うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

大日本帝国最後の四か月

2018年04月04日 | 本と雑誌

迫水久常 河出文庫2015

迫水久常氏は鹿児島の名家の出身で、戦争前には大蔵官僚として活躍していた。戦争の終結を担うことになった鈴木貫太郎内閣では、今日でいう官房長官に相当する内閣書記官長を務めた。本書は迫水氏が書記官長として鈴木首相を支えた4か月間を回想した貴重な記録である。

鈴木内閣と戦争終結時の政府内部の苦闘については、「日本のいちばん長い日」はじめ色々な本で触れられているのを読んだり見たりしたが、現場にいた方の回想録を読むのは初めてだ。ひじょうにわくわくする。

迫水氏というと、もう20年以上前にNHKで放映していた「ヒロシマ」というドキュメンタリードラマで、若手の俳優(名前がわからない。このドラマ、カナダとの共同制作だが、日本側の俳優名がクレジットされていないのでさっぱりわからない)が髪をきっちり分けて国民服を着た姿で演技していたのが目に浮かぶ。鈴木首相は79歳、閣僚もみなかなりの年配者ばかりのなか、迫水氏は当時42歳だったそうだ。戦前の日本政府としては、かなりの抜擢人事だったのだろうし、それだけ事態が緊迫していた表れと言えるのかもしれない。

事実迫水氏は、鈴木内閣の組閣から首相談話の原稿作り、さらに8月15日の終戦詔書の原稿にも携わっている。泥沼に沈んだ日本を、とにもかくにも岸に引き上げたのは迫水氏の力に負うところが大きかったのだと、認識を新たにした。。

鈴木内閣の終戦工作のひとつに、ソ連を仲介役として和平への道筋を開く、という方針があった。東郷外相自らソ連に働きかけ、近衛元首相を派遣してスターリンと会談を行うという計画もあったが、実現はしなかった。のみならず、8月9日にはソ連から宣戦布告まで受けてしまう。

この件について、迫水氏は東郷外相自身、ソ連に関し、実際にはそれほど期待していなかったと、繰り返し述べている。日ソ中立条約は内閣発足前後の段階で、更新しないとの通知も受けていたようだし、モスクワの佐藤大使もソ連が仲介することは非現実的、という報告をしている。国際情勢からみて、日米の仲介をするメリットはなく、逆に戦端を開く可能性も高いだろうという見解は、政府内部ではある程度浸透していたようだ。

ひとつ意外に感じたのは、独伊が降伏した時の記述はある半面、ルーズベルト大統領の死去に際し、敵国であるアメリカ国民に哀悼の意を表したというエピソードには触れられていない点だ。迫水氏は直接かかわっていなかったのかもしれないが、政府内部や軍上層部はどう評価していたのだろう。ドロドロと、往生際の悪い戦時の日本政府だが、この話だけはさわやかないい話だと思うんだけど。トーマス・マンも感激したという話も聞いたが、内外の反応についてはもっと知りたい気がする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BOT

2018年04月02日 | ビジネス

ネットでBOTを検索しても、ロボットの略、としか出てこない。もともと世間一般に使われていた略語ではないのだろうけど、自分のいた職場ではBOTとは東銀、The Bank of Tokyoのことを指した。

大手銀行の再編が一気に進んだのは’97年ごろ、山一証券、三洋証券、そして北海道拓殖銀行破たんしたころからだと思うが、東京銀行はそれより少し前、1995年の春に三菱銀行と合併し、姿を消した。東京の名前だけ、三菱東京UFJ銀行という長ったらしい名前の一部に残していたが、これも昨日からなくなってしまったのは、ニュースで伝えられたとおりだ。

’97年の金融危機のことを先に書いたが、13行あった都銀はそれ以前から少しずつ再編が進んでいて(太陽神戸+三井、協和+埼玉)、次第に体力勝負の様相を呈するようになっていた。東京銀行はもともと外国為替専門銀行で、他の全国銀行とは違う地位を与えられてた。支店の数もたしか国内に30ぐらいしかなかったと思う。1980年代に入り、他の大手行も外為に本格的に参入し、東銀がいずれ何らかの事業再編を迫られることは、既定の事実になっていた。

時期は忘れたけど、年配のメッセンジャーの方が、東銀と三和(のちのUFJ、転じて現三菱UFJ)と合併するらしいね、と聞いてきたことがある。そのときは本当に知らなかったので、いや、聞いてませんよ、と答えたが、その方は東銀が消えてしまうことをかなり本気で心配し、残念に思ってたようだ。

三菱は、都市銀行の中では上位には位置していたが一番ではなかった。それがこの合併で一気に国内最大、世界でも有数の大銀行に上り詰めることになった(当時は円高が一気に進んでたしか90円弱ぐらいまで行ってしまい、ドル建てで計算するとすごいことになるという、いつもの構図)。今日的な視点では、三菱はメガバンクでももっとも目立つ存在なので、そんなに違和感がないが、当時はあの三菱がねえ、という意外感はあったな。

とはいえ、東銀は独特の行風-なんとなくバタ臭い-があり、それにくらべると三菱はちょっと雰囲気ちがう感じがしたので、そこから来る寂しさというのは、外部者である自分にもあった。東銀マンというのは、外大とかを出て、海外赴任とかを経験し為替に詳しい特別なエリートだったのだ。よく地方の銀行とか相互銀行などが、東京支店で外為本部を作ったりすると、東銀出身の人を呼び寄せて指揮を執らせることが多かった。一般の行員は外為を知らないからだ。自分のいたところ(外国銀行の東京支店)にも、東銀の人がいた。日銀や監督官庁にパイプがあるからだ。

東銀の事務センター出身の子と仲良くなって話すことがあったが、事務センターの上司は英語ぺらぺらの超エリートだったが、なにかがあって、事務センターにやられたらしく、腐ってどうもやりにくい人であったらしい。。ただ一般には、東銀の人は辞めても引く手あまた、という状態が普通であったようだ。

で、上の写真だが、これは入行してすぐに、受けさせられた外為講座の終了証とテキスト。東銀の関連会社が主催していた、金融関係のセミナーのひとつ。外国為替はまだ特殊な世界だったので、東銀の子会社が主催していくつかの講座を開いていた。

場所は今のiiyoがあるビルもあたりだと思う。東銀ビルという、戦前の建物のような古いビル(詳細不明)がそのころ建っていた。この地図も古いというか、まだ国鉄本社なんて、、と思ってみていたが、考えてみると民営化はこの少し前のことだった。古いことは確かで、たぶんこの地図の中で、今でも当時の建物のままなのは海上ビルぐらいじゃないかな。

こんな話、ふだんは(なんだか偉そうできまりが悪いし、昔話ばかりするおっさんってのもなんなので)したくないのだが、まあたまには。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の室内

2018年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム

いちばん忙しい時期は去りつつあるが、この土日も席の温まる暇はほとんどなかった。

家の中は緊急時モードにつき、まったく片付いてない。

まだ完成まで時間がかかりそう。

アルはしばらく体重が36g台に下がり、いい感じだったが今日は38g。

そろそろペットヒーターとカバーを外したいが。。

ココはよく食べ散らかしている。ごはんはアルより何倍もあげているが、ペレットなど食べずにおっことすので、実際にどのくらい食べているのか、わからない。

写真はなぜかPentax Q10 01 STANDARD PRIMEで撮影。ケージ越しに撮りやすいです。

そんなかんじで、だらだらと写真が続きます。

ふと目が合った・。

さて、来週も頑張りましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする