うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

There But For Fortune

2017年05月04日 | 音楽

ジョーン・バエズ 1963

ジョーン・バエズは、ここでは何度か取り上げているがフォークミュージック全盛時代の人で、おそらく当時はとても人気があったのだと思う。後から生まれてきた僕が彼女のことを知ったのは8年ほど前のこと、偶々聞いていた「ラジオ深夜便」がきっかけだった。そのときはピート・シーガーとペアで紹介されていた。

当時の若い人たちは彼女の音楽を、ある種のメッセージとともに清新な気持ちで聞いていたのだろう・・などと、わかったようなことを書いているが、そこから先は僕の勝手なイマジネーションだ。自分の持っている、60年代半ばの映像や雰囲気をつなぎ合わせて、それを音楽と結びつける。

幼い頃の記憶ー当時学生だった叔父たちとの関わり - しばらく預けられていた祖母の家の雰囲気や、その後で母と妹と電車に乗って行った、病院のある街の、埃っぽい雰囲気、などが、心の中で混ざり合う。

今は多少観光を意識して小奇麗に装っているその街は、昔はトラックが土煙を立てて走っているような、愛想のない町だった。子供であった自分から見ると、大人たちが難しい顔をして「仕事」をしている街に思えた。

うん、そうか。音楽の話なのだから、昔の思い出を語っていたも仕方ないな。

でもとにかく、頭の中にはそんな「大人の街」を歩く「若者」である僕が、新しい世界からやってきた音楽としてのジョーン・バエズをラジオか何かで聞く、というイメージが作り上げられてくる。わき目もふらずに「仕事」をし続ける街、やがて僕もその中に、世界を変えるために参加していくことができるという期待。。

話がとても飛躍しているが、こんな話はもちろん、この音楽を紹介する文章として正統的なものではない。その歌詞が語っていることは、何かの理由で収監されるに至った人、貨物列車に忍び込み、雨に打たれながら眠るホーボー、こぼれたウイスキーで床が染まるようなところで飲んだくれている人、爆撃され廃墟になった国に住む人たち、のことだ。そしてここに、偶々なにかの幸運で、今こうしている若者がいる・・。

不幸や、過酷な運命も紙一重、希望に満ちた若者も、彼らとそう違うわけではないんだよ、と・。

対比される若者は、やはり肉体的、時間的にとても恵まれた条件にあるが、そういう強さはしばしば、当人にある種の不安を呼び起こす。

この点この曲の歌詞は、あくまでも若者の視点で見た「社会」を描いているのだろう。大人がこれに似たことを語ろうとすると、それは『マイ・ウェイ』になってしまいそうだ。色々あったけど俺はここまでやってきたんだ、みたいな。

まわりくどいが、そんなわけで僕はこの曲を、「希望に満ちた若者がふと感じる不安感」みたいな視点で聞きたいようだ。

 

コメント
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