joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

Audiobook

2005年09月27日 | 語学
急に暗くなるのが早くなってきました。こんなに早くなくても、という気もします。

先日紹介した本に、藤野英人さんが、語学学習は光が見えるあてもなく暗闇の中を歩くようなものだと言っていました。今わたしは英語とドイツ語のAudiobookを毎日聴いているのですが、ほんとにそんな感じです。

Audioboo聴こうと思ったのは、このブログでもよく取り上げる神田昌典さんの『お金と英語の非常識な関係』に付いていた対談CDを聴いたことがきっかけでした。日本でマーケティング会社を経営しているウィリアム・リードという方と神田さんの対談が英語で行われているCDです。

英語の勉強は去年から始めていましたが、ナチュラルな英語を聴き取ろうという野望はもっていませんでした。ただ、資格試験のリスニング問題を解ける程度の力は欲しいと思っていました。

それでも神田さんの対談を流して何度も聴いていくうちに、ふとウィリアム・リードさんの英語が分かる瞬間があったのです。それまでは英米人のナチュラルな英語をそのまま聴き取るなんて無理だろうし、このCDを聴き取ることも無理と思っていたので、少し驚きました。

もっともこのCDではリードさんはかなり手加減してしゃべってくれているのでしょう。

それからアマゾンを利用して英語のAudiobookを月に1つ買っています。正直言うと、何度も聴かなければまだ分からないので、次から次へと買うわけも行きません。お金の問題もあります。

それにあわせて、ドイツ語のAudiobookも買い始めました。ドイツ留学しても分からなかったドイツ語に再挑戦です。

やはりAudiobookには難しいものもあります。今、ビル・クリントンの“My Life”を聴いていますが、クリントンの訛りが(僕には)きつくて、なかなか聞き取れません。さらに、Windows Media Playerで再生速度を1.2倍にしているのも難しい原因かもしれません。これは背伸びしているかな、と思うこともあります。

でも、今はいつか出口に辿り着くことを目指して、暗闇の中を歩いているのです。一つのAudiobookを制覇するごとに、能力がどんどんアップすることを期待して。RPGって、したことないけど、こんなものなのかな?


涼風

参考サイト:『CD、テープを聴いて勉強しよう!!』

UDA式は面白いけど大変

2005年09月04日 | 語学
『英語のリスニングは発音力で決まる!―UDA式30音練習帳』という本で、この一週間ぐらい一日30分ぐらい発音の練習をしています。

リスニングできるように始めてみました。し始めて感じているのは、英語の発音というのは本当に私たち日本人とは違う口・唇・喉・腹等などの体の使い方をするのだなぁということ。当たり前のことなんでしょうけど、発音を思い切りおろそかにしてきた僕はいたく思い知らされています。

一つの音を出すだけでも、体験したことのない口の動きやお腹の使い方をするわけだから、つまり外国語を学ぶのはまるっきり知らない身体全体の感覚・リズムを体得するわけだから大変です。

これってやっぱり発想の転換のできる人、運動神経のいい人なんかが得意なんでしょうね。「語学は勉強じゃない」と語学のできる人が言うのも分かる気がします。

というわけで、頭が柔らかいわけでも運動神経がいいわけでもない私には大変です。

でもとりあえずトレーニング自体は面白いので続けてみます。これで最近行っているCDブックによる勉強がスムーズにできるようになれば、ご報告したいと思います。長い道のりですが(笑)。


涼風

参考サイト:「英語はリスニング力=発音力だということを学ぶ」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』 とても充実したサイトで複数のブログが同時に運営されています。

リスニングあれこれ

2005年05月13日 | 語学
最近は英語の勉強はNHKのラジオ講座や英語ニュースを聴いたりCDを聴いたり、主にリスニング中心になっている。

NHKのラジオ講座は『英会話初・中・上級』と『レッツ・スピーク』『やさしいビジネス英会話』。これらの番組は易しくもあり、難しくもある。

たとえ英会話初級でも、英語のスキットだけをずっと流されたら一回で理解するのは難しいかもしれない。たとえどんなに簡単な論理の英語でも、耳で理解するのは難しいのだ。ある英語サイトでは、初級の単語ほど聴き取るのは難しいと言ってあった。またどんなに簡単な英語でも、英語の発音では単語が連続して発音されるので、前後の単語で微妙に発音が変わったりする。

