漢字は中国語を表わすための文字ですが、日本でも日本語を表わすために作られたのが和製漢字です。
山とか川のように日本語の意味に対応する漢字があれば、それを使えばよいのですが、日本語に対して適当な漢字がなければ新しく漢字を作ってしまおうというわけです。
従来の中国の漢字の場合はほとんどが音を表わす部分と意味を現す部分で作られているので、読みの見当をつけることができます。
和製漢字の場合は、日本語の読みを表わすものが漢字の構成要素の中にないため、読みの見当がつけられません。
音を現す部分がないぶん、意味を表わすことに専念することができるので、意味は理解しやすいという形になっています。
たとえば峠とか榊というような和製漢字は、はじめて見たときは読みも意味も分かりませんが、「とうげ」「さかき」という読み方を知れば、意味と文字の関係がわかって記憶しやすくなっています。
辻という字の例で見ても、この字は十字路を表わしていて、「つじ」という音は示されていませんが言葉の意味はわかりやすくなっています。
ところがわかりやすいということは、意味を限定することなので言葉の意味が拡張されたり、別の意味が出てくると困ったことになります。
辻の場合でも十字路だけでなく、普通の道端の意味にも使われるようになると、十の部分がかえって邪魔になります。
辻斬りはなにも十字路でやるとは限らないので、字の形にこだわって考えるとおかしくなります。
言葉の意味がいくつもある場合に、わざわざ漢字を作ると、特定の意味にピタリと当てはまる形が、そのために他の意味の理解を妨げるということになるという場合はいくつもあります。
「毟る」という字は「少ない」と「毛」をあわせて作っているので、毛をむしるという意味で使うときはピタリと当てはまりますが、魚の身をむしるときとか、高利貸が取立てをするときなどにはおかしな感じです。
それなら「むしる」という字に意味に応じて他の漢字を作ればよいという考えもありますが、「むしる」というカナで意味が通じるのですから、読みにくい漢字をさらに作って記憶の負担を増すことはありません。
働という字も人偏に動くというじで労働という意味のときはよいのですが、アタマのはたらきとか、重力のはたらきという場合は馴染みません。
なにげなく「働」という字を労働以外の意味で使っている場合は、人偏に動くという字の構成を失念しているのですが、そうなると文字の意味づけと語の意味とに食い違いには無頓着なのです。
躾という字などは、行儀作法の意味でつくられたのでしょうが、「仕付け」という当て字よりも意味が限定されるぶん、不自由な感じです。
裁縫の場合にも仕付けでなく躾を使ったりする場合もあるようですが、かえって意味が分かりにくくなっています。
俥というのは明治時代に作られた人力車の意味で「くるま」と読ませる漢字で、なるほどとは思いますが造字する必要があったかどうか疑問です。
和製漢字の多くは習い覚えたときは、なるほどと思うのですが、しばらくすると根が弱いというか輝きが失われてしまうのです。
漢字で書かなくても意味が分かるのに、わざわざ漢字をこしらえてあてがう必要性が薄れてしまうのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます