夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

宗教性と唯心論と唯物論と唯物史観

2016年03月02日 21時13分52秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
宗教性と唯心論と唯物論

唯物論と唯物史観と唯心論


例えば車の事で考えて見ても、一つの一つの金属、その他の材料が寄せ集まって出来たものが車であって、
車のどこを捜しても物ばかりで、車全体の心は無いのであります。
このように世の中のすべてのものは物ばかりが寄り合って出来たものであると云う考え方を『唯物論』と云います。
このように唯物論を根拠にして物的証拠を基礎にした歴史観を『唯物史観』と云います。
物的証拠等、あるいは科学的な弁証が出来ない神話、伝説、寓話、御伽噺等は唯物史観の考えでは否定することになります。

しかし浦島太郎の御伽噺でもアイシュタインの相対性理論に匹敵するほど深い哲学的な要素を含んでいます。
世界の神話等でも人々の深い心の奥底に存在する意識は多くの民族に共通するものがあります。
『心』は頭蓋骨を顕微鏡で観察したり、MRIの検査装置等で
科学的な検査をしても心を発見することも証明することも出来ません。


先ほどの車の事を例に上げて考えて見ましょう。
車のどこを捜し廻っても心を発見することは出来なのであります。
ハンドルも物であり、エンジンも物であり、シートも物でありますから、車は物以外のものは、何も無いと思われます。
しかし車が物だけで出来ているのでありましたら、物自身が自由に動き出して、物自身が好きなような車になったのでしょうか。
そうとは決して思えません。その車が出来るまでには、設計者が『心』の中に車が作られて、
その通りに車が工場で作られて行ったのです。
もし『心』が無かったならばこのような整った車は出来ないであります。
『心』が元で、心の中に創造した通りの形のものが順序よく整列された車が出来上がったのです。
このようにすべて形あるものは心が先で出来上がったのであります。
このような考え方を『唯心論』と申します。




宗教と宗教性

『宗教』は心の存在を肯定していて神、仏の存在を認識し、何事にも捉われない自由自在な境地を自覚せしめることである。

『宗教』とは自分の眞性を自覚して、上下、左右、天地、四維、あらゆる方向のいづれに動いても、いづれに置かれても、
縛られない、恐れない、自由自在であり、無限なる『神の子』であると自覚するのを云うのである。

人々が直ちに『妄執(まよい)を乗り超え』て、心の真実つかんでもらいたいと願っています。
心の霧を払って、明るい光の中で自分の心を正しく見直せば、そこには無数の宝物がつまっているのです。
それに気がつけば、わたしもあなたも、毎日が新しい生活になることでしょう。

花園でお生まれになった釈尊が苦行林で一日にわずか一粒の麻子(あさのみ)をたべて苦行を続けられた。

『仏に帰依し奉る』と一度となえたのがもとでついに覚りにいたったという話や、
わずかなおかねで油を買って『供養』したという『貧者の一灯』が、未来には『仏の位』に登るきっかけになった。

雲がかかっていても太陽が存在しないと思って失望してはならぬ。
外の雲をとおして内の太陽を見なければならぬ。
諸君よ。喜びと愛と太陽の光線とを人生に蒔いて歩け、諸君が『心』で喜びを放送すれば、その『念』は消えるものではないのである。
念(おもい)は種だ。
やがて諸君が蒔いた「喜びの念」が、幾万粒の『喜びの果実』となって枝もたわわにこの世界に色づくことであろう。


自然は単なる物質的自然ではなく『意思ある自然』でありまする。
かくして「自然界の万物」はつくられたのである。
『有神論』と『唯心縁起論』とは一致するのである。
『大自然の心』は創造者だということができるのである。


『精神的』。『霊的』な領域はわたしたちの直感を通し、『聖なる瞬間』となって、その内側をかいま見せてくれます。
そのとき世界は突然静止、私たちは『偉大な精神・霊』と結びつき、愛によって、人と人の間に魂の交流の橋がかけられるのを感じます。
私たちはこの領域を、夢として、神話という人類の魂の成長の記録の集まりとして、あるいは個人の幻視や『神秘体験』としてかいま見ます。


宗教の真髄に達するまでの『心』で認識する『宗教性』の因縁は吾々の身近に満ち溢れています。
善き宗教的想念、善き言葉に心を振り向け、
その想念、言葉を心の内に常に把持して生活することが健康で美しく生きる為の糧となります。