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60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

右脳と左脳の情報処理量

2006-12-21 23:17:13 | 言葉と文字

 いまでも左脳が処理する情報量に比べて、右脳の情報処理量は十万倍以上だということがいわれたりしています。
 これは、言葉の処理は主として左脳でおこなわれ、視覚イメージ処理が右脳で行われるという風に脳科学で説明されたことがあったためです。
 それだけでなく、コンピューターで情報処理をするとき、文字を処理する情報量より画像処理の情報量のほうがはるかに多かったので、単純な類推から右脳のほうが情報処理量が多いと思ってしまったのです。
 たとえば木の写真をコンピューターに記憶させると、カラーであるとか画像の大きさとか精度によってちがいますが、「木」とか「き」という文字に比べると数万倍から数百万倍のメモリーがいります。
 このような例を示されれば、左脳より右脳のほうが情報処理量が多いから、右脳のほうが優れた能力を持っているなどと考えたりするのです。

 しかしこれは言葉を音声とか文字と同じものだと考えてしまったために起きた誤解です。
 文字や音声は言葉を表すための手段で、符号に過ぎません。
 文字で言えば「木」とか「き」は符号であって、それ自体は木という言葉の表すものではありません。
 情報量ということでいえば「まつ」とか「すぎ」は「き」の二倍だから二倍の情報量だというのは符号だけのことで、意味とは関係がありません。
 漢字の「松」、「杉」、「枝」などは「まつ」、「すぎ」、「枝」に比べれば一文字なの符号としての情報量は二分の一ですが、「木」に関係することが表示されているので実質的な情報量はむしろ多いのです。
 文字で表せば「宇宙」も「世界」も二文字で表されてしまうということで、情報量がわずかだということになってしまいます。
 使われる符号の数でもって言葉の情報量を測るというのはナンセンスなのに、おお真面目に情報量の計算をしていたのは信じられないことです。

 画像であれば言葉を知らなくても見れば分かるということがありますが、文字や音声で表された言葉は、言葉を習得していないと理解できません。
 言葉を理解するためには脳の膨大な記憶がなければならないので、ことばを聞いたり文字を読んだりしているときの情報処理量は映像を見たときの情報処理量より少ないとは限らないのです。
 現実には文字を読むために長い年月をかけて教育を受けているのですから、イメージ処理の数十万分の一の情報処理量などという風な考え方は滑稽なのです。

 


内読と聴覚心象

2006-09-06 22:48:56 | 言葉と文字
 黙読をしているとき、多くの人は心内で音読しているような感じがします。
 唇や声帯が動いていなければ、発声はしていないのですが、読んでいる内容が音読されているように聞こえる感じがするのです。
 聴覚心象というのは、楽器の演奏とか、歌手の歌声、鳥の鳴き声など、想いだそうとすればありありと思い出せますが、自分の声で再現するわけではありません。
 あるいは俳優のセリフをその声色で思い浮かべることが出来ますが、自分で声を出さずに思い浮かべられるのですから内語発声しているわけではありません。
 
 図のような文章を黙読するとき、子供の声にして読んだり、アナウンサーの声で読んだりその他の声色で読んだ場合をイメージすることが出来ます。
 実際に発声するときは出来ないのですが、聴覚イメージでは出来るのです。
 聴覚イメージを呼び起こして読む内読は、ふつうは自分の声ともなんともいえない中立的な音声イメージで、ものを考えているときと同じ音声イメージです。
 内読は文字を聴覚イメージに変換しているので音読と同じだと思われるかもしれませんがそうではありません。
 
 第一に唇や声帯を使わないので、実際の音読よりかなり速く出来ます。
 また、文字をすべて音声イメージに変換しなくても意味が分かれば先のほうの文字に跳んで読み進むということが可能です。
 たとえば2番目の文章の場合、「ジミン**ソウサイ****アベ****アソウ****タニガキ****リッコウホ**」ととばし読みをすることができます。
 とばし読みが出来るのは、間の文字が見るだけで読めているからですが、「自民党」とか、「安倍官房長官」を文字で見るだけでも理解できるけれども、「ジミン」とか「アベ」という聴覚イメージを加えるとよりはっきり頭に刻み込めます。
 
