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60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漢字の解釈と読み

2008-05-24 23:41:49 | 言葉と文字

 日本語で使う漢字には音読みと訓読みがありますが、訓読みというのはもともとは漢字の和訳で、意味を示すものです。
 たとえば「上」という字の訓読みは「うえ、うわ、かみ、あげる、あがる、のぼる、たてまつる、ほとり」などですが、これは「上」という漢字が多義語なので、意味の違いに応じて和訳したものです。
 語の意味の訳を読みにしてしまうというのは、日本語での漢字の使い方に特有のものです。
 これは英語に対してならば、topという語を「あたま、てっぺん、うえ、やね、いちばん、さき、うわつら」などと読むようなものです。
 日本語の中に英語が入り込んできているといっても、topは日本語読みしても「とっぷ」であって、「あたま」とか「うえ」というふうに読むことはありません。

 漢字が日本語の中に深く入り込んでいるといっても、日本語に対して漢字が全面的に対応しているわけではありません。
 「手を上げる」という場合、上にあるものを取るのに手を上げるという意味だけでなく、「降参する、万歳する、暴力を振るう、腕前があがる、酒量がふえる」などといった意味がありますが、漢字の部分は同じです。
 「あげる」という語を辞書で引くと「上げる、揚げる、挙げる」などと漢字で書き分けるようになっていますが、日本語の意味のほうは図に示されているものの他にもまだたくさんあって、漢字で細かく書き分けるというわけにはいきません。

 漢字を使わなくても「あげる」という意味はわかるのに、漢字で書き分けようとするとかえって迷ってしまうのは、書き分けというのが実は翻訳だからです。
 漢字をよく勉強していて、漢字に詳しい人は日本語を漢字に訳すことができるかもしれませんが、普通の人は少ししかできません。
 漢字は日本語のために作られたわけではないので、なんでも漢字化しようとするのは難しいのがあたりまえです。
 ムリに漢字化しようとしても、適当な漢字がなければ漢字を創作しようということになるのですが、これには副作用があります。

 たとえば「しつける」という言葉がありますが、漢字を当てると「仕付ける」とか「為付ける」というふうになるのですが、礼儀作法を身につけさせるという意味に対して「躾」という漢字を作ってしまうと、これが元の意味のような印象ができてしまいます。
 「しつけ」を「躾」と覚えてしまうと縫い物の「しつけ」や農業の「しつけ」の意味が推量できなくなってしまうのです。
 また「峠」という字が作られると「尾根のたわんだところ」という感じが薄れて「山の頂上」のように受け取られたりします。
 漢字が表意機能があるからといっても、全面的にもたれかかれるわけではないのです。


漢字と視覚的記憶

2008-05-20 23:33:16 | 言葉と文字

 漢字は読めても書けないということがあります。
 ワープロなどを使うようになると、どんどん漢字を書けなくなるというのですが、これはワープロのせいではなく、手で書かないからです。
 読むほうは本だけでなく、新聞や雑誌などを読むので忘れないのですが、書くほうは手書きをしないので忘れてしまうのです。
 読めるということは、視覚的に漢字を記憶しているのですが、書こうとして書けないということは、視覚的な記憶があいまいだからです。
 もし漢字の視覚的イメージがアタマにハッキリ思い浮かべられるならば、その視覚イメージをなぞればよいのですから、書けるはずです。
 山とか川とか木などといった簡単な形の字ならば、アタマにハッキリと思い浮かべられますが、複雑な字になると細かいところはボンヤリしてうまく思い浮かべられません。
 
 漢字を書けるようになるためには何度も書いて覚えるというのが伝統的な方法で、江戸時代の寺子屋でも書くということを主体にして字を覚えさせています。
 書かなくても覚える方法というのもないわけではありません。
 たとえば旧字体の桜は木偏に貝が二つに女と書くので、「ニカイの女がキにかかる」といったり、旧字体の恋という字は糸と言と糸の下に心と書くので「イトシイトシという心」というふうに覚えるというのです。
 欝という字などは林四郎というふうに覚える人もいたそうです(この場合は正確ではありませんが、字の概略を伝えるのでこれを手がかりにするのです)。
 こういう覚え方はおもしろいのですが、覚えようとする漢字が増えてくると手がかりを考えて覚えるのに多くのエネルギーがいるので実用的ではありません。
 このように手が込んだ覚え方が考案されるということ自体、複雑な漢字を視覚的に記憶することがいかに困難かを示しています。

