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60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

同一漢字表記に複数読み

2008-06-24 23:41:29 | 言葉と文字

 「滑らか」という字は「なめらか、ぬめらか、すべらか」と三通りに読めます。
 意味は似通っているのですが、語感が違うだけでなく意味も少しづつ違います。
 「駒子の唇は美しい蛭の輪のように滑らかであった」というのは川端康成の「雪国」からよく引用される文ですが、この場合はなんと読むのでしょうか。
 普通には「なめらか」と読むのでしょうが、「蛭の輪のように」というのですから、すべすべしたなめらかさではなく、ぬめりのあるような感じですから、「ぬめらか」のほうが良いような気がします。
 同じ漢字に対して読みが複数ある場合、たいていは文脈からどのように呼んだらよいか見当がつくのですが、意味が似ていると判断に迷うことがあります。
 
 滑らかという例だけでなく、このほかに艶やかとか、強い、甘い、稚いなどもひとつの漢字に複数の読みがあります。
 これらも文脈によって読み方が決まる場合もありますが、読み方が変っても意味が似通っているのでどちらとも取れる場合もあります。
 こういう場合はどれかを漢字表記して、他はひらがな表記にすればよいのですが、どうしても漢字を使いたいときはフリガナをするしかありません。
 漢字で表記されていて、読み方が複数あるのに振り仮名がないときは、アタマの中にある複数の読みから選び出さなければなりません。
 文字を見ただけでは自動的に一つの読みに結びつかないので、複数の候補の中から選択するわけで、黙読していても音声部分が関与してくるのです。
 日本語は話をしているときに、同音異語などがあると漢字という文字を想起することで意味を理解するというふうにいわれますが、逆もあるのです。

 上の例は漢字一字の場合ですが、漢字熟語の場合でも同じ熟語について複数の読みと意味を伴うものが多くあります。
 読みが音読と訓読があるというだけならよいのですが、音読であっても「一行」のように「いっこう、いちぎょう」と二通りの読みがあり、読みが変れば意味も変ります。
 この場合は文脈によってどちらの読みが適当かわかるのですが、「ひとくだり」という訓読みの場合と「いちぎょう」という音読みとでは使われる文脈が似ているときがあるので、訓読みのほうをカナ書きにするか、フリガナをふるかする必要があります。

 大柄のような場合はどちらも、訓読みが交じっているのでどちらもカナ書きにするか、フリガナをするかということになります。
 形相のようにもとは「ぎょうそう」という言葉であったものが、あとから「けいそう」という読みによる単語がつくられたのですが、どちらも音読みであるため、片方をかな書きするわけにも行きません。
 この場合も文脈によってどちらか意味は決まるのですが、「けいそう」はあとから作られた言葉なので馴染みが薄く、読みの見当はついても意味がわかるというわけではありません。
 
 漢字熟語は同じ文字の組み合わせなのに、読み方が複数あってそれにつれて意味も複数あるものも多いのですが、これらは構成する漢字を見れば自動的に意味が分かるというわけではなく、単語の意味をそれぞれ学習しなければならないのです。
 
 


誤字と当て字

2008-06-23 23:40:31 | 言葉と文字

  図は土屋道雄「誤字辞典」からの例で、永井荷風の作品中に見られた誤字の一部です。
 「誤字辞典」には多くの作家、論客の作品から誤字の例をあげられていますが、特に多いのが永井荷風のものです。
 永井荷風の誤字例が多く見られるのは、たまたま著者が荷風の作品に親しんでいたためなのか、荷風が誤字の多い作家だったためかはわかりません。
 校正の名人といわれた神代種亮という人物が荷風とは親しかったそうですが、この人物は作家の作品に誤字を発見すると指摘した手紙を送りつける癖があったということですから、当時荷風の作品がとくに誤字が多いとはみなされていなかったようです。

 もし荷風の作品に当て字や誤字が多いからといって、荷風に漢字の知識が少なかったとかあやふやだったということではありません。
 明治時代の作家の場合は現代の基準からすると当て字や誤字が多く、夏目漱石などもずいぶん当て字を使っています。
 荷風の場合は落語などを好み、江戸風の戯作者を目指していた時期もあったそうですから、当て字を好んで使う傾向があったかもしれません。
 
 ここであげた例のなかには、単純に誤字とされるものもありますが、意味が全くわからないというものはありません。
 観客を看客とすれば、「かん」違いですが、離れたところから見る観客でなく、近距離からしげしげと見るのなら看客でもよさそうです。
 感服を感伏とするのも意味は同じで、伏のほうが「マイッタ」という感じがはっきり見えるので選んだのかもしれません。
 気概を気慨とするのも、気組みよりも感情があふれる様子のほうに重点を置けばこのような書き方も妥当性があります(漢字テストではバツ)。
 結末を決末とすれば最後のしめくくりを決めるような感じで、強く締めくくったように受け取ることができます。
 剣呑を険呑とするのは、剣呑そのものが当て字で意味が文字からはっきり伝わらないので、危険の険を使ったのかもしれません。

 いわゆる誤字とか当て字とかいうものも、文章の中に出てくると気がつかずに読んでしまうというのは、文脈に沿っていて、新しい意味が付加されていたり、意味が強調されたりする場合があるからです。
 言葉の意味というのは変化していくものですが、言葉の意味が変化したからといって、同じように漢字の意味が変化するとは限らないので、漢字の意味と言葉の意味が離れるということもあります。
 (貴い様という意味のキサマが意味が変化しても、貴や様の意味が変化しているわけではありません)。
 誤字や当て字でなくても漢字の意味が言葉と整合性を失っている場合があるのですから、表現しようとする意味にあわせて、新しいやりかたで漢字を使おうとする目論みもでてくるのです。
 


和製漢字の問題点

2008-06-22 22:18:53 | 言葉と文字

 漢字は中国語を表わすための文字ですが、日本でも日本語を表わすために作られたのが和製漢字です。
 山とか川のように日本語の意味に対応する漢字があれば、それを使えばよいのですが、日本語に対して適当な漢字がなければ新しく漢字を作ってしまおうというわけです。
 従来の中国の漢字の場合はほとんどが音を表わす部分と意味を現す部分で作られているので、読みの見当をつけることができます。
 和製漢字の場合は、日本語の読みを表わすものが漢字の構成要素の中にないため、読みの見当がつけられません。
 音を現す部分がないぶん、意味を表わすことに専念することができるので、意味は理解しやすいという形になっています。
 
 たとえば峠とか榊というような和製漢字は、はじめて見たときは読みも意味も分かりませんが、「とうげ」「さかき」という読み方を知れば、意味と文字の関係がわかって記憶しやすくなっています。
 辻という字の例で見ても、この字は十字路を表わしていて、「つじ」という音は示されていませんが言葉の意味はわかりやすくなっています。
 ところがわかりやすいということは、意味を限定することなので言葉の意味が拡張されたり、別の意味が出てくると困ったことになります。
 辻の場合でも十字路だけでなく、普通の道端の意味にも使われるようになると、十の部分がかえって邪魔になります。
 辻斬りはなにも十字路でやるとは限らないので、字の形にこだわって考えるとおかしくなります。

 言葉の意味がいくつもある場合に、わざわざ漢字を作ると、特定の意味にピタリと当てはまる形が、そのために他の意味の理解を妨げるということになるという場合はいくつもあります。
 「毟る」という字は「少ない」と「毛」をあわせて作っているので、毛をむしるという意味で使うときはピタリと当てはまりますが、魚の身をむしるときとか、高利貸が取立てをするときなどにはおかしな感じです。
 それなら「むしる」という字に意味に応じて他の漢字を作ればよいという考えもありますが、「むしる」というカナで意味が通じるのですから、読みにくい漢字をさらに作って記憶の負担を増すことはありません。

 働という字も人偏に動くというじで労働という意味のときはよいのですが、アタマのはたらきとか、重力のはたらきという場合は馴染みません。
 なにげなく「働」という字を労働以外の意味で使っている場合は、人偏に動くという字の構成を失念しているのですが、そうなると文字の意味づけと語の意味とに食い違いには無頓着なのです。
 躾という字などは、行儀作法の意味でつくられたのでしょうが、「仕付け」という当て字よりも意味が限定されるぶん、不自由な感じです。
 裁縫の場合にも仕付けでなく躾を使ったりする場合もあるようですが、かえって意味が分かりにくくなっています。
 俥というのは明治時代に作られた人力車の意味で「くるま」と読ませる漢字で、なるほどとは思いますが造字する必要があったかどうか疑問です。

