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60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

当て字と当て読み

2006-05-20 23:36:19 | 言葉と文字

 漢字がどのようにして成立したかを説明するものとして、仮借、転注という理論があります。
 仮借はいわゆる当て字で、発音が同じ単語に別の文字を代用させるものです。
 征はもとは正という字を流用していたのを、正を正しいという意味に特化した結果、別に征という字を作ったということです。
 もともと正には攻撃、強制という意味があったので、征服の意味の征に流用されたわけで、力は正義だという感覚が大昔からあったことが推測できます。
 女を「なんじ」という意味の言葉「ジョ」と発音が同じだったのでこれを流用。汝という字が作られても女で代用している場合があります。
 然も燃えるという意味で使われていて、燃という字ができても然が「燃える」という意味で使われていたりします。

 このような紛らわしいことがあるのは、漢字が特定の人たちによって一気に作られたのではなく、自然に作られてきたことをうかがわせます。
 漢字には合理的な構造がありそうで、矛盾する面がついて回っているのです。
 
 転注というのは共通の意味を持つ単語が同じ文字の中に同居する場合のことで、同じ文字ながら発音の仕方が違うものです(発音が同じならそれは単なる多義語ということになります)。
 悪は「醜い」という意味が共通で「アク(わるい)」という語と「オ(にくむ)
」という語をを同居させています。
 楽は「楽しませる」という意味を音楽の「ガク」、享楽の「ラク」が共有しています。
 ほかに好という字は「好む」と「よい」が同居しているのですが、日本風の音では「コウ」で同じですが、中国語では発音が二通りで別だそうです。

 cは千野栄一「注文の多い言語学」に載っていた表記法で、「限りなく透明に近いブルー」のブルーを転注文字にしたものです。
 青とブルーは「青い」という意味を共有しているので、ブルーの変わりに「青」という字を使っているのですが、単に青と書いては「ブルー」という読み方をさせることができず、「ブルー」の別の意味を受け取ってもらえません。
 そこで紛らわしさを除くためEという字を前につけて (英語で読んでほしいというつもりでEを青の前にくっつけているというのです。
 面白いアイデアですが、これからどのような議論が発展させられるか今のところは思いつきません。
 


むずかしい多義語

2006-05-01 23:43:59 | 言葉と文字

 日本語は、同音多義語が多いので、漢字をあてがって意味の違いを示すといわれていますが、漢字で表しきれない場合もあります。
  たとえば「こ****」というような言葉の「こ」を「小」と漢字で表記する場合。「小」という漢字の意味にひきづられると、かえって意味が分からなくなったり、誤解したりします。
 夕焼け小焼けという言葉は誰でも頭に入っていますが、意味が分からない人がほとんどでしょう。
 小さくあるいは少し焼けているというふうに思っている人もいるかもしれませんが、この場合の「こ」は調子を整えているだけで意味はないそうです。
 「こにくらしい」といっても少し憎らしいのではなく、憎らしくて腹が立っています。
 「こぎれいと」か「こざっぱり」にしても、少しということでなく、きちっとしているといったニュアンスです。
 「こざかしい」というのも少し賢いということではなく、マイナスの賢さの意味です。
 小耳に挟むというのは聞こうとしたわけでなく耳に入ったということで、小さな耳とか、少しの言葉とかいうことではありません。
 「こせがれ」といえば、小さなせがれという場合もありますが、「こわっぱ」と同じようにののしり言葉でもあります。
 「小手調べ」は「こて」調べで「小手」はひじからさきの手のことで、小さな手ではありません。

 これらの例は「こ」に「小」という漢字をあててしまったため、かえって分かりにくくなってしまった例です。
 「小躍り」は「雀躍り」と書く場合があり、この方が意味的にはあっているようですが、ほかの場合も全部別の漢字を当てようとしても、ぴたっとくるものがないので「小」で間に合わせているのでしょう。