逆に、どれほど難しい論理の英語でも、日本語の解説が入ることで分かってしまうことがある。その点では、やっぱりラジオ講座は日本語の解説が多すぎるかもしれない。

ただ、自分で本やCDを買って勉強するというスタイルだけだとなんだか孤独な感じがするので、“一緒にしている”という感覚を持つためにもラジオを聴いていこうと思います。

ただ、僕にとってはともかく、よくできる人にとっては英会話上級でも全然物足りないかもしれない。それに対して「やさしいビジネス英会話」は、大学の英語の先生ですら難しいと言っています。そうかもしれないけど、解説の杉田敏さんの話とか面白い。かならずしもビジネスに内容は限っていないし、本気で英語を勉強したい人にとってはこれが一番いいのでしょう。

いずれにしても、どの番組ももっと日本語を少なくしたほうがいいんじゃないだろうか。

ラジオの外国語ニュースは、例えばドイツ語だとドイツ人がしゃべっているのに、英語は日本人がしゃべっている。なぜだろう?アナウンサーを日本人にしたいのなら、日本人でもドイツ語を上手く話せる人はたくさんいるだろうし、そんなことはNHKだって知っているだろう。

ひょっとして、じつはネイティヴのようにドイツ語を話せる日本人はいないということなのだろうか?でもゲーテ・インスティテュート(世界一有名なドイツ語学校)でドイツ語教えている日本人もいるしなぁ。

CDは、神田昌典さん著『お金と英語の非常識な関係(上) 神田昌典&ウィリアム・リード、スペシャル対談CD付き』の付録のカナダ人ビジネスマンとの対談CDを聴いたりしている。最初は全然分からなかったのに、最近は聴くごとに分かる量が増えてきた。なんだか嬉しい。

『やさしいビジネス英会話』にしても『お金と英語の非常識な関係』にしても、やっぱり内容のある話だと理解できると楽しくなる。

日本に比べて欧米では、リスニング・ブック、つまりテープやCDを本代わりに聴く習慣が根づいているみたいで、いろいろなジャンルのCDが売ってある。僕がドイツにいたときも、本屋さんでたくさん朗読CDが売ってありました。ビジネスから文学・歴史・社会科学・エッセイ、他いろいろ。アマゾンで試しに買ってみようかな。

この朗読CD・テープというジャンルは、なぜ日本でもっと流行らないのだろうか?僕は最近買った本田健さんの講演会CDももう何度も聴いている。本だと2回も読めばもうそれ以上読む気はなくなるけど、CDやテープだと何度も聴こうというモチベイションが湧く。それは、たんに内容だけじゃなく、話者の息遣いみたいなのに触れるのが楽しいからだと思う。

でも、ホントは書籍を読んでいても書き手の息遣いみたいなのを読み手は感じることができる。だから僕には「作者の消滅」みたいな議論は最初から興味を感じなかった。

もちろん日本にも朗読CDはあるけど、名作文学とかに限定されている印象がある。もっとたくさん、例えばベストセラーになったらすぐ朗読CDを出してもいいと思うけど。『電車男』や『バカの壁』のCDとか(僕は両方とも読んでいないけれども)。

人間はラクな方へラクな方へ流れていく。本を読むより聴くほうがやはりラクなのです。ただ日本人にはまだその習慣がないだけで、一度その習慣ができると、あっという間に拡がる気はするのだけど。

自己啓発やビジネス関連ではたくさんテープとかあるだろう。でも、もっとベストセラーの本でCDを出したりすれば、本を買った人が再度購入したりするのではないだろうか。出版社にとっては一粒で二度おいしいのです。

なんだかとりとめのない内容になってしまいました。


涼風


ひとそれぞれ

2005年03月05日 | 語学
もう一つブログを新しく作ってみました。ドイツの新聞などの記事を紹介するサイトです。思いつきでぱっぱっと作ってみたのだけど、なんだか疲れました。

まず、今回はライブドアのブログで作ってみたのだけど、勝手が違うからか、なかなかスムーズにサイトが作成できない。作り方の説明にも一般的でない用語をたくさん使っていて、あまり初心者には親切じゃない感じがした。僕がgooに慣れているからかもしれないけど、はじめてブログをする人には別の方がいいのかも。

そうは言っても、慣れるとまた良さが分かるかもしれないですけどね。

あと、新聞記事を日本語で要約したりするのも、ちょっと時間がかかったかな。毎日続けるのはしんどいかも。

いつまで続くか分からないのですけど、一定期間続いて、これからも続けられそうだと、ブックマークに加えたいと思います。


でも、ただ海外の新聞の記事を紹介するという内容自体は、もう貴重じゃないですね。翻訳ソフトはまだ英語ぐらいしか廉価で出回っていないけど、そのうち各国語が安く手に入るのでしょう。すると、外国語を勉強しなくても海外の新聞を読むことはどんどん当たり前になるし、もうすでになっている。

