ついに、霞ヶ関は「日本人」のアイデンティティーの喪失と、社会のアメリカ化の推進に対する、新たな一歩を踏み出した。
日本人は、日本語と言う『言語』を使えない。
通常、日常会話を「日本語をなんとか使って」意思の疎通が為されているだけに過ぎない。
「肯定文」の形で話し始めて、途中から「否定文」の『態』に変わってしまったり、動詞が間違っていたり、「文法的に」めちゃくちゃな状態で話している事が多い。
単語を、思い込みで全く違った意味で使っていて、それが通じてしまったり。
テレビで、誰かがしゃべっている画面に、わざわざ「字幕スーパー・インポーズ」を付け加えるのに、誰も怪しまない。
多重言語放送では無い。
日本語で、日本人向けに流されている、日本で造られた番組に置いて、です。
日本での『国語』教育は、「言語教育」では無い。
漢字を覚える。
これは、日本語のニュアンスから、子供達に取ってはかなりの負担では有るが、致し方ない事だ。
しかし、それに加えて、「感想文」を書かせたり、一部の文章の「一部空欄」に当てはまる言葉(ないしは文章)を当てさせる。
さらには、「ここで作者が言いたい事は何か」と言う設問。
しかし、自分で考えるのならまだしも、三択で選ぶ。
当然、出題者の価値観の押し付けになる。
「この文章ではこのように解釈する物です」
以前、笑い話の様に語られた事が有った。
入試に使われた某新聞の「文章」の作者が、設問に対して、自分はそんな事考えた事など無い「答え」が、求められていた、と驚いた。
「オレ、そんな事考えてないよう」
「読解力」と言うと、聞こえは良い。
判断力を養う事の様に聞こえる。
しかし、実態は全就学児童に、同じ発想しか持てない様に、型にはめてしまう「答え」を導き出さねばならない様な「テクニック」でしかないのだ。
実際の「言語としての日本語」は、殆ど身に付けるチャンスが無いような、国語教育のシステムである。
「偏差値」エリートの官僚が考えた「教育指導要領」そのもの。
あくまでも、ペーパー・テストで、早く正解にたどり着く能力でしかない「偏差値」が左右して、母国語としての『言語』を、身につける事が無いまま、学校教育をおわらせてしまうのだ。
日本人同士は、大和の国の起源以来、「同じムラ」の社会で暮らして来た。
従って、多少「言葉」が正しくなくても、お互いの「阿吽の呼吸」で理解しあってしまう。
だからこそ、文字に書き出してみると、文法的にめちゃくちゃな話し方でも、日常に問題がほとんど無く、暮らして行ける。
従って、「理論的思考」が持てない。
と言う事は、「自分で考えられない」人間に仕上がってしまうのだ。
理論的な言語が守られていない社会では、『哲学』が成立しない。
何故なら、哲学とは、言葉の学問だからである。
『我考える、故に我有り』
考えると言う行為は、言語を介して行われる。
森羅万象の根源を、言葉で証明するのが<哲学>である以上、正確な言語を使用していない社会では、言葉で「人間の真理」が語られる事が、不可能である。
当地フランスでは、小学校は5歳から入学する。
そして5年間。
(その代わり、中学校が4年間)
小学校一年生から、始業は8時半で、昼食時間の1時間半を除いて、16時半まで授業が有る。
そのうち半分の授業時間に、『フランス語』が充てられている。
最初は、科目は「国語(フランス語)」と「算数」だけ。
日本では、『社会科』や『理科』等、多くの科目に分ける所を、「国語」の中の一分野として取り上げる。
小学校の5年間での、4年生と5年生くらいになって、「国語」と「算数」以外に、『歴史/社会』と『理科』とが、別の序業科目となって来る。
「国語」は、『レジュメ』と『詩』の暗唱と、『ディクテーション』とが、書かせない重要な要素である。
『レジュメ』とは、与えられた文章の「大意」を把握し、文章で表現する事。
簡単に言えば「あらすじ」である。
これこそ本当の「読解力」。
そして、有名無名の「詩」を諳んじ、リズムを付けて語る事で、「ちゃんとした」言葉の使い方のバリエーションと、ニュアンスとを身につけて行く。
小説や随筆の一節(数行から十数行)を、教師がゆっくりと読み上げ、文節毎に数回繰り返す間に、それを筆記する「ディクテ」は、言語としてのフランス語をしっかり身に付ける、最良の方法なのだ。
