18年にもなりますか

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だれが望んだか

2005-08-18 22:31:55 | 
 戦後60年が経過した。日本の多くの人が戦争体験から遠ざかっている。一方中東では未だに戦争が繰り返されている。平和な様に見える日本でも、繰り返し報じられる”大人の顔をした子供”による幼児や児童への虐待。平和だと思われている米国本土やイギリスでのテロ。一体だれがそんな世界を望んだのであろうか?

 主義主張は当然あるだろう、米国の一方的な優位は許せない人も多く居るだろう。愚かな戦争を繰り返してきた中で、取り返しのつかない虐殺や言葉にするのも耐えられない殺戮、残虐な暴行が有ったことは否定できない。

 しかしである。もしも、本当に神というものがあるのなら、その神はいまのこの状況を望んでいるのであろうか?神は殺戮を、虐殺を、残虐な無力な存在への暴行を、聖戦と言う名での自爆テロを本当に望んでいるのだろうか?

 否、そんな筈はない。全人類に幸福をもたらさない神などあってはならない。自分たちの種族や民族だけが優秀で、他の民族は下等だとか、殺戮対象としても良いというようなそんな神など有ってはならない。それは単なる”利己主義”あるいは”ご都合主義”が生み出した妄想でしかない。

 世の中に存在している宗教のなかにある神はそれはそれで歴史的背景を持つ物だろう。よってそれそのものをどうこう言うつもりはない。

 しかし、もう一度考えてみたい。もしも今改めて”神”というものを定義するならば、それはやっぱり全ての人類に対して”幸福”をもたらす存在であってほしいというのは正直な気持ちではないか?

 見方を変えて言えば、やっぱり人類はお互いに幸福を求め合うべきだし、それぞれの民族の持つ”神”がそれをじゃまするようではいけない。ある人が地球上の民族の抗争は概ね宗教を背景としていると著書で指摘していた。それは事実かもしれないが、そうあってはならない。人類に抗争や戦争をもたらし、平和や幸福を遠ざける宗教にはどんな意味があるのか?
 
 なにも新しい宗教や神を立ててみたり、拝んだりする必要はない。ただ、国同士が、民族同士が、隣人同士がお互いに幸福であることを望みお互いを認め合い、行動するだけで始められる筈である。

 人類が自分自身に問うてみればいいのだ。”自分だけが幸福”というのはわたしたちが追い求めるべきものではない。”隣人を含めての幸福”がわたしたちが一生をかけて世代を超えて求めて行くべき幸福なのではないか?ということを。






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