なのに、なぜいまだに世間は英語ブームなのでしょう。そのうち自動通訳機なんてのもできるだろうに。

僕も語学を勉強しているけど、それは何かに役立てたいというより、語学学習自体が一種のゲームのように感じられて面白いから昨年から英語を勉強しています。

でも、ビジネスのような限られた場面で使われる外国語であれば、専門用語に対応する翻訳・通訳マシーンはこれからもっと性能アップすると思う。

神田昌典さんは、英語は完璧にマスターすることはあきらめて、自分の関心にかかわる範囲の単語の習得に励めば、わずかな単語数で足りると、昨年の著書『お金と英語の非常識な関係』
で書いていました。それは僕もそうだと思います。たとえビジネスでも、海外の人も、相手が日本人なら手加減してしゃべるだろうし。

それにそれほど語彙がなくても、相手が外国の人でも、気の合う人とはコミュニケーションは成立すると思う。これは僕の体験からの印象です。もちろん、日本人同士のようには行かない。だけど、それだけに、ほんとに伝えたいことをだけをシンプルに伝え合うコミュニケーションになって友達になれるのです。

それに、言葉を完璧に理解すれば友達になれるのなら、わたしたちはすべての日本の人と仲良くなっているはずだけど、現実は違いますからね。


とは言っても、「ネイティブスピーカーシリーズ」の英語学者大西泰斗さんなんかは、1000語や2000語で英会話ができると思ったら大間違い。深い内容のことを話したければやはりもっともっとたくさん語彙力を増やすべき、と言っています。

こういうもんだいはどうなのだろう?

夏目漱石は、ロンドンに5年いて、でも「英語なんてわかるわけがない。イギリス人のように英語の本を読めるわけがない」と悟った時点で留学を切り上げたそうです。

日本で一番ドイツ語がうまいといわれている三島憲一さんも、「外国語なんか勉強するな。一頁に一つでも分からない単語があるなら、その言葉をまったく分からないのと同じなんだ」と言っていました。

僕に知る範囲では、ものすごく語学ができる人ほど、語学に対して謙虚です。それに、そういう人ほど、語学だけできても仕方がないと冷めています。それよりも、たとえ語学ができなくても、深い内容について考え話すほうが大切だと感じているようでした。

中谷彰宏さんも、著書『昨日と違う自分になる「学習力」』
の中で、1冊の洋書を読むよりも、その時間を使って10冊の日本語の本を読むことが大事だと言っています。


うーーん。


でも、なんでもそうだけど、最後は人それぞれで結論を出すしかありません。語学ができるのもすばらしいし、できなくてもすばらしい、そういうものなんだと思います。一番大切なのは、コンプレックスにとらわれないことですね。


涼風


「自分」が消える

2004年12月16日 | 語学
わたしは、しばらく前から、英語の音読を毎日しています。教材は登内和夫さんの『超右脳つぶやき英語トレーニング』(総合法令出版)などです。

この教材は、テキストを見ながらCDに吹き込まれているネイティヴの朗読を聴いて一緒に音読していきます。CDには、普通の速さと2倍、3倍の速度が入っています。

でも最初は、正直言って2倍でもついていけないし、3倍なんてもってのほか、でした。やはり英語ですからね。それで、Windows Media Playerの速度調節を使って、1.3倍とかで音読していました。

ただ、TOEICを受けようと思うようになって、もっと真剣にやるようになってからは、その速度を少し速めるようにしました。

それで最近は3倍近くまで上げて音読しようとしているのですが、そこまでになると、やはり速くてついていけません。テキストを目で追うのも満足に行かず、まともに口で発音することはできません。

その音読を今日もやっていました。やはりCDの速さについていけず、ろくに音読もできません。ただ始めてから数分後に、「自分はこのCDの速さについていくのが怖いのかもしれない」と思ってみました。もしこの速さに自由についていってしまったら、自分は英語をぺらぺらになってしまうのかもしれない。頭の中は英語で考えるようになり、自分の中にまったくべつの英語圏の人格ができてしまうのかもしれない。もしそうなったら、どうなってしまうだろう。自分が自分じゃなくなってしまう。そんな怖れがあるのかもしれない、と思いました(もちろん、音読の最中はここまではっきりと言語化していませんが)。