フランス語は、発音上は同じでも、或は微妙な発音の違いで、単数や複数、平常文や「条件法」、過去形の時制の違い、が出て来る。
文章を正確に聞き取り、正しく理解しないと、正しい文章は書けない。
それこそが、『読解力』である。
彼の英雄『ナポレオン』は、陸軍士官学校時代での教師の評価に、以下の様なコメントが有った。
「この子は、陸軍エリートを目指すより、故郷のコルシカの伝統で、「水夫」になる方が、身を助けるのではないか…」
何故なら、「フランス語」がひどい成績であったから。
数学は常に満点だったそうですが。
「陸軍士官学校」で、国語の良否が、成績を大きく左右する国、それがフランスなのだ。
(ナポレオンの名誉の為に言っておけば、大貴族の息子達が通う学校で有る以上、卒業すればドンドン出世して、すぐにも<将軍>になり、宮廷に出仕する様になる事が分かっているため、皆3~4年かけてのんびり卒業するのが当たり前であったのに、ナポレオンは1年で卒業した。150名程の卒業生中138番くらいでは有ったが、1年で出る事は、かなりの好成績と言える)
そのような「国語教育」に曝されて育つからこそ、フランス人は理屈っぽい。
言い換えると、どのような職業や年齢層であろうと、何らかの意見を求められたら、党党と意見を述べる。
日本人によく有る、「分かりません」と「私には関係ないですから」と言う返事は、絶対にあり得ないのが、フランス人である。
勿論、今の世の中は「外国語」の二つや三つ出来なければ、どうしようも無い。
従って、小学校3年生から、週1時間の英語が加わる。
中学校からは、外国語は2カ国語が必修となる。
(ちなみに高校では、「ラテン語」か「古代ギリシャ語」の初等過程も、必須科目である)
だがしかし。
外国語を学ぶのは、母国語が「ちゃんと使えるという前提」が有っての事、では無いのだろうか。
始まったばかりの、日本での小学校の英語の授業に、教師が居ないとか。
英語の教科を履修していない先生達が、暗中模索しながら授業をしている。
あるいは、県が見つけて来た「補助指導員」が行う。
補助指導員の場合、「英語が母国語」で「大学卒」と言う条件で募集して、集まらないとか。
まず、英語が母国語、と言ってもアジアやアフリカに沢山有る。
しかも、「大学卒」が何となく通用するのは日本だけ。
例えば、ヨーロッパ各国では、大学は最高学府の「各種専門大学校」に行けない生徒達の受け皿である。
日本各地に有る「駅前外国語学校」に多いが、例えば「フランス語」教師。
往々にして、マルセイユ人だと良い方で、フランス国籍でもアラブ系2世やアフリカ系ばかり、なんて事になってしまう。
マルセイユが悪い訳では無いが、「日本語」を学びに来た外国人に、いきなり「こてこての関西弁」の先生で、果たして「日本語」を取得する、と言えるのか。
それと同じ現象だらけ。
アラブ系フランス人のフランス語の発音や、アフリカ系フランス人の発音は、もの凄く特徴が有る。
文科省肝いりで行う「小学校での必修英語」が、そのような人達の手で(いや口で)教えられるのかと思うと、ややため息きが出てしまうのだ。
勿論、アメリカ人ですら、発音は地方によって千差万別では有るが。。。
ジョージ・W・ブッシュの演説を聞き取れないアメリカ人が多数居た話は、あまりにも有名である。
まともに母国語としての「日本語」を身につけていない児童に、まともな発音でない英語教師によって「英語教育」を無理矢理やって、一体何のメリットが有るのだろう。
これぞ正しく「官僚の自己満足」ではないか。
英語を学ばせるな、とは言わない。
しかし、その前に、ちゃんと日本語を教えなさい、と言う事なのです。
確立した、「正確な言語」を共有する社会には、論理的思考が育つ。
物事を、様々に解釈し、合理的に分析して、様々に討論出来る社会が出来上がる。
言語が未熟な社会には、思想が育たない。
理論的思考が、分かち合えない。
そのような社会は、発展しない。
日本語と言う言語は、世界にも有数の、機微に富んだ多くのニュアンスを持つ、人間の心のひだの奥底を語れる、希有の高度に発達した言語である。
であるからこそ、ノーベル文学賞の授賞対象者が、輩出する。