 英語の場合は読めれば知っている単語の意味が分かり、、難しい綴りであっても発音に応じた綴りを書けば、それが間違っていてもなんと書こうとしたのか推測できます。
 ところが漢字の場合はある程度の読みの規則を知れば音読はできますが、意味は分かるということにはなりません。
 図のBの例では音読みは「セイ、トウ、キン、シ、ホウ、カ、ボウ、オウ」と読めますが意味が分からないかもしれません。
 お経を聞いても意味が分からないのも、すべてが漢字でそれを音読みしているからです。

 これにたいし本来の漢字でなく日本で作られた漢字は音読みはありませんが、意味を説明されればなるほどと思うので、意味すなわち読みとなり記憶に残りやすく書き方も覚えやすくなっています。
 覚えやすいのは形というよりも意味づけが覚えやすいからです。

 日本語は同音異義語が多いので漢字にすることで意味が伝わるというふうに言われることがありますが、漢字熟語があってそれを覚えたのであって、言葉があってそれに漢字をあてがったわけではありません。
 Dの例のように「こうかい」という読みに対応して熟語がたくさんあるといった場合に、ラジオニュースなどで使われたとしても、いちいち漢字を思い浮かべるなどということはありません。
 漢字熟語の多くは書かれた文章の中でしか使われないので、同音異義語が他にあってもかまわないのです。


聞いて分る重言

2008-05-19 23:37:37 | 言葉と文字

 日本人は会話をするとき漢字でどう書くかを思い浮かべているという人がいます。
 日本人が使う言葉は同音異義のものが多いので、意味を説明するとき漢字でどう書くかということですませることがあります。
 たとえば学校の「しりつ」と言ったのでは「私立」か「市立」か紛らわしいので「わたくしりつ」とか「いちりつ」といえば、「私立」あるいは「市立」という漢字を思い浮かべて理解してもらえるというわけです。
 漢字でどう書くかということが会話の中に入ってくるということから、会話をしているときに漢字の視覚的イメージが思い浮かべられるとして、日本語はテレビ型言語だという説もあります。
 しかし実際には人の話を聞いて、使われている言葉にたいしてその漢字が思い浮かぶなどということはほとんどありません。

 たとえば「独活の大木とかけて、郵便やととく、ココロは、はしらにゃならぬ」という謎を聞いて「柱にゃならぬ」「走らにゃならぬ」と二つの漢字が頭に浮かぶわけではありません。
 「柱」と「走」の意味は漢字を思い浮かべるより前に頭に浮かびますから、わざわざ漢字を思い浮かべなくても済むのです。
 文字で書くときも「はしらにゃならぬ」とカナ書きすればそれで謎解きができるので、漢字にする必要はありません。
 これを漢字で書こうとすれば「柱にゃならぬ」、「走らにゃならぬ」と併記しなければならなくなり、かえって分りにくくなります。

 「馬から落ちて落馬する」「落雷が落ちた」などといえば同じことを重ねて言っているので、オカシイ表現だと笑われますが、「あとでコウカイする」という場合はそのままとおってしまいます。
 「はんざいをオカす」「ひがいをコウムる」という表現は、テレビなどでも頻繁に使われていますから、重言であることが意識されません。
 これらは漢字に書けば「犯罪を犯す」「被害を被る」となりますから、何かヘンだなと抵抗感が生まれます。
 「えんどうまめ」は漢字で書けば「豌豆豆」、「ちゃのみじゃわん」は「茶飲み茶碗」または「茶飲茶碗」ですから漢字を思い浮かべていたのでは混乱してしまいます。