ただ、「自分はCDの速さについていけないのではなくて、ついていくのが怖いのかも」と思ってからは、(比較的)口の動きがCDに合わせられるような感覚になったのです。

もちろん、とても速い速度なので、満足な朗読はまだできません。でも、なにかそれまでとはちがって、自分の口が早く動くような感覚になったのです。これはとても面白い体験でした。


ある人が外国語を話せるかどうかは、もちろんその人のそれまでの努力にかかっています。しかし、ひょっとしたら、本当は話せる実力があるにもかかわらず、「外国語が話せるようになるのが怖い」と心の奥で思ってしまうことは多いんじゃないか、と思いました。そういう人は、じつはとても多いのかも、と。

外国語をぺらぺら話せるようになるというのは、それまでの「外国語ができない自分」というセルフ・イメージを手放すことです。これは、外国語コンプレックスをもった多くの日本人にとって、じつはとても怖いことなのかもしれない。

だって、外国語ができないほうがいいじゃないですか。「あまり話せない。わたしはだめだ」と思い、「ダメな自分」でいたほうが、自分の羽根を広げてぱっと人前に立つよりラクなのですから。


わたしが愛読している心理学者チャック・スペザーノさんは、ひとはじつは幸せになることを怖れている、とよく言います。

「人々が持つ一般的な怖れというのは、“もしも自分たちが本当に幸せだとしたら、自分たちはコントロールを失ってしまうだろう”というものです」(『30日間でどんな人でもあなたの味方にする法』ヴォイス)

これは、逆説的な言葉だし、理解するのが難しい言葉ですよね。だって、幸せになりたいと自分は思っているはず、とわたしたちは思っているのですから。わたしも、この言葉の言っていることは難しいと思ってきましたし、今でもちゃんと分かっているのか分かりません。

ただ、この「幸せ」というのを、例えば、大きく羽を広げること、みんなを引っ張っていくこと、人前で自身あふれた姿をみせること、大きな事業を起こすこと、不可能に思えることでもチャレンジして実際に行動すること、例えばそういうように解釈してみると、比較的分かるような気もします。そんなすばらしい人になってしまったら、わたしたちはどんどんと前に出て、実際に動くことが求められます。そんなの、しんどいし、怖いし、イヤですよね。


外国語がぺらぺらになっちゃったらどうなるのでしょう。他の国の人の言葉が完全に分かっちゃったら、どうなるのでしょう。もうボソボソと、ゆっくりとはしゃべっていられず、頭を早く回転させなければなりません。片言でしゃべっている間は、そのスピードを自分でコントロールできますが、ネイティヴのようになってしまったら、自分で気づかぬうちに頭が回転し、言葉が出てきてしまう。自分なのに、自分でなくなってしまう。自分なのに、自分ではない何かが勝手に反応してしまっている。

外国語学習では、じつはそのことを多くの人がおそれているのかもしれない、そんなことをふと想いました。

言葉のギフト

2004年12月06日 | 語学
きのう、言語を学ぶことはその国のひとの気もちを学ぶこと、という話をしました。そう考えると、英語だけでなく、さまざまな国の言語を学ぶ機会を社会で確保しておくことの重要性も、今までよりわかるような気がします。


東京都は、現在、東京都立大学を新しい大学に変えようとしています。その具体的な構想は私は知りませんが、語学教育については英会話学校と連携して授業をしたいそうです。

大学を出て多くの人が英語を流暢に話せるわけではない現在の状況を考えれば、それは悪くないかもしれません。

ただ同時に、都はドイツ語やフランス語の授業などを減らすつもりでいるらしいです。

これについては、それはどうかな、と思いました。


ヨーロッパに滞在した人は御存知と思いますが、ほとんどの国の若者は英語を話すことができます。それはアジアでも同じだと思います。中国や韓国の日本ような大国はともかく、世界のほとんどの小国の人たちは、英語を話せなければ仕事を得る機会も減るため、英語を学ぶことに真剣です。

だから、英語を話せれば、とりあえず世界中の人とコミュニケートできますし、気持ちを通わせることもできると思います。

どんなに言葉がうまくなっても、やはり最後には、ある人とある人が仲良くなるかどうかは相性だと思います。だから、最低限通じ合う言葉があれば、人と人との相互理解は進むかもしれません。