 第二にこれらの文章はハミングしながら、あるいは特定の音声たとえば「サラサラ」といった音声を発しながら読むことが出来ます。
 音読ではこうしたことは出来ませんから、内読は心内での音読のように見えても性質が違うのです。
 文字を読むことを習うときは音読から始まるので、文字を見ただけで意味が取れるようになるにはかなりの経験が必要で、最初は音読して音声に変換しないと意味が思い浮かべられません。
 「きょうはいい天気だ」といった簡単な文章なら見るだけで理解できますが、このようなものばかりではありません。
 読むことに慣れてくれば文字を見るだけで意味が分かる部分が増えてきますが、その段階では文字を見たとき同時に聴覚イメージも呼び起こすことも出来ます。
 聴覚イメージも呼び起こしたほうが意味をより強く意識できるので場合によっては内読したほうが文章を理解しやすいのです。
 
 

自動化された読み

2006-08-23 22:57:15 | 言葉と文字

 ストループテストというのは、色のついた文字を見て、文字の色を答えるというもので、素早く答えるように要求されると、引っかかったり、うっかり文字を読んでしまったりします。
 文字の色と文字の意味とが一致すればよいのですが、一致しない場合文字の意味にひきずられてしまうためです。
 文字の色を答えるように要求されているのに、なぜ文字の意味のほうに引きずられてしまうのでしょうか。
 文字を見たとき文字の色は感じ取られているのですから、そのまま色の名前を言えば間違えることはないはずです。
 ところが文字を見たとき、文字を読める人は自動的に読みをスタートさせていて、文字の色を答える前に読みを音声化してしまうのです。
 
 もし文字の色を声を出して言うのではなく、図のように並んだ色を指差してこたえるとか、番号で答えるようにしたらどうでしょう(あるいは目でみる)。
 「ちゃ」と「あか」は紛らわしいですが、色を声に出すより間違えにくいのではないでしょうか。
 たとえば緑色で「あお」と書いてあるのを見て、青い四角を指差すのではなく緑の四角を指差すでしょう。
 最初に少し間違ったとしてもすぐになれて、瞬間的に同じ色の四角を指すことが出来るようになるはずです。
 
 理由は二通り考えられます。
 一つは文字を見ても読まないで、瞬間的に上の四角の色のほうを見るようにすれば、文字と同じ色の四角が分かるのでそれを指差せばよいからです。
 もう一つは、「あお」と心の中で文字を読んでしまっても、答えは指差すことになっているので四角を探すときに色を見比べるからです。
 文字の色を見てそれを音声に変換するのではなく、同じ色を指差すので間違えにくいということです。
 文字の色を見て音声に変換するのは、文字を読むという作業より遅いので、読みの作業結果がポロリと先に出たりするのです。

 図の下にある文字、たとえば「視」という文字を見ながら「シ」と読む文字を出来るだけ多く思い浮かべようとします。
 目を閉じてなら多く思い浮かべられるのに。文字を見ながら思い浮かべようとすると少ししか出てこないと思います。
 「視」という文字を見て、「シ」と読んでしまうので他の字を思い浮かべるのが難しくなるのです。
 「カク」と読む「覚」という字を見ながら他の「カク」という字を思い浮かべるのは、他の文字を見ながらより難しいのは、「覚」を自動的に読んでしまうからです。
  しかし、文字を見ると自動的に読んでしまうというのは、文字を読みなれた結果身についた反応で、そのこと自体はけっしてマイナスではありません。
 簡単な文字を見るごとに読むべきかどうかと判断を留保していては、文字を読む能率は極端に落ちてしまうからです。