 重言は無駄なのだからやめればよいといっても、「えんどう」といっただけでは通じにくい場合がありますし、「ちゃのみわん」といったのではかえって分りにくくなります。
 「あとでこうかいする」、「いまだにみのう」などは重言には違いないのですが、表現としては単に「コウカイする」「ミノウ」というよりも強調表現となっていますし話し言葉としてはリズム感があり、耳に訴えるものがあります。
 漢字熟語でも「おおきい」と「巨大」では語感が異なり「巨大」のほうが迫力がありますし、「あがる」「さがる」より「上昇」「下降」のほうがインパクトがあります。
 重言は余分を加える言い方なのですが、これをすべて無駄とか間違いだとか言って排斥すべきではないのです。
 


日本語の漢字化

2008-05-19 00:08:55 | 言葉と文字

 「ダイコン」といえば「大根」と書くので漢語のようですが、もとは日本語である「おおね」を漢字に翻訳したものです。 
 「おお(大)ね(根)」と意訳して読みを漢語風に音読みにしてダイコンとしたものです。
 同じような例で「おおごと」→「大事」(ダイジ)、「ひのこと」→「火事」(かじ)などがありますが、音読のほうが歯切れがよいせいか、漢訳のほうが通用するようになっています。
 カナを発明したのですから、元来日本語である単語をわざわざ漢字で表現しようとすることはないと思うのですが、日本人は漢字が好きなせいかともかく漢字で書こうとしたようです。

 上の例は意訳ですが意訳が難しい場合は単に読みをあわせる形で、江戸時代の候文などは「闇雲」に漢字化しています。
 「馬穴」(バケツ)、「三馬」(さんま)などは夏目漱石の小説に出てくる当て字で、面白がらせるためにやっているのですが、こうした文字遊びのようなものが漢字好きの日本人にはうけるのです。

 漢字はもともとは外国語ですから、漢字の音読みを聞いても日本人には意味が分かりません。
 「咄」という文字は音読みは「トツ」ですが中国人なら「舌打ち」の意味だと思うのに、日本人は辞書を引かなければ分りません。
 中国語であっても音声が先で、文字が後からできたのですから、「トツ」と読めれば意味が分かるのです。
 日本人がこの字を見て読みが「トツ」であると分かっても意味は分からないので、文字の構成要素から推理をしてしまいます。
 そうすると口から出てくるものと考えて「はなし」と判断したのでしょう。
 口から出るのは話とは限らないので、「はなし」と決め込むのはおかしいのですが、「はなし」であってはいけない理由もないので、もとの意味にはない訳が定着してしまったのです。

 漢字には表音要素と表意要素が含まれている場合が多いのですが、中国人なら表音要素からも意味が分かるのに、日本人は分らないので、表音要素も表意要素と感じてしまいます。
 「親」という字を「木の上に立ってみる」などとして「木の上に立って子供を見守る」から親という意味なのだなどという説明までがまかり通っています。
 「嘘」、「樋」などの例も、漢字の元の意味とは違った解釈を、漢字の構成要素から日本人の感性で意訳して「うそ」とか「とい」と訓読みをしているのです。

 漢字を表意語であると考えると、どの日本語でもそれに対して漢字を当てることができます。
 この場合は、翻訳なのでひとつの単語について一通りとはかぎらないで、いくとおりもの表現が可能なのです。
 たとえば「いれずみ」は漢語では「黥」ですが日本語の「いれずみ」に対しての当て字は文身、刺青、入墨、天墨、彫物、我慢などといくつもあってそれぞれが説得力を持っているのです。
 


純粋な表意文字

2008-05-17 23:24:48 | 言葉と文字

 漢字は表意文字とか表語文字とかいわれますが、中国語の文字としては基本的には表音文字です。
 漢字が日本で使われるときは、音読みと訓読みというのがあり、訓読みというのは漢字の日本語訳です。
 日本語では表音文字としてカナが作られたため、かならずしも表意文字が絶対なければならないということではありません。
 読みにくいとか、分りにくいとかいっても、工夫をすればまがりなりにもカナ書き文で意味は通じます。

 漢字と訓読みをすべて対応させようとすると、中国にあって日本にないものは訓読みできないので、音読みのまま受け入れるしかありません。
 また日本にあって中国にないものについては、新しく漢字を作ろうとするようになります。
 馬とか梅はもともとは日本になかったので、「マ」「メイ」という音読みが変化して「むま」→「うま」「むめ」→「うめ」となり訓読みのような感じとなっています。
 「菊」のように変化しにくいものは「キク」のままですが、日本語に溶け込んでいるため、訓読みのように感じます。