その点では、英語教育を大学で充実させることは、悪くないのかもしれません。

ただ、そのおかげで、様々な言語を学ぶ機会を学生が「奪われる」ことになる恐れは、国や地方自治体や大学は意識してよいように思います。

大阪大学教授で、日本人で一番ドイツ語がうまいと言われている三島憲一さんが、10年以上前のエッセイで、「語学がうまくなるかどうかは、その人とその言葉の相性で決まる」と書いていたのが、今でも印象に残ります。

三島さんはドイツ語の達人と呼ばれていて、わたしも彼が同時通訳する様子を生で見たことがありますが、その圧倒的なドイツ語のスピードと日本語の説明のよどみのなさはびっくりしました(ドイツ語はわからなかった(笑))。

それだけの人が、あるとき韓国語を学ぼうと思いたったそうです。本人も、外国語の習得には覚えがあるから、2年ぐらいみっちりやればなんとかなると思ったそうです。

わたしは韓国語を知りませんが、私の知っているかぎりでは、日本に来ている外国の人で一番日本語を日本人並みに話せるのは韓国の人たちです。それだけ言葉がやはり似ているのでしょう。韓国語を学んでいる日本人の知り合いも、二つの言葉は似ているし、起源は同じではないかと言っていました。

しかし、にもかかわらず三島さんは韓国語には惨敗したそうです。そのとき、やはり言葉を学ぶのは相性だとつくづく思わされたそうです。


だから、英語教育の充実はいいけれど、英語以外の言語の才能をもった人がその言語にアクセスできる機会がなくなることだけは、やはり避けなければならないことなのだろうと思います。

ドイツ語やフランス語なんて、まだまだ勉強する機会もあるし、学習書も出ています。しかし、それ以外のマイナー言語となると、勉強できるチャンスすら少ないのが今の日本の現状だと思います。それによって多くの人の才能が発揮できないのであれば、それは日本にとっても損失のように思います。

《感覚》で学ぶと...(!!!)

2004年12月05日 | 語学
以前にも書きましたが、最近、英語の勉強を始めました。TOEICを受けようと思ったのです。学校には通わず、自学自習でやっています。教材は、英語学習サイト「TOEICスコアアップ」の「お薦めのテキスト」を参考にしています。

その中で強く薦められている「ネイティヴスピーカー・シリーズ」(研究社)という累計30万部のベストセラー英語参考書シリーズがあります。著者は東洋女子短期大学助教授の大西奉斗さんと、イギリス出身で日本やスペインなどで英語を教えているポール・マクベイさんです。

わたしは現時点でこの著者たちの『ネイティヴスピーカーの英文法』『ネイティヴスピーカーの前置詞』『ネイティヴスピーカーの英語感覚』を読みました。これらの感想をちょっと書いてみたいと思います。


著者たちがこれらの本で目指しているのは、英語を一つ一つ日本語に置き換えて理解させるこれまでの英語教育の克服です。それに代えて彼らは、ある英語の単語を用いるときに、その単語に対して英語圏の人たちがどんな感覚をもっているのかを説明することで、その感覚に応じて柔軟に英語を使うことを提唱しています。

例えばatという前置詞を『新英和中辞典』(研究社 1977年版)という薄めの辞書で引いても、8つの用法が出ています。8つあるのはいいのですが、そこでは

「位置」at the front door
「時刻」at 5 o’clock
「状態」at peace
「方向」look at the moon
「感情の原因」wonder at the sight
「割合」at full speed
「数量・代価」at a good price
「じょうず・へた」be good at

など、およそ日常の会話・感覚からかけ離れた定義づけが日本語でなされ、そして用法・例文がいくつか挙げられています。

でも、常識的に考えて、英語圏の人が「状態を言うときはatだから」とか「方向を言いたいときはatを使って」なんて考えているわけないですよね。私たちだって、「5時《に》」「学校《へ》」など、「に」「へ」を使うときに意識していないのと同じです。

また、「位置」と言ったって他にもonやinやby、「方向」でもforなどもあるのですから、「atの意味は位置だから」なんて向こうの人は考えていない。じゃあどうしているのかと言うと、著者たちは、英語圏の人はatを使うときonでもinでもforでもない独自の感覚を感じていて、その感覚を表現したいときにatを使っているだけだということを説明していきます。

じゃあその感覚は何かというと、詳しい説明はもちろん本を見てもらうほうがいいのですが、簡単に言うと、「atの基本イメージは『点(point)』」だそうです。この「点(point)』の感覚を言い表したいときに英語圏の人はinでもonでもforでもacrossでもなく、atを使うのだそうです。

例えば 

The plane arrived at London.
The plane arrived in London.

を日本語訳すると「飛行機はロンドンに着きました」という同じ文章になりますが、英語圏の人は、atによって、たんに一つの「点(point)」としてのロンドンという地点をイメージしています。わたしの解釈だと、地図上の単なる一点という感じです。それに対してinを使うと、ロンドンを空間的にもっと具体的に思い浮かべ、その中のどこかに到着した、という感じですね(『ネイティヴスピーカーの前置詞』より)。

このように「点(point)」という感覚としてatをとらえると、上の8つの意味もすべて、その「点(point)」の感覚を表していることがわかるのです。

at 5 o’clockは、5時という「時点」を指して(point)います。at a good priceも、一つのお買い得価格を明確に指しています。

さまざまな用法があるように見えて、じつは、ある点(point)を指す(point)という感覚において、atの使い方は一貫しているんですよね。

つまり、私たちが学ぶべきは、一つ一つの用法・日本語訳ではなく、その言葉がもつ「感覚」であり、あとはその「感覚」にそって、英語を組み合わせていけばいいのです。

たとえば

He 〔is good at〕 playing baseball.

のbe good at という基本的なイディオムがありますよね。これも、向こうの人は学校で「イディオム」として暗記したのではなく、「野球をする」という一つの「点」について彼はgoodだと言いたいから、自然にそう言うだけなのです。何か、神様が「be good at」と言いなさいと命令したのではなくて、atの特性に合わせて自然にそう言うようになったんですね。


このネイティヴスピーカー・シリーズでは、このように英語の一つ一つの言葉について英語圏の人々が感じている《感覚》を、イラストやキーワードなどを用いながら説明していきます。この感覚にそうと、意外なことがわかったりします。

たとえば、anyは否定文や疑問文で使うとわたしたちは学校で教えられてきましたが、じつはその説明は間違い!であること。willとbe going toははっきりと違うこと。aとtheは何が違うのかということ。なぜwouldやcouldなどの助動詞の「過去形」が現在を表す文章で多用されるのかということ。英語には未来形がないこと、などなど。英語の勉強を始めた私にとっては、目からウロコの出る事実をたくさん教わりました。


アマゾンの書評を読むと、アメリカに留学してTOEICで900点をとった人でも大西さんの本を読むと教えられることがあると書いてありました。興味のある方は読んでみてもいいのではと思います。


またこれらの本を読んで面白かったのは、英語を学ぶことは、英語の規則を覚えることではなく、英語をつかっているときの英語圏の人たちの《感情・感覚》を学ぶことだということです。

英語を規則として学ぶ限り、わたしたちはつねに英語を頭の中で日本語に置き換えざるをえません。「I」は「わたし」、「must」は「しなきゃ」と、決まった対応関係に従う必要があります。

でも英語の言葉を使うときの英語圏の人たちの感覚を学ぶと、言葉を学ぶことが、英語で生まれ育った人たちの気持ちを理解することになるのです。大げさに言えば、異文化理解です。

わたしはまだそのレベルには到達していませんが、言葉を学ぶことは一つの文化を学ぶことに通じることを、この本たちは、わたしたちにはっきりと教えてくれます。


すでに衆知のことになっているように、20世紀の言語学者ソシュールは、わたしたちの目の前に広がる世界は、世界が先にあって私たちがそれを視ているのではなく、わたしたちの言語がものの見方を決定し、その見方が世界を作っていることを主張しました。

わたしはそのことをとっくに理解しているつもりでいましたが、このネイティヴスピーカー・シリーズを読むと、ある言語を使用することによって、その言語がある感情をわたしたちのなかに生み出し、それによって世界の視方がつくられていることが、もっと理解できるのではないか、という興味をそそられました。


とても興味深い、面白い本たちでした。この本が教えてくれた、感覚・イメージにそって言葉を体験するということを、これからもしていきたいと思います。


涼風

『マンハッタン・ラブストーリー』他(英語・ドイツ語学習の教材についてなど・・・)

2004年10月07日 | 語学
『マンハッタン・ラブストーリー』を借りてきて観ています。昨年放映されていたドラマです。

TVドラマには、奇跡のように思える作品がある。キャスティングから音楽から脚本からすべてマッチした傑作がときどきあらわれる。まあ、個人的な趣味に合致しているだけとも言えるけど。

『マンハッタン・ラブストーリー』はそんな奇跡の一つだと思う。こんな奇想天外なあらすじなのに、どうしてここまでドラマとして成立しているのだろう。どうしてこんなに演出と編集が絶妙なのだろう。どうしてこんなに役者たちは場面にはまっているのだろう。