 和製漢字の多くは習い覚えたときは、なるほどと思うのですが、しばらくすると根が弱いというか輝きが失われてしまうのです。
 漢字で書かなくても意味が分かるのに、わざわざ漢字をこしらえてあてがう必要性が薄れてしまうのです。


日本式の漢字字源解釈

2008-06-21 23:43:01 | 言葉と文字

 漢字はもともとは中国の単語を文字で表現したもので、単語が一つ以上の意味を持っていればそれを表す漢字も一つ以上の意味を持つということになります。
 漢字が持っている意味を日本語で表わそうとするのがいわゆる訓読みですが、一つの漢字に対して訓読みはいくつもあります。
 たとえば「生」は音読みでは「セイ」あるいは「ショウ」ですが、訓読みでは「いきる」「うまれる」「はやす」「おこる」「なま」「いのち」「うぶ」など多くの意味を表わします。
 したがって漢字の成り立ち(字源)を考えようとしたとき、昔の中国人であれば、漢字の音と形からなぜその字と単語を結びつけたのです。
 
 ところが日本人が漢字の字源を考えようとすると、訓読みした場合の意味と文字の形を結び付けて考えてしまいがちです。
 いくつかの意味を持っている単語として考えるのでなく、その漢字が持っている一つの意味と漢字の形を結び付けてしまうので、他の意味とは結びつかない説明になってしまうことになりがちです。
 そうなるとなまじ語源説を信じたばかりに他の意味が分からなくなったり、誤解してしまったりということで、かえってマイナスになったりします。

 たとえば「親」という字を「おや」と読んで、「木の上に立ってじっと見守る」から「おや」なのだ」などと解釈してしまうと、「親友」「親交」「親類」「親書」「親展」「親切」などといったよく使われる熟語の意味は全く理解できなくなります。
 こういう説を考えた人は、「親というものは子供のことを切に見守っている愛情深い存在なのだ」ということを訴えたかったのでしょう。
 字源説の形を借りて悪く言えば説教をしようとしているのです。
 
 「叶」という字についても「十回口にすると願いがかなう」などという説明をすると、「理にかなう」という意味と合わなくなり、「叶韻」などという熟語は読みも意味も分からなくなります。
 「叶」の音読みは「キョウ」で、十は協の異体字だそうで、「あわせる」という意味ですから十回ということではありません。
 「儲」という字の解釈で「信と者で信用のある人にお金が集まる」などと説明されることがありますが、これはゴンベンに諸で音読みは「ちょ」で「貯」と同じ意味です。
 現代人は金儲けのことが強く頭にあって、信用がある者に金が集まるなどというコジツケについ乗せられるのかもしれません。
 新興宗教ならさしずめ「信ずる者は現世利益が得られる」などと解釈するところかもしれません。
 こういう解釈ですと「儲君(皇太子のこと)」などという言葉は全く理解できないでしょう。

 傑作は「食」を「人」と「良」の組み合わせとして、「良い人がつくると(料理は)おいしい」とか「おいしい食は人を良くする」などと解釈したりします。
 「良」を「よい」と一途に解釈してしまうのですが、これでは「狼」は良い獣という意味になってしまいます。
 一つの遊びとして食を「人と良」に分解して面白い意味付けをしたということなのでしょうが、何となく説教くささが感じられます。
 漢字の字源解釈に教訓めいたものを持ち込むのは、ムカシからあるのですが、こういう解釈は説教が目的なので、漢字学習にとっては有害無益です。


カナ文字と語源意識

2008-06-16 23:06:50 | 言葉と文字

 日本語では「たこ」を漢字で書く場合、鱆、鮹、蛸、章魚などと
四通りもの書き方をします。
 漢和辞典で調べると「鱆」は「たこ」の意味ですが、「鮹」は「身体の細い海の魚の一種」とあって、「たこ」の意味はなく、日本で「たこ」の意味に当てているとしています。
 「蛸」も「たこ」ではなく蜘蛛やかまきりのこどもの意味だということです。
 結局中国では「たこ」は「鱆」で、これを分解した「章魚」も「たこ」を表わしています。
 「鮹」が日本で「たこ」と読まれるようになったのは、「鱆」と音読みが「ショウ」で同じだったからで、「蛸」は「たこ」が魚というよりも虫のように感じられたので、鮹の魚偏を虫にしたものと思われます。
 
 ところで「たこ」の語源はというと、漢字の「鱆」の場合はなぜ「章」なのかわかりませんが、墨で模様を付けることから、墨を吐く魚ということなのかもしれません(当て推量ですが)。
 漢字の場合の語源は文字の構成要素から考える場合が多いのですが、日本語の場合は文字がなかったので、音声から考えざるを得ません。
 中国語の場合は「ショウ」という発音が一音節で、さらに分解すると意味を持ちえなくなるのですが、日本語の場合は「たこ」を「た/こ」というふうに分解することができます。
 日本語のカナは音節文字なのでカナ一文字が漢字一文字に相当する関係が可能です。
 そのため、カナであらわした一つ一つの文字が意味を持つように感じられ、語源を考えるとき、カナ一文字について意味を考えるというところまで追求しようとする傾向があります。

 たとえば「たこ」は「た(多)/こ(股)」の意味だなどとすると妙に納得するのも、一つ一つの音節に意味づけがされるとなるほどと感じるからです。
 足が多いから「多股」つまり「たこ」だというのなら、「いか」のほうはどうなんだということになりますし、「多」を「た」、「股」を「こ」と読むのは音読みなので、おかしな感じです。
 中国語で「タコ」、日本読みで「おおまた」とかいうのならわかるのですが、音読みが「ショウ」、訓読みが「たこ」ではしまりません。
 手がたくさんあるから手許多(テココラ)のつづまった形だとか、海鼠(ナマコ)の類だが、手があるから手海鼠(てなまこ)の意からタコになったという説もありますがこれといった決め手はありません。
 カナから語源を考えようとすると、決め手が少なく当て推量になりやすいのです。

 英語の場合なら「たこ」はラテン語由来でoctopusでoctoは8本pusは足ですから8本足のことで「たこ」を意味すると分かります。
 英語は表音文字のアルファベットで表わされますが、音節の区切りが意味の区切りと対応しているので、語源が分かりやすくなっています。
 日本語の場合は漢字とカナを使っているので、漢字が意味を表現するのに柔軟に使われるため、必ずしも語源を反映してはいません。
 「むかで」なども英語ではcenti(百)pede(足)でcentipede、漢字で「百足」となりますが、「むかで」というカナからは百の足という意味はでてこないのに「百足」という漢字で「むかで」と読んでいるのです。
 カナのほうに語源がストレートに表現されてるかどうかには、こだわっていないのです。


音節文字のことば遊び

2008-06-15 22:44:27 | 言葉と文字

 図は江戸時代のことば遊びで「判じ絵」といわれるものの例です。
 左上の絵は江戸時代の床屋を逆さまにした絵で、江戸時代は髪結い床のことを単に「床(とこ)」といいましたから、「とこ」を逆さまにして「こと」(琴)というのが答えです。
 次は牡丹の花の真ん中が消えているので、「ぼたん」の中抜きで「ぼん」(盆)が答えとなっています。
 つぎは魚の名前ですが、絵は俵の絵で「たわら」の中抜きで「たら」つまり鱈が答えです。
 左下の絵は逆さまの梨の絵と竹の皮を組み合わせたもので、「なし」の逆さまの「しな」と竹皮の「かは(かわ)」をあわせて「しなかは」(品川)です。
 品川がわかれば、次の絵は同じように考えると、「歯」と逆さまの「猫」で「は」と「こね」で「はこね」(箱根)となります。
 次の絵は少し難しくて、男が手に持っているのは首の前面つまり顔ですが逆さまになっています。
 つまり「かお」を逆さまに持っているので「おか」を持っている、「おかもち」(岡持ち)というのが答えです。

 なんだか小学生向けのことば遊びのようで、たあいがない感じがするかもしれませんが、いかにも日本的な遊びです。
 第一にこれらは、漢字で考えてはだめで、カナで考えなければなりません。
 「床」は漢字のままでは逆さまにしても何のことかわかりませんし、「牡丹」、「俵」の中抜きをしようとしても漢字の状態ではどうにもなりません。
 「梨」、「猫」、「顔」も逆さまにしてもなにも出てきません。
 これらはカナになおすと逆さまにしたり中抜きをしたりということができて、遊びが可能となるのです。
 ただし最後の問題は、旧かな遣いでは「顔」は「かほ」となるので、逆さまにすると「ほか」になってしまい、「ほかもち」では意味が通じません。
 また「岡持ち」は旧カナ遣いでは「をかもち」なので。作者は「顔」を「かを」と考えたのかもしれません。
 江戸時代は基本的には旧カナ遣いであったにしても、厳密ではなくかなりテキトーだったようです。

 これはカナで考えるのではなく音声で考えるもので、カナ遣いの混乱はないということもできます。
 音声で考えるといっても、音節文字であるカナと結びついた音声で、純粋に音声で考えているということではありません。
 たとえば「とこ」はカナで書くと「と/こ」で逆さまにすると「こ/と」ですが、発音記号的にローマ字で書けば「t/o/k/o」でさかさまにすれば「o/k/o/t」です。
 実際「toko」をテープで録音して逆さまにまわせば「okot」と聞こえて「koto」とは聞こえません。
 音声に敏感であれば「こと」の逆さまは「おことぅ」のような発音、「なし」の逆さまは「issan」で「いっすぁぬ」、「ねこ」は「oken」で「おけぬ」のような発音となって「こと」「なし」「ねこ」にはなりません。
 カナという音節文字を発明したために、音声を聞くときにも音素に対する意識がなくなり、音節で聞くようになっているためこういう形式のことば遊びが成立したのでしょう。


単語の意味と漢字の意味

2008-06-14 23:01:52 | 言葉と文字

 漢字は見れば意味が分かるというふうにいわれますが、ひとつの漢字にいくつもの意味がある場合、自然にすべての意味が分かるわけではありません。
 たとえば「客」という字は「おきゃく」という意味しか知らなければ「客月」という単語の意味はさっぱり分かりません。
 この場合は「すぎさった」という意味で前月のことを指します。 
 「客死」はお客が死ぬことではなく、旅先で死ぬことですし、「食客」は食べる客ではなく、「いそうろう」のことです。
 「客」という字を知っているからといって、意味が分かるわけではないのでそれぞれの場合について辞書を引いて意味を知るほかはありません。
 ひとつの意味を知っていて、そこから推し測ろうとするとかえって間違いが起きます。
 
 健忘症の「健」は「すこやか」という意味だと思ってしまうと意味が分かりません。
 「よく物忘れをする」ことで、「すこやか」ということではなく、「健啖家」という場合も「よく食べる」つまり大食いのことで健康的ということはありません。
 「建白書」という場合の「建」も「白」も「申し述べる」意味で、「建」は建物とは関係なく、「白」も色の白ではありません。
 「銀行」の「行」は「ゆく」とか「おこなう」という意味ではなく「とんや」の意味で専門業者のことです。
 「光陰」の「陰」は単なる「かげ」ではなく、日時計の陰が示すもので「時間」の意味です。
 「散策」の策は「策略」の策ではなく「つえ」です。
 「横死」は横になって死ぬことではなく「思いがけなく死ぬ」ことです。
 「祈年祭」の「年」は「とし」ではなく「稔」つまり、稔りのことで五穀豊穣を祈願する祭事のことです。

 「暴落」という字を見ると「暴」を「あばれる」とイメージして、「滅茶苦茶に落ちる」と思いがちです。
 この場合の「暴」は「出し抜けに」、「急に」という意味で、「ものすごく」ということでは必ずしもありません。
 「暴発」というときも「不意にことが起こる」ということで、「乱闘事件が暴発」というのは乱闘事件が不意に起こったということです。
 「暴露」の場合は「暴」は「さらす」ことで「乱暴」とは関係ありません。

 漢字は一文字で単語になっていて、よく使われる漢字は多義語です。 
 単語の意味は時代によっても変化するので、漢字を見ればひとつの意味がハッキリ見て取れるというふうに単純にはいきません。
 小学校で覚えた漢字だと、意味が分かっていると何となく思ってしまい、習っていない意味の使い方に出会っても辞書を引かないでやり過ごしてしまいがちです。
 何気なく分ったつもりで読んでいても、漢字の意味を改めて聞かれると、ハタと分っていないことに気づかされてしまいます。
 「歴史」、「歴然」という言葉は「れきし」「れきぜん」と単語全体の意味は分かっていても、「歴」という字がなぜ共有されているか説明できなかったりします。
 単語の意味の理解が漢字の意味の理解と必ずしも結びついているわけではないのです。