 「榊」とか「峠」、「辻」などは日本で作られた漢字で音読みはなく、文字の中に表音要素がありません。
 文字を見て説明を聞けばなるほどと意味が分かりますが、「サ、カ、キ」という音声のどの要素もこの文字には反映されていません。
 「働」とか「搾」のように漢字の意味を拡張させたもの(動→働、窄→搾)はもとの漢字の音読みが残されています)は例外としてありますが、基本的には表音要素のない表意文字です。

 日本語に漢字を当てて表意文字を作ると、一字で文字を造字するよりもいくつかの漢字を組み合わせた熟語の形にしたほうが表意しやすいと考えるようになります。
 表意語ということになると表意方法は何種類も可能なので、同じ言葉について漢字表記がいくつもできるようになります。
 表意文字とか、表意語というのは極端に言えば勝手にいくらでも作れるのです。
 たとえば「ほととぎす」は漢語では「小杜鵑」ですが「不如帰」ほか何種類もの表記ほうがあります。
 「あじさい」も漢語では「洋毬花」だそうですが、日本語では「紫陽花」他何種類かの表記があり、どれも「あじさい」という音声を反映してはいません。

 なまじ音声を意識すると「あゆ」のように寿命が一年なので「年魚」といったのが「ねんぎょ」→魚偏に「ねん」→「鮎」(ネン)と表記して、本来の漢語の「鮎」(なまず)と衝突してしまったような例もあります。
 「鰒」も漢語では「あわび」のことなのですが、「フク」と音読みして「河豚(ふぐ)」のことだと思ってしまったようです。
 
 日本語で漢字にルビを振るのは読みを分らせるためですが、すべて音読みならばルビはあまり必要ありません。
 音読みは表音要素があるのである程度読み方を会得すれば、ルビなどなくても読みは可能です。
 漢字の中に訓読み用の表音要素がないからルビが必要になるのですから、もしルビを廃止しようとするならば、当て字をむやみに使うことをやめるべきなのです。
 しかし当て字を全部やめてしまうと、日本語としては味気のないものになるので兼ね合いが難しいところです。


言葉を思い出す手がかり

2008-05-13 22:40:51 | 言葉と文字

 「むやみに軽はずみな行動をすること」を四字熟語でなんと言うか思い出そうとするとき「軽」という漢字が示されると「軽挙妄動」という熟語が思い出されます。
 「不意に現れたり消えたりすること」は「神」という字が手がかりとして示されれば「神出鬼没」と答えられます。
 「軽」とか「神」という手がかりがあると、記憶の中にある「軽挙妄動」とか「神出鬼没」といった熟語が引き出されるのですが、このときてがかりとなっているのは、視覚刺激としての「軽」や「神」という文字なのか、聴覚刺激としての「けい」や「しん」という音読みなのか分りません。
 漢字の視覚的な特徴を重視する人は「軽挙妄動」や「神出鬼没」という漢字の文字列の視覚的記憶が思い出されると考えるでしょう。 

 ところが「軽」や「神」は音読みでは「けい」、「しん」なので、文字を見たとき「けい」、「しん」と音読みすれば、それにつれて「けいきょもうどう」、「しんしゅつきぼつ」という音声イメージの記憶が思い出され他とも考えられます。
 文字をあまり知らない人でも、耳からの知識で覚えているという場合もありますし、熟語の全部の漢字を覚えていなくても、読み方の記憶だけが残っているという場合もあるのです。
 従ってこういう場合は手がかりが「け」とか「し」のようにもっと短い手がかりでも思い出される可能性があります。

 言葉を思い出す場合の手がかりとして、「どんな意味か」とか、「どんな字を書くか」といった文字イメージのほかに、「××」がつくというような音声の一部を利用する場合があります。
 音声手がかりは何となく幼稚な感じがするのか、文字手がかりのほうが強調される傾向がありますが、それは学者の感覚で、一般的には音声手がかりのほうが有力です。