脚本があまりにもはちゃめちゃだからこそ、演出と編集も徹底的に大胆にし、役者たちもドラマの世界に入り込んだ演技をしているのだ。

観たことのない人は、試してみてください。ぶっとびます。



英語の勉強のため、本を買っている。でも、リスニングの教材は図書館で借りてすましています。こういう語学の教材については、やっぱり公共の図書館で充実させて欲しい。語学なんて一、ニ冊勉強してもものにはならないのだから。

今日は、『語源とイラストで一気に覚える英単語 』を買いました。中々カルチャーショックな本です。語源を軸に様々な単語を整理して分類し、単語の便利な習得法を提案しています。こうやって見てみると、無数にある英単語もすっきりとグループ分けして覚えるもののように思える。

こういう語源で英語を勉強する仕方は最近になってポピュラーになったものらしいです(詳しくは『TOEICスコアアップ』をみてください)僕が高校で英語を勉強していたときは知らなかった。

英語の勉強に関する本を見ていて思うのは、じつに様々な本があること。今まで知らなかったけど、その多様さには驚くし、中にはとても面白いものもあります。単に単語や文法・文章をならうのではなく、英語の感覚を掴んで学ぶようなものもあって面白い(例えば『ネイティブスピーカーの英文法―英語の感覚が身につく』大西 泰斗 (著), ポール・マクベイ (著) など。と言っても、他にはまだわかりません(笑))

それに比べてドイツ語学習の教材のなんと貧弱なことよ。本屋の棚を見ても、大抵は初心者用のものしかない。

これはたんにドイツ語学習者の数が少ないことに起因させてよいのだろうか?しかし、本屋の棚を見てみると、それらの初心者用の教材も出版されたのは最近だったりする。ということは、あまり改善の見られないまま、相も変わらず同じような教材が(一応、他の執筆者によって)出版されていることになる。

でも、上記の英語の教材にしたって、基本的にビギナー向けの本なのだ。ビギナーに向けて、無味乾燥な受験的な学習ではなく、もっと生きた英語に近づくための学習を提唱している本なのです。おそらくそれらの本は、専門的な語学研究を踏まえて、それを一般の人が学ぶために役立てようと執筆者たちは工夫してくれている。

なのになのに、ドイツ語の教材については全然工夫が見られないのはなぜなのでしょう?受験参考書的な本ばかりで、一般の人に全然アピールしていないよ。まあ、ドイツ語をわざわざあ勉強しようなんていう人は、本にアピールしてもらわなくても自分から気合入れて勉強するような人たちが多いのかもしれないけど。

でも、専門的にドイツ語を研究している人は日本の大学にも一定数いるのだから、もっと目からうろこが落ちるような学習教材を作って欲しいのだ。

上記の大西 泰斗さん、ポール・マクベイさんの英語の説明なんかは、とても英語の感覚がわかりやすく説明されています。同時にそれらの説明は、ドイツ語を理解するうえでも、じつは役に立つんじゃないだろうか、とも思えます。ということは、ドイツ語の規則を単に教えるのではなく、もっとドイツ語の感覚をわかりやすく教えてくれる本があってもいいはず。また専門的な研究者なら、そういう感覚を知っているはず!

そういう良質なドイツ語学習の本を知っている方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。

『今すぐ話せるドイツ語単語集』

2004年09月19日 | 語学
『DUO 3.0』に触発されて、ドイツ語の勉強ももう一度始めようと思う。僕はドイツ語には10年以上かかわっていたけど、結局全然中途半端に終わっていた。

『DUO 3.0』のように例文で単語を覚えることのできるものを探すと、こういうドイツ語単語集があった。

単語を例文で覚える式の本はたくさんあるけれど、ちゃんとCD付きのものはこれまで意外となかったのではないだろうか。これは2002年に出たものだけど、これまでこういうものがなかったこと自体、不思議だ。これもひょっとしたら、『DUO』の影響なのだろうか。

東進ブックスのこの本を半分ほど読んでみたけど、なかなかいい感じだ。ドイツに暮らしていたときに多少ドイツ語はかじったけれど、しかしあちらで暮らしていると最初は一生懸命語学を勉強しようと思うが、そのうち生活に慣れてきて、普段使うごく限られた言葉しか口にしないようになり、結局あまり語彙数が増えなかった。なんとなく、ですべてを済ましてしまうようになるのだ。