文字の意味の暗示と連想

2008-05-27 23:27:53 | 言葉と文字

 C.K.ブリスの考案した絵文字では屋根の下に女を組み合わせて母という文字になっています。
 ブリスが参考にしたという漢字では屋根はウ冠で、女という文字を組み合わせると「安」という文字になって、「母」ではありません。
 意味を持った図形を組み合わせて作った図形は、決まった意味を伝えるとは限らないことが分ります。
 ブリスの場合は家を支配している女性ということからの連想で、「母」としたのでしょうが、古代中国ではそういう発想はなかったようです。
 漢字の「安」は落ち着くとか、安定するといった意味ですから、女は家で落ち着かせるという考えだったのでしょうか。
 このように図形を組み合わせて表現する意味は、比較的にハッキリした意味の図形どうしの組み合わせでも出来上がった図形の意味はあいまいです。
 
 漢字のほとんどは意味を持った要素の組み合わせですが、その意味はハッキリ決まるわけではなく、解釈はいくつも可能で、最初に決まった意味があったとしても、立場の違いや時代の変化によって意味が変ってきます。
 たとえば「正」という字は「一」と「止」の組み合わせで、「止」は足をさす文字なので、目標の線をめがけてまっすぐに進むということで「ただしい」という意味だとされていました。
 ところが研究が進むうちに「一」の部分は古い時代には城を現す□になっていたということで、「城に向かって進軍して征服する」という意味だと解釈されるようになりました。
 ところが後に「正」は「ただしい」という意味に使われるようになったので、もとの進軍という意味の文字は「征」という字が作られて使われるようになったのだそうです。
 
 「政治」の「政」という字も「政は正である」というように、正義を行わせることだというような説明がありますが、これももとは「正」に税金を取り立てるという意味があり、「攵」は「棒でたたく」という意味ですから、強制的に税金を取り立てるというような意味だそうです。
 これを強制力をもって正義を行うと、正義を前面に押し出して意味づけを儒教でやったので、一般化しするようになったというわけです。
 「武」という字の解釈もかつては「戈」を「止」めるという意味だとして「武力」を正当化していたのですが、最近では「止」は「足」で、武器を持って進むという意味だとされています。

 文字を図形的に解釈するということは、連想や暗示で意味を考えるので、見れば意味が分かるということではなく、分った気がするということです。
 たとえば「民」という字は「目を針でつついて目を見えなくした奴隷をさす」と解釈されていましたが、「目を針でつつく」まではよいとしても、あとの部分は解釈です。
 奴隷の目をつぶして逃亡を防いだというような解釈もありますが、目をつぶしては労働力としては役に立たないので不自然です。
 目を見えなくされたのはいわゆる奴隷一般ではなく「神に仕える者」だという説もあり、神に対しては盲目的に仕えなければならないため目をつぶしたというわけです。
 そうであれば民が一般人民のことを指すようになったのは、帝王が神のように権力を持つようになって、神に対するような奉仕を要求するようになったからと解釈できます。

 


表意文字の例

2008-05-26 23:45:27 | 言葉と文字

 上の列の図は受話器や封筒、男女、ナイフ.フォーク、タクシーを表わしていますが、これらは単なる絵ではなく、公衆電話、郵便局、男女トイレ、レストラン、タクシー乗り場の場所を示す図記号です。
 これらの記号の意味は図の形から理解ができると期待されています。
 公衆電話とかpublic telephoneといった文字の代わりをするのですが、これらの文字を学習しなくても、受話器のサインを見れば意味が理解できるという便利さがあります。
 「公衆電話」という文字で書かれたサインであれば、漢字を知らない外国人には意味が分かりませんが、この図形記号なら理解できます。
 もちろん「公衆電話」というものを知らない人には、このサインが何を意味するかは理解できないのですが、なんであるか知ってさえいれば理解できるとされています。
 
 こうした図形で言語の説明なしに、なんでも表現できるかというと必ずしもそうではありません。
 郵便局を知っていても、この形の封筒を使ったことがなければこの記号の意味側からいでしょうし、レストランでも和食や中華のレストランにはあわないサインです。
 しか果物し多少問題があっても、文字言語を学習しなくても直接意味が理解できるので、図形記号を工夫すれば言語の違いを超えて、世界中の人が目で見て直感的に理解できるサインを作れるという期待は根強いものがあります。
 