 漢字の読みを覚える場合、たとえば「独活」は「うど」、「梔子」は「くちなし」ですがこのまま覚えようとしても忘れるので、思い出す練習をするのですが、答えを伏せて思い出そうとするだけでは覚えにくいものです。
 このとき手がかりとしての最初の音「う」とか「く」を漢字と同時に見るようにすると思い出しやすくなります。
 手がかりとしての「う」とか「く」を見て思い出せるようになったら、手がかりなしで思い出す練習をするというふうにすると覚えやすくなります。
 英語の単語を覚えるときでも、日本語訳を伏せて思い出すというやり方の前段階として、日本語の最初の音を手がかりにして思い出すという練習をすると記憶しやすくなります。
 これは意味に対応する文字を視覚的に記憶することは難しく、対応する音声を記憶するほうが容易で、音声を引き出す手がかりを示して思い出すほうが思い出しやすいためです。


表意文字と象形性

2008-05-06 22:56:49 | 言葉と文字

 図の上の段は紀元前3000年ごろのシュメール人の絵文字で、下の段はS.ランボーがチンパンジーに覚えさせた図形言語です。
 いずれもいわゆる表意文字ですが、上の段は一種の象形文字で、下の段は象形性がない図形です。
 表意文字というのは表音文字のように言葉の音声を表わすことで言葉の意味を伝えるのではなく、じかに言葉の意味をあらわすものとされています。
 表意文字が言葉の意味を表わしているとして、文字を見た人がどういう意味か理解できなければなりません。
 文字とその意味のつながりが一番分りやすいのは、文字が表わしているものの形に似ている場合です。

 どこの文字でも最初の文字は、ものの形を象った象形文字であるのはこのためですが、象形文字には難点があります。
 言葉の表わす意味には形のないものもありますし、形があっても象った図像が誰にでも分るとは限りません。
 シュメールの大麦の絵文字にしても、これは大麦だといわれれば納得できたとしても、他の植物でもあるいは木とか草という一般的な名詞でもよさそうに見えます。
 
 表意文字の意味を特定するには、文字に名前をつけて、その名前を聞けば意味が分かるようにすればよいのですが、そのためには文字の名前を覚えてもらわなければなりません。
 文字ができる前に音声言葉があり、ものの名前は音声言葉でつけられていますから、象形文字を作っても音声言葉を使わないと意味の理解は難しいのです。
 象形性があれば文字につけられた名前、つまり文字の読み方を覚えやすいという利点があり、名前がすぐに思い出せれば意味もすぐに分るということになります。
 象形文字は分りやすいという印象がもたれるのです。

 象形文字の象形性に頼れば意味が通じるとは限らないということは、サルに言葉を教えようとして作られた図形文字を見ても分ります。
 サルは声帯の関係で人間と同じ音声言葉を使えません。
 そこで図形で表わした言葉を使うのですが、サルは象形文字を訓練なしで理解できるわけではありません。
 具体的なものと図形を結びつけて覚えさせる訓練をするのですが、図形はものの形に似ている必要はなく、簡単な形の組み合わせで視覚的に覚えやすければよいのです。
 象形性がなければサルが覚えにくいということはないのです。

 漢字は表意文字ということになっていますが、漢字の場合も象形文字はごくわずかで、しかも漢字を知らない外国人が見てもパッと見て分るというような文字はありません。
 漢字が見て直接意味が分かるというならば、漢字字典などはいらなくなるはずで、読めない字、意味の分からない字があるはずがありません。
 漢字を見て意味が分かるというのは、学習のおかげで、たいていの人はある程度の漢字を覚えるのに10年以上かかっていますし、いつまでたっても知らない漢字は無数にあります。
 覚えるとき読み方をまず覚えるのですから、音声言語抜きでは学習じたいが成り立たないのです。


