暖かい陽ざしの魅惑に誘われ、花びらに包まれた蜂の悦びの羽音が聞こえるようです。
機熟して、出会いの喜びが輝いています。
時間空間を乗り越えての、この本能的な出会い、花が開いても、暖かさと蜂の気持が合わないと出会わない不思議さ。
当たり前の中に神秘が潜んでいる宇宙の無限性。
碧巌録(へきがんろく)第八十三則
擧(こ)す。雲門衆に示して云(いは)く。古佛と露柱と相交わる、是れ第幾機ず。
自ら代わって云く、南山に雲を起し、北山に雨を下す。
古佛と露柱と相交わる機縁は第幾段目の機(こころの動き)であるかと衆に問題を提起されたが、
誰も答えないので、皆の代わりに雲門が答えて置こうといって、
南山に奇瑞の雲を起し、北山に真理の甘露の雨を降らすのである。
雲門和尚は千古傑出の宗師である。雲門宗の一家風をなした名僧である。
遷化の後も崇拝されて尋常のことではなかった。
埋葬の後十七年を経てから阮紹荘と言う人が霊夢を観たというので、天子に奏し、
天子から許可を承けて雲門山の墓を開いて見たところ、容貌がすこしも生前と変わらず、
粛然として入定して居られたので、その遺骸を都まで持って往き、一ヶ月以上宮中に留めて禮敬供養をして、
更に山に還して葬らせ、大慈雲匡眞弘明禅師と云う諡號(しごう)を賜わった。
埋めてから十七年をたった肉体のままの遺骸が参内して天子の供養を受けたというのは、世界万国にも例のないことである。
このような奇瑞があらわれるのは、まことに雲門和尚の念力の強さと機根の粘り強さというものを表しているのである。
それが必ずしもその人の悟りの深さとは言えないのである。
これは雲門和尚の霊魂という『念』の本体は肉体から脱出しているから、肉体全体は生きていることはできなかったが、
雲門和尚の『念』の一部である霊糸が、前述した霊感により予見していた
天子から大慈雲匡眞弘明禅師と云う諡號(しごう)を賜わる目的をもって、
遺骸から去らず遺骸に残留していたので生前の容貌と全く同じ状態を維持していたのである。
『注』
碧巌録・・・詳しい名題は『佛果圜梧禅師碧巌録』参学の参考書であり、
雪竇(せつとう)和尚と圜梧(えんご)禅師の合著である。
露柱・・・仏殿の円柱。露柱は単なる物質ではなく宮殿、神殿に住み給う
霊的本尊の生命の付随的あらわれとして嚴存するのである。
古佛・・・既に悟りを開いて仏陀の境地のあるものは皆、古佛として尊敬される。
諡號(しごう)・・・人の死後その徳を追尊して贈る称号。大師号、菩薩号、
国師号、禅師号、和尚号、法師号、上人号などがある。
禮敬(らいきょう)・・・うやまって拝むこと。
産声に平安と喜びが木霊する。大いなる宇宙の生命と共に生きる神秘さよ!
