日曜日の夜は、いつも静かだ。
舗道に人影はなく、夜の闇だけがどん帳のように垂れ下がっている。
僕は部屋の窓辺に佇み、ぼんやりと淋しい夜の街を眺めながら静かに音楽を聴いている。スティーヴ・ウインウッドの「ABOUT TIME」。
哲学者のフーコーは、「人間の終焉」ということを説いた。
もしも、たった一人の人間が、真っ暗闇の異空間に突然投げ出されたらどうなるか?
そして仮に、その場所でたった独りきりで生きてゆくとしたならば・・・。
多分、関係性という概念は消滅するだろう。
だって僕たちは、一人一人が主体性や自己というものを絶えず確認しながら、他者との関係性によって相対的に自らを再確認し、連続性を保ちながら生きているからだ。
そして、自己という意識もなくなってしまうかもしれない。
でも、これだって単に論理的に順序立てて、積み木を積み上げるように言葉を並べているに過ぎない。
その前に、一個の人間して、自分の存在そのものに懐疑的になり、やがては発狂してしまうのかも。
僕たちは、社会や組織やコミュニティの中の一員として生きているという自覚があってこそ、安心して個人としての自我を謳歌出来るのだと言い切る事自体、余りにも短絡的で淋し過ぎる考えなのだろうか?
熱狂のあとに訪れる、空虚と諦観がある。
そんな感情があるからこそ、また生き続けようとする力が湧き上がって来るのかもしれないけれど。
時間が流れる。
まるで吹き荒ぶ風のように速く。
一日一日が、目の前を無表情のままで通り過ぎてゆく。
サルトルの「嘔吐」じゃないけれど、例えば葬式において故人の遺体と対面しても、僕たちは何の嫌悪感も感じることはない。
深い悲しみと、これまで生きてきたその姿を想像し、精一杯の尊厳を込めて祈るだろう。
でも、突然目の前に死体が飛び込んで来たとしたら?
そこに見るのは、恐怖や嫌悪や回避の感情ではないか。つまり、誤解を恐れずに言うと、気持ち悪さという感情だ。
何故か?
つまりそこに、「人間」としての幻想や歴史や慈悲を見落とすからである。剥き出しの「物体」として捉えてしまうからである。
その乖離を、そこに発見するからである。
夜が更けてゆく。
そしてまた、ひとつの日曜日が終わる。
暗い夜空が、街の光や、雲の流れや、風の強さや、温度の変化で微妙に変わる。
そう。
まるで、夜の翼のように。
舗道に人影はなく、夜の闇だけがどん帳のように垂れ下がっている。
僕は部屋の窓辺に佇み、ぼんやりと淋しい夜の街を眺めながら静かに音楽を聴いている。スティーヴ・ウインウッドの「ABOUT TIME」。
哲学者のフーコーは、「人間の終焉」ということを説いた。
もしも、たった一人の人間が、真っ暗闇の異空間に突然投げ出されたらどうなるか?
そして仮に、その場所でたった独りきりで生きてゆくとしたならば・・・。
多分、関係性という概念は消滅するだろう。
だって僕たちは、一人一人が主体性や自己というものを絶えず確認しながら、他者との関係性によって相対的に自らを再確認し、連続性を保ちながら生きているからだ。
そして、自己という意識もなくなってしまうかもしれない。
でも、これだって単に論理的に順序立てて、積み木を積み上げるように言葉を並べているに過ぎない。
その前に、一個の人間して、自分の存在そのものに懐疑的になり、やがては発狂してしまうのかも。
僕たちは、社会や組織やコミュニティの中の一員として生きているという自覚があってこそ、安心して個人としての自我を謳歌出来るのだと言い切る事自体、余りにも短絡的で淋し過ぎる考えなのだろうか?
熱狂のあとに訪れる、空虚と諦観がある。
そんな感情があるからこそ、また生き続けようとする力が湧き上がって来るのかもしれないけれど。
時間が流れる。
まるで吹き荒ぶ風のように速く。
一日一日が、目の前を無表情のままで通り過ぎてゆく。
サルトルの「嘔吐」じゃないけれど、例えば葬式において故人の遺体と対面しても、僕たちは何の嫌悪感も感じることはない。
深い悲しみと、これまで生きてきたその姿を想像し、精一杯の尊厳を込めて祈るだろう。
でも、突然目の前に死体が飛び込んで来たとしたら?
そこに見るのは、恐怖や嫌悪や回避の感情ではないか。つまり、誤解を恐れずに言うと、気持ち悪さという感情だ。
何故か?
つまりそこに、「人間」としての幻想や歴史や慈悲を見落とすからである。剥き出しの「物体」として捉えてしまうからである。
その乖離を、そこに発見するからである。
夜が更けてゆく。
そしてまた、ひとつの日曜日が終わる。
暗い夜空が、街の光や、雲の流れや、風の強さや、温度の変化で微妙に変わる。
そう。
まるで、夜の翼のように。