しかも、自然科学も哲学も、十分な可能性を持っている。
実は世界には、母国語で高等教育を行えない国々が、数多く存在するのだ。
高等教育は、欧米に留学しなければ、自国では受けられない国が、多数ある。
自国に大学は有っても、欧米から招いた教授陣により「英語」で教育が為される国も、多い。
そこへ行くと、我がニッポンは、文系も理系も、日本国内で、日本語で高等教育が授けられ、受ける事が出来る。
文明のレベルと、経済力のレベルとが可能にした、贅沢なのだ。
それなのに、実に「言葉」の扱いが軽すぎる。
日本語が正確に身に付く教育が為されていない。
いや、待てよ。
論理的思考を有する、理論的に物事を分析して把握する、そのような国民の社会になってしまったら、最早「お上」が国民を自由に誘導する事は不可能となるのだ。
そうだ。
お役人様は、それでは困るのだろう。
国民は、あくまでも「もの言わぬ羊」の群れ、で居なくてはならないのだろう。
そうに違いない。
「自我」が育ってはいけない国なのだ。
だから、思考形態を不合理なままにしておく為の教育が、為されているのだ。
自分で考えない。
自分で判断出来ない。
自分の意見が言えない。
そもそも、自分の意見が無い。
そんな国民の造る社会。
それが、お役人様の望んで来た社会なのだ。
そして、実際その通りに造られて来た社会だったのだ。
実際に「ニッポン」を支配している国の言葉を教え込む。
これが成功すれば、お役人樣方は、そのまたご主人様の覚え目出たく、安楽な老後を見えない所で謳歌為さるのに違いない。
原発?
電気が無いと現代の社会は成り立たない。やっぱり、危ないけれど『原発』は必要です。
放射能?
自分の所は、大丈夫でしょう。
子供の被曝?
お役人様が、良いと言ってる以上、平気でしょう?
汚染食品?
怖いですね。でも風評被害には流されない様にしようと思ってます。私は買います。
菅首相?
少し頼り無いけれど、一生懸命やってるんじゃ無いですか?
安保?
無くなったら、一体日本は誰が守ってくれるのですか?
米軍?
基地の有る町は大変だろうけれど、有るからこそ日本は安全で居られる訳だから。
新聞?
読みますよ。朝日新聞に書いてある事は正しい事だと思います。
テレビ?
みのもんたサン、大好き。
小沢?
金に汚い政治は、これからの時代では、はもう無理なんじゃ無いですか? 個人的には嫌いです。
英語?
しゃべれる様になりたいです。アメリカに行きたい!
かくして、霞ヶ関の『桃源郷』が、出来上がっている。。。。
「小学校英語必修化」の効果は、抜群である。
そして、失う物は。。。?
日本人は、日本語と言う『言語』を使えない。
通常、日常会話を「日本語をなんとか使って」意思の疎通が為されているだけに過ぎない。
「肯定文」の形で話し始めて、途中から「否定文」の『態』に変わってしまったり、動詞が間違っていたり、「文法的に」めちゃくちゃな状態で話している事が多い。
単語を、思い込みで全く違った意味で使っていて、それが通じてしまったり。
テレビで、誰かがしゃべっている画面に、わざわざ「字幕スーパー・インポーズ」を付け加えるのに、誰も怪しまない。
多重言語放送では無い。
日本語で、日本人向けに流されている、日本で造られた番組に置いて、です。
日本での『国語』教育は、「言語教育」では無い。
漢字を覚える。
これは、日本語のニュアンスから、子供達に取ってはかなりの負担では有るが、致し方ない事だ。
しかし、それに加えて、「感想文」を書かせたり、一部の文章の「一部空欄」に当てはまる言葉(ないしは文章)を当てさせる。
さらには、「ここで作者が言いたい事は何か」と言う設問。
しかし、自分で考えるのならまだしも、三択で選ぶ。
当然、出題者の価値観の押し付けになる。
「この文章ではこのように解釈する物です」
以前、笑い話の様に語られた事が有った。
入試に使われた某新聞の「文章」の作者が、設問に対して、自分はそんな事考えた事など無い「答え」が、求められていた、と驚いた。
「オレ、そんな事考えてないよう」
「読解力」と言うと、聞こえは良い。
判断力を養う事の様に聞こえる。
しかし、実態は全就学児童に、同じ発想しか持てない様に、型にはめてしまう「答え」を導き出さねばならない様な「テクニック」でしかないのだ。