 多義語というのは日本語だけではなく、漢字にもあります。
 たとえば「子」という漢字は、子供の意味だけでなく、いくつもの意味に使われています。
 孔子や孟子の「子」は先生、「君子、夫子」の場合は男子の敬称です。
 編集者が編集子などと自分をさして言うのは、読書子などというときと同じで「する人」で、遊子は遊ぶ子供ではなく旅をする人です。
 種子の子は種ですが、桃子は桃の実です。
 帽子の「子」は接尾辞で道具などにつけるだけで特に意味があるわけではないそうです。
 椅子、碍子、扇子など子供の意味を探ろうとすると分からなくなります。

 漢字は日本語に比べれば多義語でないものが多いとはいっても、やはり多義語はあるのですから、漢字の意味に迷うということはあります。
 漢字を見れば意味が分かるといっても、かなり学習をしない限り分かるはずはありません。
 たいていの人は意味が分からないまま漢字を読んでいることがあって、そのことに気がつかないでいるのです。
 文字の意味が分からなくても、単語の意味がおおよそ分かれば、そのまま読み書きしているのが普通ではないでしょうか。


視読

2006-04-26 22:32:41 | 言葉と文字

 アメリカでの速読の始まりは、警官に自動車のナンバーを瞬間的に記憶させる訓練から始まっているそうです。
 日本ならナンバーを記憶するのに数字を呼んでも間に合いそうな感じがします。
 たとえば3587といった4桁ぐらいの数字なら「さんごはちなな」という7音節程度ですから1秒以内で音読できます。
 頭の中での黙読なら十分秒以内で読めます。
 それだけでなく、ひとかたまりの言葉のように音読できるので早く読めるだけでなく記憶しやすくなります。
 英語の場合はthree five eight sevenと音読するのはやや長くなります。
 パッと見て音読して記憶するのは少し難しい感じです。
 そこで音読して記憶するのではなく、視覚的に記憶する訓練をしたのではないかと思われます。

 英語といえば音声をそのままアルファベットで表記しているので、文字を見れば音読して意味を理解するものと思われがちですが、そうとは限りません。
 英語の単語表記は凝集性が強く、単に文字を等間隔に並べたものではありません。
 文字の並びがひと目で単語を認識できる形になっているので、訓練をすれば音読をしなくても見ただけで意味を理解できるようになっています。
 学校で単語の読み書きを覚えるときはつづりの一つ一つの文字を確認しながら覚えたのでしょうが、単語が記憶されアタマの中に入ってしまえば、つづりの全体を見て単語を認識できるようになります。

 単語を見て音読しなくても意味が分かるということは、なにも漢字だけの特徴ではありません。
 チンパンジーが習った図形文字も、チンパンジーは見るだけで意味を理解するのですが、チンパンジーは音声を発することが出来ないので、見るだけで理解するしかないのです。
 したがって見るだけで理解できるということは、それだけでは特別なことではなく、望ましいかどうかも分からないのです。
 英語の場合でも、音読の習慣のついている人はツイ音読してしまうので、眼で見るだけで理解をしようとするならそのための訓練が必要となります。
 
 音読をしようとすると、眼で見て理解する視読に比べればずっとスピードが落ちます。
 そこで速読法では音読のクセを抑制し、視読をさせるのですが、速読をしなくても視読をするメリットは別にあります。
 単語や文字を凝視しなくてすむので、眼が疲れないことと、文章のつながりがつかみやすいので、理解しやすくなります。
 日本語の場合は、漢字は見れば分かるという説がありますが、漢字の種類が多いし、一語一義ではないので簡単ではありません。、
 読み方も複雑なので、まずは読めることというので音読のクセがついています。
 音読のクセをとるのは日本語のほうが楽そうですが、案外そうではありません。 やはり練習によってクセをとる必要があるのです。