だから、海外に滞在していたから語学に堪能だと思うのは間違いで、あちらで暮らしてかつ毎日ちゃんと勉強していた人だけが語学は上達する。

東進ブックスの本に戻ると、例文はとても基本的な、でも生活に密着した文章がならんでいて、単語も日常生活に必要なものが並んでいる。僕自身は、この生活に密着した言葉をじつはちゃんと覚えていなかったので、こういう初級者向けの本でもわからない文章が結構ある。これは真面目に取り組む価値がありそうだ。

こうなると、でもTOEICの勉強がおざなりになるし、時間の配分をどうしようかな。

えいごについてなど

2004年09月19日 | 語学
TOEICのため、ひさしぶりに英語を「勉強」し始めると、単語とか文法とかもっとしっかりやらなくちゃ、と“机上の勉強”モードになっていく。単語集の例文とか読んでいると、ゲームをしている気分で楽しくもある。

でも、英語ってほんとは道具のはず。なのに単純に英語の本を読んだりするのがまどろっこしくなる。「点数が上がらないよっ!」という感じになる。

これは本末転倒なのに、どうしても受験勉強のときの癖が出てしまうのだろうか。もう10年以上も前の話なのに。

でも、TOEICの勉強法を教えていただける『TOIECスコアアップ』によると、とにかく多読することで英語の文法になれることが肝心だと言うことなので、途中まで読んでいた“Eleven Minutes”(by Paulo Coelho)を引っ張り出して読んでみた。

少し読んだだけだけど、なんだかほっとしました。やっぱり勉強じゃない英語のほうが読んでいて楽しい。それに、勉強した単語も少し出てきていたし。

でも、わからない単語もやはり沢山あって、読んでいる気にはなるけど、でもじつは大意もつかめていない気がする。そして、実際の試験ではその肝心の大意がつかめていないと、読んだ気にはなっても点にはならないのでしょう。やっぱりある程度の勉強は必要なのでしょう。

でも、日本語よりも欧語の方がパウロ・コエーリョの雰囲気をよりつかめるのかもしれない。欧米の若者たちの閉塞した雰囲気が、日本語よりよく伝わってくるような感じがする。海外に暮らしたことのある人は同じ意見をもってくれるのではと思うのだけど、人生に希望を見出すと言う点では、日本人のほうがヨーロッパの人よりも長けている気がする。というか、あちらの方が、若者の雰囲気が何か諦念に彩られていた気がするのです。それは、僕が住んでいた場所がドイツの北だからだったかもしれないけど。

もう夜も遅いので(0時26分)、パウロ・コエーリョについてはまた書きたいと思います。


『DUO』へのお願い

2004年09月15日 | 語学
『DUO 3.0』という英単語・熟語集を読み続ける。一通り読んだので、あとは繰り返し読んでとりあえず例文を頭に入れたい。

同時に例文の単語に関連する派生語や同意語・反対語などにも目を通しているのだけど、うーん、やはり例文で覚えないと単語だけ見ても効率はよくないように思える。まあ、ある程度続けてみて様子を見てみるけど。

でも、できたらこの関連語・派生語・同意語などをもちいた例文集で新しい本を作ってくれたらいいのではないだろうか。やっぱりその方が単語が頭に入っていくような気がするけどなぁ。

お願いします、アイシーピーさん!

今日が始まり

2004年09月03日 | 語学
TOEICの問題集をパラパラとやってみました。推定では、今の私の英語力では500点台かな。現実とは厳しい・・・

この問題で700、800を取る人たちはすごい。この短時間ではじめて接する状況から瞬時に適切な判断を下すのだ。ほんとうにすごいと思う。わたしがその点数を取ろうとしたら、かなりの努力が必要だろう。

でも、わたしたちが英語をビジネスで、そして日常で使うのに、ほんとにそこまでの英語力が必要なのだろうか?

TOEICを否定しているのでは全然ありません。最初に書いたように、このテストで高得点を取れる人はすごいなぁと思ってしまいます。ただ、ほんとにここまでの実力が必要なのだろうか、と思ってしまうのです。

自分のかかわる英語の分野や自分が話す外国の人たちは必然的に限定されるはず。にもかかわらず、猫も杓子もTOEICで英語力を判断していては、ほんとはその分野に対応できる能力のある人を最初から排除している危険性もある気もする。

とは言っても、これが世の中の基準として認められている以上、やってみよう。英語の実力が上がるのは事実なんだからね。

わたしの目標は800点以上。