漢字と空書

2008-05-05 22:57:40 | 言葉と文字

 空書というのは指で空中に文字を書く所作をすることですが、これは日本人が漢字を思い出そうとするときの所作です。
 カナやアルファベットの場合は、一つ一つの文字は漢字に比べれば単純なのと、使用頻度が高いため簡単に思い出せますから、空書をするまでもありません。
 文字の形を思い浮かべるのも、カナやアルファベットならハッキリと思い浮かべられますが、複雑な感じになるとボンヤリとしか思い浮かべられないので空書をして思い出そうとするのです。

 漢字がカナやアルファベットと異なるのは、漢字が表意文字であるという点ですが、一字が一単語で偏旁(偏、旁、冠、脚、垂、繞、構)などの部分によって構成されている点です。
 たとえば「花」という文字は「花」という単語で、英語なら「flower」、日本語の平仮名では「はな」となります。
 「はな」や「flower」のように単語を構成する部分を並べて書けば、図のように草冠と人偏、匕のようになります。
 ところが漢字は構成要素を横並びに並べるのではなく、部分を組み合わせてひとつの形にまとめ上げています。
 
 カナやアルファベットの場合も並べてひとつの単語を表しますが、漢字のような凝集性はありません。
 カナもアルファベットも単語を並べてしまうと、単語の境目がどこか分らなくなりますが、漢字の場合は境目がハッキリしています。
 そのため英語などのアルファベットの文は単語ごとの分かち書きをします。
 カナの場合は一つの音が子音+母音という音節でできているので、アルファベットよりは境目で混乱をしませんが、分かち書きをしないと極端に読みにくくなります。
 漢字カナ交じり文が分かち書きをしないですむというのは、漢字が凝集性が強くて分かち書きをする必要がないためで、漢字だけでも分かち書きはしなくてすむのです。

 漢字は部品を横に並べるのではなく、ひとつの構造にまとめ上げているので、全体の形としてはまとまりがあって印象が強くなるのですが、部品とその配置を覚えなくてはなりません。
 覚えるには目で見て記憶すればよいのですが、視覚的な記憶は細かい部分までハッキリとした状態で貯蔵するのが難しいので、書いて覚えるというのが確実な方法です。
 書いて覚えるという運動によって、運動感覚の記憶ができるのからです。
 漢字を思い出そうとして空書をするというのは、運動感覚を呼び起こして、それによって文字を思い出せるからです。

 ひらがなの場合は空書は関係ないのかというと、そうではありません。
 ひらがなも書いて覚えていますから、運動感覚としては強く記憶されています。
 そのため脳損傷の患者がカナを音読できないときでも、空書して見せると読むことができる場合があるそうですし、単に文字をなぞらせる場合よりもリズム感のある空書を見たほうが読めるそうです。
 文字を書いて覚える場合も、ナゾリ書きよりもリズム感をもって書くほうがよく、極端にいえば空書でもナゾリ書きより効果があると思われます。


空書と漢字の読み書き

2008-05-04 22:44:57 | 言葉と文字

 空書というのは空中に文字を書く所作をすることですが、文字を書くイメージをすると手が動きます。
 手を動かすから書く動作がイメージされるのか、イメージするから手が動くのか分りませんが、文字を書く運動感覚があります。
 「心」と「今」という字を見て、組み合わせてできる漢字を答えるというときは、図形として組み合わせて答えを出そうとするでしょう。
 アタマの中で今という字の下に心を持ってきた文字を思い浮かべ「念」という答えを引き出します。
 ところが「ココロとイマ、ムカシのイマ」で出来る漢字はと耳で聞いたときは、多くの人は指で文字を書くような動作をして、「念」という答えを出すそうです。

 目で見た図形要素を組み立てるときは視覚イメージの操作で答えを出そうとするのに、耳から聞いた場合は運動イメージの操作から答えを出そうとするのです。
 耳で聞いた場合に、文字を書くことができるというのは、アタマのなかに視覚イメージとして文字が浮かんで、それを手で書くというふうに考えられていましたが、そうではなさそうです。
 文字を覚えるとき何度も手で書いて覚えているため、アタマに視覚イメージを思い浮かべなくても書けるようになっているからすらすら書けるのです。
 もしいちいちアタマに文字の形を思い浮かべそのとおりに書こうとすればズット多くの時間がかかるでしょう。
 耳で言葉を聞いたときは、まず意味を理解し、その意味に対応した文字を理解して書くのですが、すばやく書けるためには理解したときに同時に手が動くように訓練する必要があります。
 ワープロの漢字変換のように文字の候補が視覚イメージとしてアタマに浮かび、それを選ぶというようなことをしていては、書き取りでさえも非能率で、普通のスピードで話される言葉の理解にはついていけません。

