岩波新書 1996
秋吉敏子(秋は正確には穐と書く)の名前はもちろん以前から知っていたが、ここにきて彼女の著作を読んだり、Google Play Musicで曲を聞いてみようと思ったりしたきっかけは、彼女のコンサートに関するテレビ番組を偶々見たからだ。ひと月あまり前、まだ旧宅で片づけをしていたとき、夜中にテレビをつけたらやっていた。
リンカーンセンターというのかしら、NYのことはよくしらないのだけでど、客席から奏者越しに、階下のラウンドアバウトと、その先の公園(セントラルパーク?)、そして通り沿いに立ち並ぶビル街が見渡せる。まずもって、そのホールの美しさが強く印象に残った。秋吉は巨漢のジャズメンを前に、時折大手を広げて指揮を執っていた。
この本は秋吉の66歳の時の自伝である。同じように新書版で生涯を振り返る本を出した朝比奈隆氏(指揮者)は、聞き手を設けて対談の形式をとっていたが、秋吉はストレートに自らの筆で生涯を振り返っている。
考えてみると、朝比奈隆と秋吉敏子は、ともに大陸で終戦を迎えたという点で共通点がある。朝比奈は東京の生まれで、関西が長かったが、デビュー後、30代の頃大陸に渡り、色々な経験をしたようだ。秋吉は生まれてから女学校を卒業するころまで大陸に暮らしている。やはり引き揚げは大変な経験だったらしい。
後の世代の者が、それを面白いなどと言ってはいけないのかもしれないが、そうした経験にはやはり興味を惹かれる。彼らが国内の枠にとらわれず、まだ海外渡航者の少なかった時代に早くから国外で活躍したのは、やはり大陸の経験があるからなのかな、とどうしても思ってしまう。
実際、秋吉は九州から東京に出て、米軍施設関係を皮切りにキャリアを重ねていったが、本書を読む限り、東京にははじめからはまりきれないようなスケールの大きさを持っていたように思える。彼女の才能を見出し、レコーディングや留学を勧めたのはアメリカから来た人たちだ。
その一方で、アメリカにわたってからの彼女は、しばしば自らの存在や成し遂げてきたこと、あるいはなすべきことについて常に悩みを抱えていたようだ。後年、数多くの賞を取り、グラミー賞には毎年のようにノミネートされるようになってからも悩み続けている。また、家庭と仕事とをめぐる悩み、特に一人娘との関係については相当悩んでいたようだ。音楽を捨てて家庭に入ることすら考えていたらしい。
一方では芸術家として、自らコントロールすることが難しくなるような衝動を内に抱えながら、それが現実に直面したときに生じる様々な問題に悩む。そうした過程がリアルに伝わってくるあたりは、秋吉の文章力の冴えがなせる業だと思う。スケールは全然違うが、そうした悩みが語られていることに、どこか救われるような気持になる。
夫君であるルー・タバキン氏とは、お互いに尊敬しあう芸術家でありよき伴侶ではあるが、生活の上ではかなり独立した状況にあるようだ。秋吉氏がメニエル病で急に動けなくなったとき、ルー氏は夕方までそれに全く気づかず、その後も横たわって苦しんでいる秋吉氏を前に、どうしたらよいかわからずに戸惑うだけだったという。秋吉氏は「ときどき私は、絶望的な孤独感と孤立感に襲われる」と書いている。
この思いを、今の自分の状況と照らして共感することには、少しためらいを感じないでもないが、あえてぶっちゃけてしまいたい気持ちもなくはない。どこから(誰から)見ても一面的な、不完全な自分を見せることしかできず、言い訳も儘ならないというのは辛いものだ。ただし、そんなことはおそらく秋吉氏を含め、誰もが同じように感じることなのだろう。