 下の図はC.K.ブリスという人が発明した図形文字の一部で、サイン(標識)に比べると扱いやすいように、形を単純化して抽象化してあります。
 ブリスは漢字をヒントにしてこうした図形文字を考案したのだそうですが、漢字のように表音機能を持たせず、表意機能だけを持たせています。
 真ん中の図の例では男、女、屋根といった基本的な文字から、これらを組み合わせて父、母、カップルなどの意味を持つ単語を作っています。
 ちょうど漢字の会意文字のようなもので、屋根の下にいる男が父親、女の場合なら母親と、中国人とは感覚がちがいますが基本文字から合成文字をつくるやりかたは似ています、

 下の段がこの図形文字を使って文章を作った例ですが、単語の並びは英語の単語の語順で、日本語などとは違うので世界共通に理解できるというわけにはいかないようです。
 単語にしても木とか花とか果物を象形的に表現していますが、この方法では松とか杉とか膨大にある木や花の種類を表わすことは困難です。
 表意文字を作ろうとすると、どうしてもたくさんの種類のものを表わすためにたくさんの文字を作らなければならなくなり、記憶が困難となって見れば分るというわけにはいかなくなります。
 
 


漢字の表意性

2008-05-25 23:49:56 | 言葉と文字

 漢字は表意文字あるいは表語文字といわれ、文字を見ると意味が分かるといわれると何となく納得しますが、本当にそうかと必ずしもそうとはいえません。
 たとえば「洋」とか「海」という字を見ると、サンズイが水を表わすということを知っていれば、水に関係する意味を持った文字あるいは言葉だということがわかりますが、サンズイに羊でなぜ「うみ」の意味なのかは日本人には分りません。
 この文字ができたときの中国人ならば「ヨウ」という音声言葉がいくつかあって、そのうち水に関係するものが「うみ」という意味だったので、「洋」という漢字が出来たのでしょう。

 日本人は「ヨウ」という音声を聞いて「うみ」という単語の候補がただちに思い浮かべられるわけではありません。
 サンズイに羊と書いて「ヨウ」という音読みの字が「うみ」という意味だということを習ったので「洋」が「うみ」を意味すると感じるようになったのです。
 「鮪」や「鯛」という字を見ても魚ヘンが魚を意味するという知識があれば、魚の種類だと見当がついてもどの魚を意味するか分かりません。
 「イ」とか「チョウ」という読みを聞いてもなんのことか日本人には分りませんが、中国人には意味が分かったのです。
 中国人にとっては漢字は表音文字であると同時に、表意文字であったわけですが、日本人にとっては音読みは外国語で、表意性がなかったのです。
 日本語では「まぐろ」や「たい」という和訳を訓読みとしてあててこれらの文字を取り入れたので、文字を見れば意味が分かるような気がするようになったのです。
 日本人が漢字の意味が分かるというのは学習の結果なのです。

 漢字の音読みでは同じで意味的にも近い文字も、和訳して訓読みするとそれぞれが違うために、全く違う文字だと意識される場合があります。
 たとえば義捐と義援の「エン」という字は音は同じで、意味も共通部分を持っています。
 「捐」は「棄捐」というときは「すてる」という意味ですが、「義捐」というときは「私財を出して人を助ける」という意味です。
 「援」は「援助」のときも「たすける」という意味ですから、「すてる」という言葉とは違いますが、「義援」としても「たすける」という意味で「義捐」とおんなじような意味になります。
 「反」は訓で「そる」、叛は「そむく」とすると意味が違うので、「叛乱」を「反乱」とするのは間違いだとされているようですが、音読みではいずれも「ハン」で
「反」にも「反対」のように「さからう」とか「むほんをおこす」という意味があるので、「反乱」でも「叛乱」でも同じ意味になります。

 「仄」は「ほのか」「側」は「かたわら」と訓読されると、「仄聞」を「側聞」とするのは乱暴のようですが、「仄」は「脇から寄る」という意味で「側」と同じ意味なので「側聞」も「仄聞」も同じ意味です。
 逆に訓読みが同じなら別の文字でも同じ言葉とみなすことができる場合があります。
 「涜職」を「汚職」にしてしまうのは乱暴のようですが、「涜」も「汚」も訓読すれば「けがす」ですから共通の意味を持ちます。