 「オタンジョウビのタンはゴンベンに何が来ますか」と聞かれると、多くの人は「誕」という文字のイメージを思い浮かべて答えを出す前に、指で「誕」という字を書く所作をするそうです。
 文字を思い出せないとき指を動かして空書するということがありますが、漢字をアタマの中にハッキリイメージするのは難しく、書くという運動感覚の記憶のほうが確かなためです。
 少し複雑な漢字の視覚イメージを頭の中に思い浮かべようとすると、気がつけば頭の中で書き順をたどっていますから、頭の中で一種の空書をしているのです。

 脳損傷で漢字が読めなくなっている人に、「四角の中に十の字を書いてなんと読みますか」と聞くと「田」という字を書いて読めないのが、指で「田」の字の書き順でなぞらせると読めることがあるそうです。
 また田の字を書いてみせると読めたりすることがあるそうですから、読むということでさえ、文字を視覚処理するだけのものではないことが分ります。
 文字を見て直接的に意味が分かるようになるためには、それなりの訓練をしないとできないことで、普通は音声に変換して意味を理解しているのです。


空書と視覚イメージ

2008-05-03 23:31:37 | 言葉と文字
 「ケイヤクをコウカイする」、「シサンをコウカイする」と聞いたとき、前の場合は「更改する」、あとの場合は「公開する」という意味だと分かります。
 日本語は同音異義語が多いので意味を漢字で書き分けるのですが、耳で聞いたときは同音ですが、意味はたいてい分かります。
 そこで耳で聞いたとき、頭の中で漢字を思い浮かべているから意味が分かるのだと言う説もあります。
 言葉を聞いたとき、いくつかの漢字が思い出され、そのうちのひとつが適当なものとして選ばれ、意味が分かるということなのでしょうか。
 まるでワープロで漢字変換をしているような具合ですが、いちいちこういうことをしていては非常にまだるこしく、早口でしゃべる言葉にはついていけないでしょう。
 
 普通は言葉を聞いたとき、その意味する内容が視覚イメージとして頭に浮かぶというようにいわれます。
 言葉の意味が視覚イメージになるかどうかは別として、まず意味が思い浮かべられ、必要ならその意味に応じた漢字が思い出されるというのが普通です。
 漢字の書き取りにしても、読みに対応して意味が分かり、それに対応する漢字を思い出して書くので、漢字が先に思い出されるわけではないのです。
 
 漢字がアタマに浮かぶという場合でも、漢字の形がハッキリと目に浮かぶかというと、ボンヤリとしていてあいまいなイメージで、イザ書こうとすると書けなかったりするということがあります。
 視覚イメージがハッキリしたものでなく、イメージをなぞることができないことに気がつくのです。
 こういうとき指で空書(空中に字を各動作をする)をしてみると、あいまいだった点画が思い出され文字全体が正しく再現されることがあります。
 
 漢字を覚えるとき文字を書いて覚えたため、書くという運動感覚が記憶されていて、視覚イメージよりも確実に再現されるためです。
 漢字学習では寺子屋以来の伝統で、「書く」ことが人気の高い学習法であるからです。
 視覚イメージより、運動感覚のほうが強いのは、図のような逆さ文字と反転文字を比べてみると分ります。
 逆さ文字は文字を180度回転させたものですが、アタマの中でさかさまにしたイメージを思い浮かべようとすると結構大変です。
 ところが逆さの文字を空書するのは、視覚イメージをなぞるわけではないので、それより楽にできます。
 これに対し反転文字は元の文字を左右逆転したものなので、もとの文字がイメージで切れば楽にできますが、空書をするのは難しく読み取りも逆さ文字より読み取りにくくなります。
 文字といえば視覚的に記憶されているというふうに考えがちですが、腕や手指の運動感覚としても記憶されているのです。