実際の「言語としての日本語」は、殆ど身に付けるチャンスが無いような、国語教育のシステムである。
「偏差値」エリートの官僚が考えた「教育指導要領」そのもの。
あくまでも、ペーパー・テストで、早く正解にたどり着く能力でしかない「偏差値」が左右して、母国語としての『言語』を、身につける事が無いまま、学校教育をおわらせてしまうのだ。
日本人同士は、大和の国の起源以来、「同じムラ」の社会で暮らして来た。
従って、多少「言葉」が正しくなくても、お互いの「阿吽の呼吸」で理解しあってしまう。
だからこそ、文字に書き出してみると、文法的にめちゃくちゃな話し方でも、日常に問題がほとんど無く、暮らして行ける。
従って、「理論的思考」が持てない。
と言う事は、「自分で考えられない」人間に仕上がってしまうのだ。
理論的な言語が守られていない社会では、『哲学』が成立しない。
何故なら、哲学とは、言葉の学問だからである。
『我考える、故に我有り』
考えると言う行為は、言語を介して行われる。
森羅万象の根源を、言葉で証明するのが<哲学>である以上、正確な言語を使用していない社会では、言葉で「人間の真理」が語られる事が、不可能である。
当地フランスでは、小学校は5歳から入学する。
そして5年間。
(その代わり、中学校が4年間)
小学校一年生から、始業は8時半で、昼食時間の1時間半を除いて、16時半まで授業が有る。
そのうち半分の授業時間に、『フランス語』が充てられている。
最初は、科目は「国語(フランス語)」と「算数」だけ。
日本では、『社会科』や『理科』等、多くの科目に分ける所を、「国語」の中の一分野として取り上げる。
小学校の5年間での、4年生と5年生くらいになって、「国語」と「算数」以外に、『歴史/社会』と『理科』とが、別の序業科目となって来る。
「国語」は、『レジュメ』と『詩』の暗唱と、『ディクテーション』とが、書かせない重要な要素である。
『レジュメ』とは、与えられた文章の「大意」を把握し、文章で表現する事。
簡単に言えば「あらすじ」である。
これこそ本当の「読解力」。
そして、有名無名の「詩」を諳んじ、リズムを付けて語る事で、「ちゃんとした」言葉の使い方のバリエーションと、ニュアンスとを身につけて行く。
小説や随筆の一節(数行から十数行)を、教師がゆっくりと読み上げ、文節毎に数回繰り返す間に、それを筆記する「ディクテ」は、言語としてのフランス語をしっかり身に付ける、最良の方法なのだ。
フランス語は、発音上は同じでも、或は微妙な発音の違いで、単数や複数、平常文や「条件法」、過去形の時制の違い、が出て来る。
文章を正確に聞き取り、正しく理解しないと、正しい文章は書けない。
それこそが、『読解力』である。
彼の英雄『ナポレオン』は、陸軍士官学校時代での教師の評価に、以下の様なコメントが有った。
「この子は、陸軍エリートを目指すより、故郷のコルシカの伝統で、「水夫」になる方が、身を助けるのではないか…」
何故なら、「フランス語」がひどい成績であったから。
数学は常に満点だったそうですが。
「陸軍士官学校」で、国語の良否が、成績を大きく左右する国、それがフランスなのだ。
(ナポレオンの名誉の為に言っておけば、大貴族の息子達が通う学校で有る以上、卒業すればドンドン出世して、すぐにも<将軍>になり、宮廷に出仕する様になる事が分かっているため、皆3~4年かけてのんびり卒業するのが当たり前であったのに、ナポレオンは1年で卒業した。150名程の卒業生中138番くらいでは有ったが、1年で出る事は、かなりの好成績と言える)
そのような「国語教育」に曝されて育つからこそ、フランス人は理屈っぽい。
言い換えると、どのような職業や年齢層であろうと、何らかの意見を求められたら、党党と意見を述べる。
日本人によく有る、「分かりません」と「私には関係ないですから」と言う返事は、絶対にあり得ないのが、フランス人である。
勿論、今の世の中は「外国語」の二つや三つ出来なければ、どうしようも無い。
従って、小学校3年生から、週1時間の英語が加わる。
中学校からは、外国語は2カ国語が必修となる。
(ちなみに高校では、「ラテン語」か「古代ギリシャ語」の初等過程も、必須科目である)