素晴らしい青年の言葉
少子化の番組に出演している東京大学の文一類の大学生が、眼を輝かせ私は日本国に居るのではないのである、
日本国が私自身である。と話しました。大変驚きましたがその通りであり、大変素晴らしい発言であります。
日本国の生命と自分自身の生命は一体であります。
この青年がこの様な深い自覚を持っていることに大変感銘を受けました。
また最後に困難な事を踏み台にして様々な発想をして生長することが大切である事の故のポジテイブ的な言葉を表題に出して話しをしました。
このような青年が日本の未来を背負っていくことに希望と勇気を頂きました。
この青年にこれからの生長に、祝福と声援を心から贈り、
日本国の眞実の発展の為に御活躍をなされることを心よりお祈り申し上げます。
若さと正しさ、美と情熱に生きる若人に捧ぐ
青年は肉体の美に誘われて、内在の魂の美を完成することを忘れてしまうことが時にある。
しかし、青年は純粋であり、近代日本の黎明をもたらしたのも青年であれば、
この混濁した社会を清くするのも青年の力である。
だからより一層の魂の美が必要となってくるのであります。
少子化の番組に出演している東京大学の文一類の大学生が、眼を輝かせ私は日本国に居るのではないのである、
日本国が私自身である。と話しました。大変驚きましたがその通りであり、大変素晴らしい発言であります。
日本国の生命と自分自身の生命は一体であります。
この青年がこの様な深い自覚を持っていることに大変感銘を受けました。
また最後に困難な事を踏み台にして様々な発想をして生長することが大切である事の故のポジテイブ的な言葉を表題に出して話しをしました。
このような青年が日本の未来を背負っていくことに希望と勇気を頂きました。
この青年にこれからの生長に、祝福と声援を心から贈り、
日本国の眞実の発展の為に御活躍をなされることを心よりお祈り申し上げます。
若さと正しさ、美と情熱に生きる若人に捧ぐ
青年は肉体の美に誘われて、内在の魂の美を完成することを忘れてしまうことが時にある。
しかし、青年は純粋であり、近代日本の黎明をもたらしたのも青年であれば、
この混濁した社会を清くするのも青年の力である。
だからより一層の魂の美が必要となってくるのであります。
眞実
春の息吹き、いのち輝く。
朝露に萌え出でる生命。
幼い鶯の無邪気な声が、
夜明けの時を知らせる。
弥生の花に夢のせ薫る。
希望の切なさを胸に秘め、
おぼろ月に映すともし火。
郷の別れ霜を踏みしめ、
一会に生きる花の眞実。
水の面(おも)に夜な夜な月は通えども
思いもとめず跡をのこさず
池などの澄み切った水の表面に毎夜、この澄み切った水の上にお月さんが影を映していても、
お月さんが出ている間は、水の上にお月さんが映ってはいるが、お月さんが隠れてしまうと、
水はもとの様に澄み切って、心の月の影の跡を残さないのであります。
このように人間の『本当の心』には『神様の心』が宿っているのです。
『本当の心』である『神様の心』の上に、水の面に細波のように色々な思いが浮かぶ、
これが人間の色々な『心の形、姿』であります。
神は人間を愛し、人間は神を愛し、人間と神とは一体であると云うことが人間の真実の姿であります。
春の息吹き、いのち輝く。
朝露に萌え出でる生命。
幼い鶯の無邪気な声が、
夜明けの時を知らせる。
弥生の花に夢のせ薫る。
希望の切なさを胸に秘め、
おぼろ月に映すともし火。
郷の別れ霜を踏みしめ、
一会に生きる花の眞実。
水の面(おも)に夜な夜な月は通えども
思いもとめず跡をのこさず
池などの澄み切った水の表面に毎夜、この澄み切った水の上にお月さんが影を映していても、
お月さんが出ている間は、水の上にお月さんが映ってはいるが、お月さんが隠れてしまうと、
水はもとの様に澄み切って、心の月の影の跡を残さないのであります。
このように人間の『本当の心』には『神様の心』が宿っているのです。
『本当の心』である『神様の心』の上に、水の面に細波のように色々な思いが浮かぶ、
これが人間の色々な『心の形、姿』であります。
神は人間を愛し、人間は神を愛し、人間と神とは一体であると云うことが人間の真実の姿であります。
運命は心の内にある。善き運命も悪しき運命も心で描き、また心で造ることが出来る。