読めれば分かるわけではない

2006-08-22 23:33:16 | 言葉と文字
 ヨーロッパのアルファベットの場合は、文字は音声を表現するためのものと考えられているので、文字を読むときは音声に変換されて意味が分かるということになっています。
 もちろん、知らない言葉であれば、音声を聞いても意味がわかるわけではありません。
 新しい言葉を覚えるときは文字だけで目で覚えるということはないということなのでしょうか。
 英語の場合などは、読み方の変則が多いので知らない言葉が出てきた場合、正規の読み方が分からない場合もあるはずです。
 文章の前後の関係で意味だけは分かるというケースもあるので、その場合は読み方が分からないが意味が分かるということになります。
 辞書でも意味が説明してあっても読み方が示されてないものもありますから、略語や新語などでは読み方が分からないが意味が分かるものがあるはずです。
 逆に読み方の規則を覚えたために、読み方はわかっても意味は分からないということもあるでしょうし、読めるために意味が分かったような気がしていることもあるでしょう。
 言葉は理論どうりにはいかないところがあるものです。
 
 日本語の漢字の場合は、音声を表現する手段と考えられていないで、意味を表していると考えられています。
 そのため、漢字は見れば意味が分かるとか、文字を見れば視覚イメージが浮かぶといった主張があったりします。
 漢字が象形文字から始まったことからそうした連想が出てくるのでしょうが、漢字を覚えるのに長い年月がかかっていることを忘れています。
 なかには音声を聞いたときに、漢字が思い浮かべられるので意味が分かるというように言う人もいます。
 たとえば「コウエンニデカケタ」と聞いて「公演に出かけた」とか「公園に出かけた」とかをそのときの状況に応じて、漢字をイメージしながら理解しているというのです。
 
 日本語の場合はカナが音声を表現すると、漢字は意味を表していて、読み方を覚えるものだと考えられ、そのように教育されてきています。
 教育の初期は音読ですから、まずともかく読めることが大事で、カナを振っても読めることが第一歩になっています。
 最初は読めれば意味の分かるような基礎的な言葉ですが、レベルが上がれば難しい言葉も出てきます。
 漢字が読めなければだいたい意味も分からないのですが、読めると意味が分かったような気になったり、分からなくても気にならなかったりする場合があります。
 見慣れたり、聞きなれたりすると、本当は意身が分からなくても気にならなくなったりしますが、振り仮名などで読めるだけというのも理解力を妨げるので問題です。
 漢字の書き誤りがよく話題になりますが、これは書き方の問題ではなく意味がわからず漢字を覚えているためではないかと思います。
 読み方だけのテストはやめて、意味とセットのテストにしなければ読解力が身につかないので無駄になってしまいます。

変形ストループテスト

2006-07-25 22:24:45 | 言葉と文字

  ストループテストというのは文字を見て、文字の色を答えるという課題で、文字の色と書かれた文字とが違うとスムーズに答えられなかったり、つい文字を読んでしまったりしてしまいます。
 上の2行でやってみると、スピーディにはできず、ちょっと引っかかるところがあるのではないでしょうか。
 これは文字を見るとすぐに読めてしまうので、無意識のうちに読んでしまっているのと、答えを言葉で要求されているためです。
 色を判断して口に出す前に文字を一目で見て読み取ってしまっているからで、幼児のようにゆっくりしか文字が読めなければ失敗しません。
 もし赤、青、黄色、緑のボタンがあって「文字と同じ色のボタンを押せ」というのであれば迷うことも間違えることもあまりないでしょう。
 
 次の4行は文字の表示を少し変え、最初の一文字だけを目立つようにしています。
 こうすると注意を最初に文字の色に向けやすいので、文字全体を見て文字を読む前に、色の名前を口に出しやすくなります。
 最初の一文字が目立つため、最初の文字と他の文字が分けられ、文字列全体が自動的に読まれるのを防ぐことができるためです。
 成人して文字を読む経験が積まれてきていると、3文字程度の文字列であれば、意識しなくても瞬間的に読み取ってしまうので、最初の一文字に注意を向けさせるのです。
 このようにしてみた経験をもとに考えれば、文字を変えなくても最初の一文字にだけ注目すればうまくいくだろうと思うでしょう。

 じじつ、最初の二行のような場合でも、文字を見るとき最初の一文字だけに注目して、色の判断をして色の名前を言うようにすればスムーズに答えられるようになります。
 文字列を見てその文字列の色を答えるように要求されたとき、どこに注意を向けたらよいか分からないので判断が遅れるという側面があるからです。
 そこで最初の一文字に注意を向けることにすれば判断しやすく、文字列を読んでしまうことを防ぐことが可能になるのです。

 このテストは、言葉で色を答えるという、言葉の作業をするとき文字を見ると引きづられるということを示したものですが、なぜか脳の活性化の訓練ということに日本では使われたりしています。
 文字を読むことが自動化されるまで身についていなければ、ストループ効果というのは起きないので、引っかからないで速く答えられる練習をしたりすることが脳にどのような効果があるかは不明です。
 しいて言えば文字の色という部分にのみ集中するという事で、集中力の訓練にはなるかもしれません。
 しかし集中力の訓練ならもっと実用的な課題がいくらでもありますから、文字を自動的に読まない訓練などやってどうするのかと疑問に思います。


日本語の助数詞は名詞

2006-06-21 22:36:00 | 言葉と文字

 上の例は飯田朝子「数え方でみがく日本語」に紹介された例です。
 ある小学校で「兎の数え方が一匹、二匹のほかにほかにあるのを何だと思うか」と先生が聞いたときの生徒の答えの例です。
 このときの答えにはほかに「ひと耳。ふた耳」という答えもあったそうですが、先生は一羽、二羽が正解と答えたところ、子供は跳ぶからハネるのだといったそうです。
 このとき先生はなんといったか知れませんが、この本の著者は説明として一理あるとしています。

 ひと耳、ふた耳という数え方は昔あったらしいので、是も正解ということになるのでしょうが、「一ふわ」とか「一ぴょんとか」いうのは、それもひとつのアイデアと無条件に評価するわけに行きません。
 モノによって数え方が違うということを、子供に感じさせるのはよいのですが、兎の一羽という数え方は無理に覚える必要はありません。
 それよりも問題なのは、日本語の助数詞は名詞の置き換えですから、形容詞とか副詞のようなものにするわけにはいきません。
 日本語の助数詞は、形としては名詞と同じなので、「ふわ」とか「ぴょん」といったものは、イメージ的にはよくても、形としては認められないのです。
 子供の発想力を大事にするといても、無原則な逸脱から引き戻さなければ、教育にはならないのです。

 日本語の助数詞の性格は、中国語の量詞と比べるとその違いが見て取れます。
 細長いものを表すのには「本、筋、条」などがありますが、日本の「筋」と中国の「条」を比べると、どちらも道とか川とかに使われるという点で似ています。
 ところが中国の場合は、蛇と運命とか、魚までは細長いモノのイメージで分かるのですが、犬となると日本人の感覚ではなかなか理解できません。
 これは犬のシッポで考えるということで、牛の場合も条で数えるということでつじつまがあっているようないないような感じです。
 犬や牛がシッポが細長いから条でかぞえるということは、量詞が形容詞的なもので、日本の助数詞のように名詞の置き換えではないからです。
 中国の場合は「三条蛇」と名詞の前に来て、形容詞のように名詞を類別するので類別詞といわれます。
 日本語の場合は「一筋川」ということはしないで、「一筋の川」と「の」を入れるか、「川、一筋」と並列し増すから、「一筋」は名詞の形になります。
 川や道は筋と言われたり、本と言われたりで厳格に川や道は筋で表さなければならないということはないのですが、助数詞が名詞であるという点は変えられないのです。
  


漢字のほうが覚えやすい

2006-05-25 23:34:42 | 言葉と文字

 漢字の大部分は形声文字と呼ばれるもので、意味を暗示する部分と発音を示す部分をあわせた合体字です。
 漢字の場合は文字であると同時に単語でもあるので、単語が何を表しているかがわからなければなりません。
 語の形と、読み方、意味を結びつけて覚えるのですが、語の数が多いので記憶に大きな負担がかかります。
 一つ一つの語が何の共通性もなく、ばらばらであればとても記憶できるものではありません。
 共通部分があれば、共通要素を統一した形で示すほうが覚えやすく、思い出しやすいので、組織的な表記法があったほうが便利です。
 形声文字は偏などによって意味の範囲を示し、旁などで読み方を示す合体字なので、ただ形と読みと意味を結び付けて覚えるより効率的なのです。

 子供に漢字を覚えさせるのに、絵カードなどを使って覚えさせる方法がありますが、子供は視覚的な記憶力がよいので、難しい字でも覚えられるとはいえ、組織だった覚え方をさせないとごちゃ混ぜの知識が詰め込まれるようになりかねません。
 子供のときは形を覚える力が強いので、難しい漢字でもそのまま覚えることができ、絵にかかれた意味と結び付けて覚えることができます。
 こういう方法だけに頼ると、ごのいみは浅いとらえかたに終わり、ほかの語との関連なしに有機性のない知識の詰め込みになりかねません。

 図の例では日本流の音読みで「カン」という読みの文字の一部です。
 この場合は「カン」と読まれる文字のうちの三ズイのものの一部です。
 「汗」という字を読み方が「カン」、形が「汗」、意味が「あせ」と覚えるよりも、左の偏が水の意味で、右の旁がカンという読み方を表すという風に覚えたほうが覚えやすく、体系的な知識となりやすいのです。

 漢字は同音異義語が多いのですが、それでも日本風の音読みに比べれば同じようでも違いがあるので、実際はもっと限定されます。
 日本読みでは同音のものが多いのですが、日本で使われるときは、単漢字が音読みで使われることは比較的少なく、多くは訓読みされます。
 日本で音読みされるときは二字熟語などが多く、二つの語の合成になるので、合成の仕方と一緒に語の意味を覚えれば記憶しやすくなります。
 英語などのアルファベット使用の語を覚える場合は、綴りと読み方、意味を覚えなければならない点では同じですが、意味を暗示する部分が少ないので、記憶に漢字以上に多く負担がかかります。
 日本語などに比べ覚えやすい文字のはずなのに、アメリカなどが日本にに比べ識字率が低いというのも実際は英語が覚えにくいということが原因だと考えられます。


漢字を思い浮かべるか

2006-05-23 23:32:28 | 言葉と文字

 図はよく書き間違えやすいとされている漢字の例です。
 書き間違えやすいというだけでなく、間違えて書かれていても気がつかない場合が多いというものです。
 漢字の間違えというものの圧倒的に多いパターンは、読み方はあっているのに意味が違う文字を代用しているというものです。
 その場合言葉の意味にすこしは対応している場合もあるのですが、不正確で、場合によってはまったく違った意味だったりします。
 日本語は同音異義の言葉が多いので、漢字を思い浮かべて言葉の意味をあてるというようなことをよく言いますが、現実はそうではないようです。
 言葉を聴いていちいち漢字を思い浮かべていては、談話のスピードについていけません。
 たいていの場合は耳で聞いてそのまま意味を理解しています。

 図の例の場合でも、「あいぼう」と聞けば意味は即わかるので、なまじ漢字ではどう書くかといわれれば、「はて、どんな字だったかな」と考えて、間違った答えを出したりするのです。
 「相棒」は当て字なのですが、駕篭かきの片割れなので、「合棒」ではおかしいのですが、言葉の由来を知らなければ正解は出ません。
 ほかの例は漢語らしさがあるので、文字と意味が対応しているのですが、意味がわかっていながらどんな漢字なのか迷ってしまう例です。
 漢字に熟達している人なら間違えたりしないのでしょうが、そういう人ならいちいち漢字を思い浮かべなくても意味がすぐに分かるのではないでしょうか。
 普通の人は音声を聞いて、意味は分かるが漢字でどう書くかは意識に上らない場合がほとんどだと思います。
 意識に上っても、なぜその字なのかというハッキリした根拠は分からない場合が結構あるはずです。
 だから、紛らわしい漢字を書いてしまったり、間違った漢字を見ても気がつかなかったりするのです。

 たとえば、「さくたく」とはどのように漢字で書くかと聞かれたらどうでしょうか。
 「さく」と「たく」という読み方に対応する漢字を頭の中で思い浮かべて組み合わせてみるのでしょうか。
 どちらも20種以上の文字がありますから、組み合わせは400以上の候補になるので、とても頭の中で思い浮かべることなどできません。
 実は「さくたく」などという言葉は辞書にもない無意味語なのですが、「あいぼう」とか「あんばい」とかいった実際にある言葉でも同じことです。
 読みに対応する漢字の組み合わせはたいてい400以上になるので、どれが該当する組み合わせかを判断するのは普通の人にはできません。
 
 文字を書けるのは音声から意味が分かるから、漢字を思い出すので、記憶がしっかりしていれば正しい字がかけるし、あやふやなら間違えることもあるのです。
 「あいぼう」と聞いたときいみがとれなくて、「あいぼうって?」と訊いた場合、「そうだんのそうに、ぼうだ」と答えたりするので、漢字を思い浮かべることで分かる言う説が出てきたのでしょう。
 「なかまのことだ」と意味で答えたほうが分かりやすいはずなのですが、相手が言葉の意味を知らないかのようなニュアンスが出てしまったりするので、漢字でどう書くかを説明してしまうのでしょうか。
 


同音異義なら漢字が必要か

2006-05-22 23:12:29 | 言葉と文字
>  図は、かなの部分を漢字に変える問題です。
>  考えないでさっと答えが浮かんだでしょうか。
>  いわゆる同音異義の問題の一種です。
>  似たような意味なので戸惑ったのではないでしょうか。
>  「梅雨が明ける」、「家を空ける」、「戸を開ける」、「コップの水を空ける」というように書き分けるという問題です。
>  
>  日本語は同音異義の単語が多いので、意味がいくつかある場合は漢字を参照して意味を理解するというようなことが言われています。
>  もしそうであるならば、たいていの人が正しい答えを瞬間的に出せたはずです。
>  「ハテ、どんな字かな」と考えているようであれば漢字を思い浮かべる必要はないのです。
>  たいていの人は該当する漢字がわからなくても文章の意味は分かったのではないでしょうか。
>  「あける」というのは、日本語で漢字に直さなくても意味が分かる言葉なので、漢字で書けといわれても一瞬固まってしまって思い出せなかったり、間違って思い出したりするのです。
>
>  漢字ではいくつかに書き分けることができるといっても、日本語ではひとつの言葉だったのですからわからなかったり、まちがったりするのも止むを得ないのです。
>  「あける」という言葉は、「ふさがっている状態から、ふさがっていない状態にする」というような意味ですが、似たような意味の言葉を新たに作る代わりに同じ言葉で意味の転用をしているのです。
>  つまり比喩的な言葉の使い方をしているので、無理に漢字を当てはめなくても本来はよいのです。
>  日本人であれば「梅雨があけた」といえば「梅雨が終わった」と解釈しますし、「家をあけた」といえば「留守にした」と解釈し、「戸をあける」と聞けば「戸を開く」と解釈します。
>
>  少しでも意味が違えば言葉を変えなくてはいけないということになると、それこそたくさんの言葉が必要ということになってしまうので大変非能率的です。
>  「こ(越)える」という空間での動作的な意味を時間や抽象的な関係にも転用して別の言葉を作らないで済ますのがその例です。
>  Bの「うつす」という場合もそうで「あるところから別のところへ動かす」というような意味が元の意味でそこからの比喩でにおいをうつしたり、形をうつしたりといった場合にも転用したのでしょう。
>  この場合も漢字に書いてみなくても意味が理解できるだけでなく、漢字でどう書くかといわれてもすぐ正しい答えが出なかったりするのです。
>
>  漢字のほうが語彙が豊富なので細かく分けた表現ができる、ということで意味に応じて漢字を割り当てるという考えもありますが、漢字は漢字なりの意味があるので意味のずれはあります。
>  日本語を漢字に直したものついては、同音異義語だからといって強いて漢字に書き直す必要はないとおもいます。

漢字の分解

2006-05-22 00:01:43 | 言葉と文字

 単語を文字で表そうとする場合、単語ごとに文字を当てていくと、限りなく多くの文字が必要になってしまいます。
 文字が生まれたときはどの文字でも、象形文字のように絵文字に近いものから始まったのでしょうが、限られた文字数で音声を表現する方式を取り入れています。
 日本語のように音声が比較的単純であればカナで一音節に一文字を対応させればすみます。
 たとえば「う」+「ま」とすれば「うま」となり、「うま」は「う」+「ま」とすることができます。
 カナが読み書きできれば、「う」と「ま」を書くことで「うま」と書くことができ、「うま」と書いてある字を見れば「う」と「ま」で「うま」と読むことができます。
 「馬」という字であれば、ここでは「う」という音を示す要素はないので文字ごとの読み方、書き方を覚えなくてはなりません。
 カナのような表音文字であれば図のBのように単語を音声に分解したり、逆に音声から単語を構成することができます。
 
 漢字のような表意要素を持った文字の場合は、単語を音声に還元する仕組みは不完全で、音声の分節が不完全です。
 アルファベットを使った言語の場合は文字が音声を表現しているので、規則を覚えれば26という少ない文字で多くの単語を表現できます。
 このためヨーロッパ人は漢字を使っている言語より、アルファベットを使っている言語のほうがより進化しているというようなことを言っています。
 しかし、アルファベットを使った場合でも、たとえ読み方が分かったところで、意味が分かるというわけではなく、音声で聞いて意味が分からなければそれまでです。
 アルファベットが音声を表示できるというだけでほかの文字に比べて優れているといっても、アルファベットは2進法の数字に置き換えられるので、それだけでは優位の根拠にはなりません。
 
 漢字の場合は形成文字が80%ぐらいで大部分を占め、この場合は意味の部分と音声を表す部分で構成されています。
 意味の部分といっても意味の範囲という程度で意味を特定できるということではありません。
 たとえば灯という字は火に関係する単語だというところまでの意味をしまえしていますから、いわば文字の意味のヒントが与えられているということです。
 丁の部分が音声の部分を表しているのですが、汀の場合と発音は似ていても違うのです。
 形成文字の場合は音声を示す部分が同じであれば、発音になっているかといえば必ずしもそうとはいえないのです。
 つまり音声を示す部分も音声を示しているというより、読み方のヒントを示しているのです。
 そうすると形成文字は、読み方と、意味の二つのヒントで単語を特定しているということになります。

 日本で漢字を使う場合は、読み方が中国の発音どおりでなく、日本式の発音になると似たものがすべて同じになってしまうということがおきます。
 たとえば日本式の音読みで「えい」と読む字は栄、英、嬰、衛、営、永などがありますが中国読みでは同じではありません。
 日本式の読み方では同音異義がずっと多くなるので、音声を聞いて意味の見当をつけるのが難しくなるので、文字の意味の部分を参照に頼ることになるのです。
 ところが意味の部分というのは意味の範囲ということなので、文字の意味は別途に学習しなければならないのです。