だがしかし。
外国語を学ぶのは、母国語が「ちゃんと使えるという前提」が有っての事、では無いのだろうか。
始まったばかりの、日本での小学校の英語の授業に、教師が居ないとか。
英語の教科を履修していない先生達が、暗中模索しながら授業をしている。
あるいは、県が見つけて来た「補助指導員」が行う。
補助指導員の場合、「英語が母国語」で「大学卒」と言う条件で募集して、集まらないとか。
まず、英語が母国語、と言ってもアジアやアフリカに沢山有る。
しかも、「大学卒」が何となく通用するのは日本だけ。
例えば、ヨーロッパ各国では、大学は最高学府の「各種専門大学校」に行けない生徒達の受け皿である。
日本各地に有る「駅前外国語学校」に多いが、例えば「フランス語」教師。
往々にして、マルセイユ人だと良い方で、フランス国籍でもアラブ系2世やアフリカ系ばかり、なんて事になってしまう。
マルセイユが悪い訳では無いが、「日本語」を学びに来た外国人に、いきなり「こてこての関西弁」の先生で、果たして「日本語」を取得する、と言えるのか。
それと同じ現象だらけ。
アラブ系フランス人のフランス語の発音や、アフリカ系フランス人の発音は、もの凄く特徴が有る。
文科省肝いりで行う「小学校での必修英語」が、そのような人達の手で(いや口で)教えられるのかと思うと、ややため息きが出てしまうのだ。
勿論、アメリカ人ですら、発音は地方によって千差万別では有るが。。。
ジョージ・W・ブッシュの演説を聞き取れないアメリカ人が多数居た話は、あまりにも有名である。
まともに母国語としての「日本語」を身につけていない児童に、まともな発音でない英語教師によって「英語教育」を無理矢理やって、一体何のメリットが有るのだろう。
これぞ正しく「官僚の自己満足」ではないか。
英語を学ばせるな、とは言わない。
しかし、その前に、ちゃんと日本語を教えなさい、と言う事なのです。
確立した、「正確な言語」を共有する社会には、論理的思考が育つ。
物事を、様々に解釈し、合理的に分析して、様々に討論出来る社会が出来上がる。
言語が未熟な社会には、思想が育たない。
理論的思考が、分かち合えない。
そのような社会は、発展しない。
日本語と言う言語は、世界にも有数の、機微に富んだ多くのニュアンスを持つ、人間の心のひだの奥底を語れる、希有の高度に発達した言語である。
であるからこそ、ノーベル文学賞の授賞対象者が、輩出する。
しかも、自然科学も哲学も、十分な可能性を持っている。
実は世界には、母国語で高等教育を行えない国々が、数多く存在するのだ。
高等教育は、欧米に留学しなければ、自国では受けられない国が、多数ある。
自国に大学は有っても、欧米から招いた教授陣により「英語」で教育が為される国も、多い。
そこへ行くと、我がニッポンは、文系も理系も、日本国内で、日本語で高等教育が授けられ、受ける事が出来る。
文明のレベルと、経済力のレベルとが可能にした、贅沢なのだ。
それなのに、実に「言葉」の扱いが軽すぎる。
日本語が正確に身に付く教育が為されていない。
いや、待てよ。
論理的思考を有する、理論的に物事を分析して把握する、そのような国民の社会になってしまったら、最早「お上」が国民を自由に誘導する事は不可能となるのだ。
そうだ。
お役人様は、それでは困るのだろう。
国民は、あくまでも「もの言わぬ羊」の群れ、で居なくてはならないのだろう。
そうに違いない。
「自我」が育ってはいけない国なのだ。
だから、思考形態を不合理なままにしておく為の教育が、為されているのだ。
自分で考えない。
自分で判断出来ない。
自分の意見が言えない。
そもそも、自分の意見が無い。
そんな国民の造る社会。
それが、お役人様の望んで来た社会なのだ。
そして、実際その通りに造られて来た社会だったのだ。
実際に「ニッポン」を支配している国の言葉を教え込む。
これが成功すれば、お役人樣方は、そのまたご主人様の覚え目出たく、安楽な老後を見えない所で謳歌為さるのに違いない。
原発?
電気が無いと現代の社会は成り立たない。やっぱり、危ないけれど『原発』は必要です。
放射能?
自分の所は、大丈夫でしょう。
子供の被曝?
お役人様が、良いと言ってる以上、平気でしょう?
汚染食品?