宗教性と唯心論と唯物論
唯物論と唯物史観と唯心論
例えば車の事で考えて見ても、一つの一つの金属、その他の材料が寄せ集まって出来たものが車であって、
車のどこを捜しても物ばかりで、車全体の心は無いのであります。
このように世の中のすべてのものは物ばかりが寄り合って出来たものであると云う考え方を『唯物論』と云います。
このように唯物論を根拠にして物的証拠を基礎にした歴史観を『唯物史観』と云います。
物的証拠等、あるいは科学的な弁証が出来ない神話、伝説、寓話、御伽噺等は唯物史観の考えでは否定することになります。
しかし浦島太郎の御伽噺でもアイシュタインの相対性理論に匹敵するほど深い哲学的な要素を含んでいます。
世界の神話等でも人々の深い心の奥底に存在する意識は多くの民族に共通するものがあります。
『心』は頭蓋骨を顕微鏡で観察したり、MRIの検査装置等で
科学的な検査をしても心を発見することも証明することも出来ません。
先ほどの車の事を例に上げて考えて見ましょう。
車のどこを捜し廻っても心を発見することは出来なのであります。
ハンドルも物であり、エンジンも物であり、シートも物でありますから、車は物以外のものは、何も無いと思われます。
しかし車が物だけで出来ているのでありましたら、物自身が自由に動き出して、物自身が好きなような車になったのでしょうか。
そうとは決して思えません。その車が出来るまでには、設計者が『心』の中に車が作られて、
その通りに車が工場で作られて行ったのです。
もし『心』が無かったならばこのような整った車は出来ないであります。
『心』が元で、心の中に創造した通りの形のものが順序よく整列された車が出来上がったのです。
このようにすべて形あるものは心が先で出来上がったのであります。
このような考え方を『唯心論』と申します。
宗教と宗教性
『宗教』は心の存在を肯定していて神、仏の存在を認識し、何事にも捉われない自由自在な境地を自覚せしめることである。
『宗教』とは自分の眞性を自覚して、上下、左右、天地、四維、あらゆる方向のいづれに動いても、いづれに置かれても、
縛られない、恐れない、自由自在であり、無限なる『神の子』であると自覚するのを云うのである。
人々が直ちに『妄執(まよい)を乗り超え』て、心の真実つかんでもらいたいと願っています。
心の霧を払って、明るい光の中で自分の心を正しく見直せば、そこには無数の宝物がつまっているのです。
それに気がつけば、わたしもあなたも、毎日が新しい生活になることでしょう。
花園でお生まれになった釈尊が苦行林で一日にわずか一粒の麻子(あさのみ)をたべて苦行を続けられた。
『仏に帰依し奉る』と一度となえたのがもとでついに覚りにいたったという話や、
わずかなおかねで油を買って『供養』したという『貧者の一灯』が、未来には『仏の位』に登るきっかけになった。
雲がかかっていても太陽が存在しないと思って失望してはならぬ。
外の雲をとおして内の太陽を見なければならぬ。
諸君よ。喜びと愛と太陽の光線とを人生に蒔いて歩け、諸君が『心』で喜びを放送すれば、その『念』は消えるものではないのである。
念(おもい)は種だ。
やがて諸君が蒔いた「喜びの念」が、幾万粒の『喜びの果実』となって枝もたわわにこの世界に色づくことであろう。
自然は単なる物質的自然ではなく『意思ある自然』でありまする。
かくして「自然界の万物」はつくられたのである。
『有神論』と『唯心縁起論』とは一致するのである。
『大自然の心』は創造者だということができるのである。
『精神的』。『霊的』な領域はわたしたちの直感を通し、『聖なる瞬間』となって、その内側をかいま見せてくれます。
そのとき世界は突然静止、私たちは『偉大な精神・霊』と結びつき、愛によって、人と人の間に魂の交流の橋がかけられるのを感じます。
私たちはこの領域を、夢として、神話という人類の魂の成長の記録の集まりとして、あるいは個人の幻視や『神秘体験』としてかいま見ます。
宗教の真髄に達するまでの『心』で認識する『宗教性』の因縁は吾々の身近に満ち溢れています。
善き宗教的想念、善き言葉に心を振り向け、
その想念、言葉を心の内に常に把持して生活することが健康で美しく生きる為の糧となります。