漢字の間違い

2006-04-24 22:58:24 | 言葉と文字

 漢字の読みまちがいというのは昔からあって、なかには多くの人が々間違いをするため慣用読みとなって認められているものもあります。
 早急とか直截などは(そうきゅう)や(ちょくさい)が慣用化しているため、本来の読み方ではないといわれてもわからない人もいます。
 思惑などは(しわく)と読んでも間違いではないのですが、この場合は仏教用語で意味が違うので意味を知って(しわく)と読んでいる人は少ないでしょう。

 読み方が違っても意味が分かっているのだから、「日本人は漢字で意味をとらえている」「視角を重視していて、音声に敏感でない」というふうに解釈する人がいます。
 漢字は表意文字だから音声よりも意味を伝えるとか、日本語は同音異義の単語が多いので、漢字でどのように書くかを思い浮かべて意味を解釈するという説を信じているのでしょう。
 
しかし読み方を間違えているからといって、漢字の意味が分かっているとは限りません。
 漢字は日本人が読むときは、音読みと訓読みがあり、それぞれについても一通りとは限らないので正しいとされる読み方が出来るためには、単語ごとに読み方を覚えなければなりません。
 知らない単語を見たとき正しい読み方を調べればよいのですが、単語を構成する一つ一つの漢字について何らかの読み方が出来ればその読み方で済ましてしまうようになりがちです。
 相殺という文字を見れば、殺は自殺などのときは(さつ)と読んでいるので(そうさい)と読むといった具合です。
 「そうさつ」と読んで意味が分かっているのかというとそうとは限りません。
 殺は「殺す」という意味ではなく「そぐ」という意味です。
 読み方は「そうさつ」でもかまわないのですが、日本に「相殺」という言葉が伝わった時代は「そうさい」と読んだからこれが本来の読み方だとされているのです。

 日本人がもし漢字によって意味をとらえているのであれば、漢字の使用間違いというのは少ないはずで、誤字を見過ごすことも少ないはずです。
 実際は漢字の使い方の間違いは際限なくあり、間違った文字に気がつかないまま読んでしまっていることはよくあります。
 耳で聞いて覚えた言葉をいざ書くという段になると、どのような漢字を使うべきか分からなかったり、人が書いたものが間違っていても、間違いが分からなかったりします。
 「キョウミシンシン」といった言葉は漢字によって意味が分かるのかといえば、多くの人は耳で覚えた言葉で、「津々」の意味が分からないで使っている人のほうが多いのです。

 言葉の意味というのは周りの人が使っているのを聞いて悟る場合が多く、必ずしも辞書などにある説明を見て覚えるものではありません。
 日常会話の用語などは周囲の人と一体感を持つことによって感覚的に覚えるもので、「~とは~のことである」といった説明とか定義を辞書などで調べて覚えるものではありません。
 難しい単語でも振り仮名がついていると読むことは出来るので、意味が本当は分からなくても分かったような気がして、辞書に当たらずにすごしてしまいがちになります。
 つまり漢字を見れば意味が分かると思いすぎることが、漢字誤用の原因なのかもしれないのです。


瞬間的記憶

2006-04-22 23:31:20 | 言葉と文字

 図はアメリカの心理学者がねずみを使った記憶学習の実験です。
 まずネズミに匂いAをかがせたあと、匂いBと匂いYをかがせ、Bを選べば報酬を与えるというやり方で、匂いAと匂いBとを関連付ける訓練をします。
 つぎににおいBをかがせたあと、匂いCと匂いZをかがせ、Cを選べば報酬を与えるというやり方で匂いBと匂いCを関連付ける訓練をします。
 そうすると匂いAをかがせたあと、匂いCと匂いZをかがせれば、ネズミは匂いAを選ぶようになります。
 ねずみは訓練をしなくてもZでなくCを選ぶようになるようになるということで、A→BでB→CならばA→Cという推論をネズミもしているというわけです。
 
 A→BでB→Cという関係を学習すればネズミでもA→Cという関係を覚えるということです。
 そうすると人間に文字(A)に対し音声(B)をおぼえさせ、つぎに音声(B)に対し意味(C)を覚えさせれば、訓練をしなくても文字を見れば意味が分かるということになります。
 ところが言葉の覚え方というのは普通このような順序ではありませんから、文字を見れば、音声化しなくても意味が分かるというわけにはいきません。
 
 普通は意味→音声、文字→音声という覚え方になっているので、文字→意味は別に訓練しないと自動的には身につかないのです。
 もし一つの言葉について意味も文字も一通りしかなければ文字と意味がすぐ結びつくのですが、意味がいくつもある上に、日本語では文字の表記法もいくつもあるため文字を見ればそのまま意味が理解できるというわけに行きません。
 音声に変換しないで文字を見るだけで意味を理解するのはなかなか困難で、ある程度の訓練が必要となっています。

 文字を見て意味がすぐに頭に入らないようだとどうしても、文字をじっと見てしまいます。
 文字をジット見つめるようなやり方で本を読むと、老眼の場合は毛様体筋の緊張を強いることになり、とても眼が疲れます。
 速く文字の意味が頭に入れば、ジット文字を見つめる必要がなくなるので、楽に本を読むことが出来るようになります。
 それでは、す速く文字の意味を理解するにはどうしたらよいでしょうか。
 一つの方法は、瞬間的に単語を記憶することです。
 単語の意味が分からないと瞬間的に記憶することは難しいので、瞬間的な記憶をしようと努力することで理解速度が速まるのからです。


目で読む

2006-04-20 23:11:37 | 言葉と文字

 アメリカの速読法の中には単語を崩して読ませるというテクニックがあります。
 readingをraeding,guessingをguessisng,wordをwrodといった具合に単語を崩して読ませるのです。
 なぜこんなことをするかというと、声を出さずに文字を見るだけで意味を理解させようとするのです。
  実際にこのような文章を読む場合、単語を文字のつづりに忠実に読むのではなく、文字の塊として眼でとらえて意味をとらえるクセがついていくのかもしれません。

 しかし人によってはこんなふうになっていても、気がつかないうちにgeussとなっているのにguess,neamingとなっているのにmeaningと本来のつづりで読んでしまうかもしれません。
 またこんなことをすればつづりを間違えて覚えるのではないかと心配する人もいるかもしれません。
 早く読めるようになっても単語の綴りが不正確になるのでは好ましくないと思う人もいるのです。

 実際に本を読むときには、このような崩れた単語が出てくるわけではなく、正しいつづりの単語を読むことになるわけですから、誤った綴りが頭にしみこんでしまうということはないでしょう。 
 ただ単語のつづりにこだわらず、文字を瞬間的に見て意味を把握するクセをつけるわけですから、単語を正確に書くということがなおざりにされるのですから、教育的な見地からは望ましくないと攻撃されることになります。

 日本語の場合でも、「てにおは」が間違っている文章を見ても、スピードを上げて読むときは間違いを無意識のうちに修正して読んでいます。
 書かれているとおりに正確に読むならば当然間違いに気がつくのですが、大雑把に読むときには細かい間違いには気がつかないのです。
 不正確な文字とか単語でも読んで理解してしまうというのは、ある程度読むことに熟達していなければ出来ません。
 子供のようにまだ読むことに熟達していない段階では、間違った文字に躓いてしまえばそこで動けなくなってしまいます。
 ちょうどコンピューターのようなもので、間違いのある文章は理解できなくなってしまうのです。

 コンピューターは間違いが合ったり、規則と違ったものがあれば理解不能となってしまうのですが、人間の場合は大まかに意味を把握することが出来ます。
 このような、間違いのある文章を読んで意味をすばやく掴み取るという訓練は、日本ではないようですが、工夫次第では有効な方法かもしれません。
 昔は検閲というのがあって、伏字になった部分を推測しながら読むということがあったので、似たようなものだと思えばいいのかもしれません。
 いわゆる飛ばし読みというのではなく、欠けていたり誤っている部分を補って意味をつかむ能力を作るのに役立つ可能性があるからです。


速読の基礎

2006-04-19 23:25:55 | 言葉と文字

 アメリカにも速読法というのがあります。
 元来は警察官が交通違反を取り締まるに際し、車のナンバーを瞬間的に記憶する訓練をしたことがもとになっているそうです。
 ポイントは一つ一つの文字を順に読み取るのではなく、文字列を丸ごと読み取ることと、声に出さずに視覚的に読み取ることとなっています。
 瞬間的に読み取るためには、一つ一つ読んでいては間に合いませんし、音声化しても間に合いません。
 見た像をそのまま視覚的に記憶できればいいのですが、ただ視覚的に覚えても忘れては意味がありませんから、意味処理をして覚えるわけです。
 
 日本で予想するのと違って、アメリカでも速読をしようとするならば、口を動かしての音読はもちろん、心の中での音読も克服の対象となっています。
 漢字は見るだけで意味が分かるから、右脳で処理しているというように言われたりしますが、英語でも単語を見るだけで分かるようになることを速読法は要求しているのです。
 (実際にアメリカ人でもよく使う単語は見るだけで意味が理解できるそうです。)
 
 普通言葉を覚える場合、実物について音声で単語を覚えます。
 そうすると音声で単語を聞けば実物をイメージできるようになります。
 単語の文字を覚えるときは、音声について文字を示されて覚えます。
 その結果、文字を示されればその読み方つまり音声イメージされ、それにつれて意味が理解されます。
 心理学の研究では実物(意味)→音声、音声→文字という訓練が行われれば、訓練をしなくても文字→実物(意味)が成立するとしています(右図)。
 意味→音声が成立すれば音声→意味が成立し、音声→文字が成立すれば文字→音声が斉一するするだけでなく、文字→意味、意味→文字が訓練しなくても成立するというのです。
 
 もしそうであるならば、文字を見て音読せずに意味を理解する練習はいらないということになります。
 実際はそうはいかないということは、ほとんどの人が文字を見れば音読をするか、声に出さなくても心の中で音読して意味を理解しています。
 漢字は文字を見れば理解が出来ると主張する日本人でも、ほとんどの人は文字を見るだけでは理解できず、音読あるいは心読をしています。

 おそらく心理学の実験では鉛筆のように単純な単語(あまりいろんな意味を持たない)で訓練をしたのでこのような結論が得られたのでしょう。
 単語の意味を示せば対応する音声が出てくるというのは、単語の意味と音声が一対一に対応している場合のことで、日常の言語では一つの意味にいくつかの単語が対応しているので反射的に言葉が出てくるとは限りません。
 文字の読み方については、訓練を受けて反射的に読めるようになるので、文字を見て意味が分かる前に反射的に読みに行くようになっているのです。
 したがって文字を見て音読をせず意味を理解しようとするならば、反射的に音読するクセをとるか、文字を見て意味を直接把握する訓練をあらためてする必要があります。

 文字を一つ一つ見ないで、単語を一まとまりの物として見たり、瞬間的に認識する訓練というのは、音読を防ぐ訓練になるので、文字を見るだけで意味を理解する訓練の基礎となります。
 文字を読むときはある程度のスピードで読むほうが、文字を凝視することが少なくなるので、目が疲れにくいので速読の基礎的な読み方は有益ではあります。


方言に振り漢字

2006-04-18 23:02:00 | 言葉と文字

 日本に方言があるように当然英語にも方言とかなまりがあります。
 図は「アメリカの文学方言辞典」に載っていたものの一部です。
 英語の場合はスペリングと読み方は一致しなければならないので、方言やなまりは発音に近い形で表記しなければなりません。
 しかし方言なまりは発音があっても、このように綴るのだという正式のスペリングがあるわけではないでしょうから、あくまでも慣用となるでしょう。
 それにしてもこのままの形で文章に出てくれば、普通の辞書には載っていないのですから、学校で習った英語しか知らなければ意味が分かりません。

 日本語であれば、漢字を当ててルビの形で発音を表記すれば、発音と意味を同時に示すことが出来るので、読む側は何とか理解できます。
 ルビというのは戦後廃止の方向に向かったのですが、これはルビをつけなければ読めないような難しい漢字は廃止すべきだという考え方によります。
 しかし、ルビの用途を難しい漢字の読み仮名を示すのではなく、振り漢字をつけた音声表現として利用すると、とても便利なものとなるのです。
 方言に振り漢字をするのは、結構難しいのですが、日本人はなんでも強引に漢字を当ててきた歴史があるので、案外うまくいくかもしれません。
 英語の場合はルビのようなものはありませんから、こういう芸当は出来ません。
 英語では方言なまりを文章の中に盛り込もうとすると、読者の側はとても理解しにくくなります。
 方言以外でも外国語などが入ってくると、外国語を知らない人は困るわけです。
 かつては、ルビのようなものは、日本語の欠点を示しているとされていたものなのですが、使い方では案外便利で、むしろ長所になっているともいえます。

 方言やなまりを考えた場合は、文字表記をどうするかということが問題となります。
 文字表記といえば、当然書き言葉のようにかんだえられ、標準語のようなものとの組み合わせしか考えられてこなかったのですが、これは片手落ちです。
 学者が文字のことを視角言語などといってしまうときは、方言などは意識にないのです。
 同音異義の言葉が多いので、漢字を思い浮かべることで意味が分かるなどという言い方も、方言なまりを念頭においていない言い方です。
 カタカナ語なども無理に漢語に置き換えるとなじめない場合がありますが、振り漢字にすればカタカナ語のほうの感覚と、意味とを両立させることが出来ます。
 意味の漢語が多少ぎこちなくて、こなれていなくても、振り漢字であれば我慢が出来るので無理訳でも存在価値が出てきます。

 


視角言語

2006-04-12 23:21:00 | 言葉と文字

 Aはアメリカの運輸省で使用しているピクトグラムですが、日本でも同じものを使っている所が多いものです。
 こういう例を見ると、言葉が違っていても絵文字なら世界中どこでも通じるような気がするでしょう。
  これは現代の欧米化した文明圏で暮らしているからわかるのであってどの時代、どの民族にも通じるものではないのですが、世界中に理解されるピクトグラムが出来ると言う信念を持つ人々はいます。
 言葉の壁を絵文字なら乗り越えられるはずだと考えるのでしょうが、言語の代わりというわけにはなかなかいきません。

 Bはブリスという人が考案した絵文字の一部です。
 漢字のように基本的な言葉を象形文字風に示し、それらを組み合わせて新しい内容を作るというようなシステムを作っています。
 たとえば男女を並べてカップルとするとか、数字の2を添えて複数を表し、息子が複数なら兄弟、娘が複数なら姉妹となっています。
 数が重なるのを×で表し人が集まってgroup.沢山集まってnation(国家)といった具合に作るわけです。
 
 この絵文字はピクトグラムよりズット簡略化しているのは、筆記が簡単に出来ることを目指したからでしょうが、漢字が抽象化されていたように直観的な分かりやすさは失われています。
 文字の種類が少なければ覚えやすいような感じがしても、増えてくれば紛らわしくなってきてしまいます。
 単語をアルファベットでなく、意味を感じさせる記号で表そうというのですが、形で意味を示すことが出来る単語は限られているため、結局漢字やエジプト文字と同じように分かりにくくなってしまいます。