怖いですね。でも風評被害には流されない様にしようと思ってます。私は買います。
菅首相?
少し頼り無いけれど、一生懸命やってるんじゃ無いですか?
安保?
無くなったら、一体日本は誰が守ってくれるのですか?
米軍?
基地の有る町は大変だろうけれど、有るからこそ日本は安全で居られる訳だから。
新聞?
読みますよ。朝日新聞に書いてある事は正しい事だと思います。
テレビ?
みのもんたサン、大好き。
小沢?
金に汚い政治は、これからの時代では、はもう無理なんじゃ無いですか? 個人的には嫌いです。
英語?
しゃべれる様になりたいです。アメリカに行きたい!
かくして、霞ヶ関の『桃源郷』が、出来上がっている。。。。
「小学校英語必修化」の効果は、抜群である。
そして、失う物は。。。?
完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっている環境で生活していれば、そのうちに、英語も上達する。
我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしそのものが成り立たない。
日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境が整わないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。
日本の学生のために英語環境を整えることが、語学力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのがよい。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人のあるべき姿と考えることが大切である。
国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しく行われている。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。
英語を実用の言語とする政治指導者のさきを見据えた努力が大切です。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。
英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。かれ等は、生涯、歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能ではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。
一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育はない。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。
大人には考える教育が必要です。一人一人に哲学が必要です。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人には価値がない。
「感情的にならず、理性的になれ」と国民に訴える指導者がいない。
「国民の感情に反する、、、、、」と言うのでは、主張の論拠にならないが、それのみを言う。
感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。
大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生は、平和ボケ・太平の眠りの中にいる。
「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。
日本人は、国連中心主義が好きなようだ。
国連の議場で世界の人々を説得するためには、自己の言葉が冴えわたる必要がある。
議論のできない人があえて国連中心主義を唱えるのは、自己の他力本願を表明するための手段ということになるのであろうか。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
ただ私、所謂IT関連の仕事やっとりまして、言葉を知らぬ者のなんと多い事かと感じてもおります。
日本に暮らす以上、日本語こそが第一ですよねぇ…
>英語を我が国の第二公用語にするのがよい。国民も政治指導者も、英語の使用を日本人のあるべき姿と考えることが大切である。
私の見解とは異なります。
何故「英語の使用が日本人の有るべき姿」なのか、理解出来ません。
>英語圏に行けば、片言の英語でも通じる。暮らしてゆける。
でしょう?
ですから、何も全員の日本人が「完璧に」英語を話す必要等無いと考えます。
>大人には考える教育が必要です。一人一人に哲学が必要です。
その通りなのですが、考える事は、言語が必要です。
哲学には、言語が必要です。
そして、その言語は、日本人に置いては「日本語」だ無くてはなりません。
DNA の違う人種の言葉を、如何に流暢に操れてもその人種のなれる訳では無く、また自分の属する人種の価値観を失って、行き場の無い存在に成り果てると考えます。
勿論、日寿生活で学べます。
ただ、それはあくまで「スラング」に近い物で、言語としての言葉を身につけるのには、無理が有ります。
>日本に暮らす以上、日本語こそが第一ですよねぇ…
まさに、そこなのですよ。
そして、人間としての価値観を確立するには、日本人にとっては、日本語です。
ああは書きましたが、生活の中で学ぶ事が出来る環境が薄い物となっているのかもしれません。
読書も一つの手段なんですがねぇ…
最近「活字離れ」らしいですからねえ~。
少なくとも、情緒と感情を養う「文学」や「随筆」等が、若い人達には読まれないらしい。
「言葉は時代によって変化するから良いのだ」と、家人も言ってる位で。。。
意識が。
そこで、英語教育が日本文化、日本人的思考回路を阻害するか?という問題ですが、現代日本のやり方では阻害すると思います。それはご指摘の通り、日本語による議論、論理的思考を磨く教育の欠如、受験第一主義による日本文学学習の衰退のためであり、早期英語学習が悪いのでは無いと思います。土台教育がおかしいので道具としての英語に振り回されてしまうのだと思います。
そして、英語に対しても世論の誘導は極端ですね。英語が話せなくともノーベル賞を取られた方も複数おります。どんな言語でも中身をまず育てなくては。医学の世界では英語圏を除き、母国語の教科書で医学を学べるのはフランス、ドイツ、日本など少数です。その素晴らしさ、先人の偉大さと苦労をもっと大事に教育をして欲しいと願います。