唯物論と唯物史観と唯心論
例えば車の事で考えて見ても、一つの一つの金属、その他の材料が寄せ集まって出来たものが車であって、
車のどこを捜しても物ばかりで、車全体の心は無いのであります。
このように世の中のすべてのものは物ばかりが寄り合って出来たものであると云う考え方を『唯物論』と云います。
このように唯物論を根拠にして物的証拠を基礎にした歴史観を『唯物史観』と云います。
物的証拠等、あるいは科学的な弁証が出来ない神話、伝説、寓話、御伽噺等は唯物史観の考えでは否定することになります。
しかし浦島太郎の御伽噺でもアイシュタインの相対性理論に匹敵するほど深い哲学的な要素を含んでいます。
世界の神話等でも人々の深い心の奥底に存在する意識は多くの民族に共通するものがあります。
『心』は頭蓋骨を顕微鏡で観察したり、MRIの検査装置等で
科学的な検査をしても心を発見することも証明することも出来ません。
先ほどの車の事を例に上げて考えて見ましょう。
車のどこを捜し廻っても心を発見することは出来なのであります。
ハンドルも物であり、エンジンも物であり、シートも物でありますから、車は物以外のものは、何も無いと思われます。
しかし車が物だけで出来ているのでありましたら、物自身が自由に動き出して、物自身が好きなような車になったのでしょうか。
そうとは決して思えません。その車が出来るまでには、設計者が『心』の中に車が作られて、
その通りに車が工場で作られて行ったのです。
もし『心』が無かったならばこのような整った車は出来ないであります。
『心』が元で、心の中に創造した通りの形のものが順序よく整列された車が出来上がったのです。
このようにすべて形あるものは心が先で出来上がったのであります。
このような考え方を『唯心論』と申します。
宗教と宗教性
『宗教』は心の存在を肯定していて神、仏の存在を認識し、何事にも捉われない自由自在な境地を自覚せしめることである。
『宗教』とは自分の眞性を自覚して、上下、左右、天地、四維、あらゆる方向のいづれに動いても、いづれに置かれても、
縛られない、恐れない、自由自在であり、無限なる『神の子』であると自覚するのを云うのである。
人々が直ちに『妄執(まよい)を乗り超え』て、心の真実つかんでもらいたいと願っています。
心の霧を払って、明るい光の中で自分の心を正しく見直せば、そこには無数の宝物がつまっているのです。
それに気がつけば、わたしもあなたも、毎日が新しい生活になることでしょう。
花園でお生まれになった釈尊が苦行林で一日にわずか一粒の麻子(あさのみ)をたべて苦行を続けられた。
『仏に帰依し奉る』と一度となえたのがもとでついに覚りにいたったという話や、
わずかなおかねで油を買って『供養』したという『貧者の一灯』が、未来には『仏の位』に登るきっかけになった。
雲がかかっていても太陽が存在しないと思って失望してはならぬ。
外の雲をとおして内の太陽を見なければならぬ。
諸君よ。喜びと愛と太陽の光線とを人生に蒔いて歩け、諸君が『心』で喜びを放送すれば、その『念』は消えるものではないのである。
念(おもい)は種だ。
やがて諸君が蒔いた「喜びの念」が、幾万粒の『喜びの果実』となって枝もたわわにこの世界に色づくことであろう。
自然は単なる物質的自然ではなく『意思ある自然』でありまする。
かくして「自然界の万物」はつくられたのである。
『有神論』と『唯心縁起論』とは一致するのである。
『大自然の心』は創造者だということができるのである。
『精神的』。『霊的』な領域はわたしたちの直感を通し、『聖なる瞬間』となって、その内側をかいま見せてくれます。
そのとき世界は突然静止、私たちは『偉大な精神・霊』と結びつき、愛によって、人と人の間に魂の交流の橋がかけられるのを感じます。
私たちはこの領域を、夢として、神話という人類の魂の成長の記録の集まりとして、あるいは個人の幻視や『神秘体験』としてかいま見ます。
宗教の真髄に達するまでの『心』で認識する『宗教性』の因縁は吾々の身近に満ち溢れています。
善き宗教的想念、善き言葉に心を振り向け、
その想念、言葉を心の内に常に把持して生活することが健康で美しく生きる為の糧となります。