うさぎくん

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井伏鱒二「黒い雨」

2015年08月06日 | 本と雑誌

新潮文庫。

ネットを見ているとこの作品は、井伏氏の完全な創作ではなく、氏の友人が実体験を元にして書いた手記が土台となっているのだという。井伏氏はそれをとりまとめて書いた、ということで、その作品性を問うような指摘もある。が、実際読んでみると、そこにはしっかりと井伏氏の体臭がしみこんだ記述になっているし、単なる実体験の手記にとどまったものでもない。

 

教科書に載ったり、夏休みの推薦図書として子供たちに読まれることも多いだろうと思う。

ただ、この作品の興味深いところは、主人公がやや年配の男性(たぶん僕くらいの年代)であることだ。中年を過ぎた男でないと経験しないこと-上司や取引先との関係、近所の人たちとのつきあい、など-が、克明に描かれている。

小説の主人公は多くの場合、若者か、青年であることがおおい。その意味でこの小説は貴重な中年小説、という見方もできる。

主人公閑間が体験するのは、被爆直後の悲惨な世界、ではあるが、そうした中でも閑間は取引先の人、妻、近所の人たち、上司、姪と、身の回りの人たちと交流しながら状況を見極め、行動の判断をし、いろいろなことを感じている。戦争によってすべてが別世界となるわけではなく、そこにはしっかりとした日常が、依然として刻まれ続けているのだ。

たとえば、閑間と女性との関わり、として、つぎのような描写がある。

爆撃の時居合わせた、取引先の女主人とは、最初の衝撃を分かち合うことになる。お互い気が動転して、普段言わないようなおかしなことを言ってしまったり、傷口に触ろうとする閑間を止めるため、女主人が閑間の腕をつかんで、そのまま離さなかったり、というやりとりを見せる。

救護所に指定された民家の奥さんが挨拶に見えたとき、その顔をちらっと見て、「その顔にふさわしい後ろ姿」をゆっくりと眺めた、とある。美人だな、と思うがじろじろ見ては失礼なので、後ろ姿だけでもゆっくり眺めたかったようだ。

姪の病状が発覚したとき、妻のシゲ子が閑間に、姪に知られぬように話がしたいと言って、庭の隅に閑間を連れて行く。閑間はふと気がつくと、今まで自分が妻に手を引かれてここまで来たことに気がつき、こんなことを二人でするのは、若い頃にもなかったな、と思ったりする。 

派手な恋愛物語や、失楽園的な恍惚があるわけではない。

しかし、これらは年配の男の、それなりの日常的な異性との関わりとして、作品に潤いを与えている。

上司である工場長は、きまじめで責任感の強い人のようだ。僕は自分が以前仕えた上司-色白で背が高く、すこし女性的でまじめだが、ボスとしての職責を果たそうと頑張っている男-を、想像しながら読んでいた。後半で閑間が石炭確保のために奔走する姿など、勤め人なら誰でも共感できるところかも知れない。

こうした「日常」の克明な描写が、井伏の狙った視点なのだろう。そこには戦時下の一般庶民がどのような気持ちで日々を過ごしてきたかが、生き生きと描かれているように思う。

閑間が勤めているのは軍需工場だ。しかし、世間が軍国主義化していく風潮には違和感があったようで、三国同盟の頃、ヒトラーの演説を批判した評論家に、胸のすくような思いをしたことがあった。それが、工場で増産の仕事に専念していくうちに、ヒトラーに勝ってほしい、と思うようになる。

そして、この爆撃を受けたことで、自分は今まで矛盾だらけだった、と気がつく。

たぶん、一般の人たちは時勢に対して、閑間と似たような思いをしたことがあるのではないかと思う。最初はなにかが間違っていると思うが、やがてその勢いに自分も飲まれていき、気がつくと酷いことになっている。時代に棹さすことは、時機を逸してしまってからは難しい、ということか。


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