 絵文字は音声との関係を持たないで理解できる、という前提で作られるのでしょうが、そうなると見た人が理解できなかったりすると、それを救う手立てがなくなってしまいます。
 視角言語といっても手話のように直接相対してのコミュニケーションと違って、絵文字の場合は相手が誤解したり理解できなければそれまでです。
 もともと説明抜きに誰でも分かるという前提なので、分からないというのは想定外なのです。
 
 効率的に表現しようとすれば、記号を簡略化抽象化せざるをえず、また複雑な内容を伝えようとすれば、表現が複雑化せざるをえないというふうになってくると結局既成の文字と変わらなくなってしまいます。
 既成の文字のように、音声言語の裏打ちがない分不安定なものになってしまいます。
 ピクトグラムが分かりやすいといっても、限定された分野でのことで、言葉に代えて絵文字のようなものを作るというのは無理なのです。


視覚的なコミュニケーション

2006-04-11 22:55:22 | 言葉と文字

 ピクトグラムは見て直感的に理解できるので、言葉の違いを乗り越えて理解しあえるとされています。
 視覚的なコミュニケーションの手段として、期待されているのですが、言語に代わることが出来るというわけではありません。
 音声言語を使わなくても見れば意味がパッと分かるので、言葉の通じない人間同士でも意思を伝えることが出来るというのですが、本当にそうなのでしょうか。
 上の図は日本の安全標識の例で、下はECの安全標識の例です。
 ECの場合は丸に斜めの線は禁止を表していますが、これは否定を表すNをデザインしたものだそうで、斜めの線が左上から右下に向かっているのはNのためです。
 日本ではNで禁止を表現するという感覚がなかったので、右上から左下へ切る感覚で否定を表現しています。
 つまり、直観に訴えるといっても共通の文化的な基礎がないと意味が通じるとは限らないのです。
 
 立ち入り禁止のサインの人の形でも日欧共に男子になっていますが、人間を男性で代表させるのはヨーロッパの習慣で、本来日本のものではありません。
 英語などでは人間をmanと男で代表させる表現になりますが、日本語では人は男という形で表現はしないのです。
 ヨーロッパでは人を視覚的に表現すれば男になりますが、日本ではそういう感覚ではなので、男性のマークに禁止のマークを重ねれば、男性の出入り禁止の意味になりかねません。

 禁煙にしても、シガレットがタバコを代表するのは、現代の欧米中心の風俗で、いつの時代でも、どの文化でも共通というわけではありません。
 注意記号についてはECの場合は三角が注意を表し、「!」は強調を示してい手、特に危険という意味はありません。
 日本の「!」が危険となっているのは、ECの三角に意味を見ないで、単なるフレームと思って、「!」が意味の本体と思ってしまったからかもしれません。
 要するに、直観的な理解は必ずしも共通の理解にはなっていないのです。
 絵だから言葉の説明抜きで理解しあえると思い込んでしまうと、誤解があるということに気づかなくなってしまうのです。

 言葉が分からなくても理解できるということであれば、チンパンジーでも説明抜きで理解できてもよさそうなものですが、そうした例は聞きません。
 チンパンジーに言葉を教える場合に、絵文字のようなものを使いますが、チンパンジーはどんな絵文字にせよ、見たら直ちに意味を理解するということはありません。
 少しの単語でも大変な忍耐を持って(人もチンパンジーも)長い時間をかけて繰り返し訓練してやっと覚えているのです。

 現在開発されているピクトグラムはほとんどが、現代の欧米の産業社会の文化を基礎としたもので、直観的に理解できるというのは、欧米風の生活に慣れ親しんでいる人の場合なのです。
 ピクトグラムを普及させて、言葉の壁を乗り越えて世界中のコミュニケーションを可能にしようというのは、理想的に聞こえますが、英語を共通語にしようという主張に似て、いわゆるグローバリゼーション推進の後押しになりかねません。
 ピクトグラムでは言語のような複雑な情報伝達は出来ないので、限られた範囲のコミュニケーション手段だと割り切ればよいのですが、それでも欧米風に偏りすぎるということには注意するべきです。