1000年一度の大きな津波。大変な被害だ。それを最低限で止められるか、否かで国民の資質が問われる。
日本国は科学技術が最高と信じられていた。今回の原発事故においてはもっと小さく防げたかも知れない側面がある。
火力、水力発電と異なり、ひとたび事故がおきると、中型原爆投下に等しい被害がある。「絶対安全」の約束の元で福島県民は原子力発電を認めたのだ。この絶対安全がいかにいい加減であるかの検討をしてみたい。
先ず、代議士は原発管理がゼロに等しい。関係役所も似たり寄ったりだ。電力会社は過度の安全対策は絶対にやらない。
テレビに映る東電の副社長は10年前に御用済みの老衰だ。しかし幹部の指示は絶対だ。もし部長クラスで安全面を批判して、強化を提案すれば左遷か首になる。
コスト第一主義が東電のポリシイだ。たとえばオール電化、つまり電気使用量を上げるために不動産売買会社を立ち上げ、新築、中古、あたり構わず電化に勤めてきた。
一方、安全面では最低限で押さえていた。例えば外国の進んだ原発を参考にして改良を加えることはゼロであった。具体的には福島原発の冷却設備を最下階から最上階に改造するなどを怠った。ここの改造では原発を停止して3年間冷却し、大改造をしなければならない。
停止、改造コストは膨大なものになる。1000年に一度の大事故であるで全ては許され終わりか。そのとき生きていた、居合わせた人が悪いのか。
結論は日本人には原発のような超危険物を管理、運営する能力はないことか。持つてはいけない恐ろしいものを持った、作った悲劇か。