある標識があった。この道を馬で行ったり来たりしたんだなと思うと、感慨深かった。
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東村山にある「ふるさと歴史館」に行った。
そこでは、この辺に関係ある武将たちのことがまとめてあった。
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鎌倉時代、頼朝に追われた、大姫の許嫁でもあった「木曽義高」はこの入間川で討ち死にしている。
徳蔵寺では門に八幡太郎義家の源氏の紋が大きく掲げられていた。
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今回もよく歩いた。25039歩(約12キロ)
こうやって気ままに歩けることに甚く感謝している。
私が小さいころ、ドリフで東村山音頭を踊っていました。
さっき、東村山市を調べてみたら、
「この地こそ江戸時代を通じて賢君・名君を輩出し続けた東村山藩10万石志村家が支配していた歴史的に名高い土地。藩主の姓をとって廃藩置県後は「志村県(けん)」とよばれていたこの地にあって、「志村けんの(バカ)殿さま」は郷土の誇りであり希望であり夢である」
とのこと。
歴史って、いろんな意味でつながっているんだなぁ~。
さっきの志村けんネタは志村さんのファンが書いた
虚構歴史ストーリーでした。
すいません。
志村けんさんの東村山と、
所ジョージさんの所沢って、なんだか、歴史とはかけ離れているようで、日本史が息づいているようで。
またお邪魔しますね。