人はオノレが一番だと思っている。だから差別を産んでしまう。これって体験上実によくわかることだ。九十九里浜に住み着いて数十年たつのにいまだにボキは差別されているしなぁ。体験上。どこの馬の骨だかわからねぇだろうと正面切って言われたこともあるしねぇ。ちゅ~~~がっこのせんこーの時に。要するに血筋がよくねぇだろうというわけだ。せせら笑ってしまう。そんなに自慢できるほどいい血筋の尊いお方なんかいないだろうというのは、ボキの方が先刻ご承知だからだ。
コロナで罹った人を差別するというのもこれだ。俺だけは別、俺だけは偉いんだという無意識の世界だからだ。
唯識という仏教学派では、見た目の価値判断と本質を区別する。これを知ったときに、ボキの長い長い能楽源流を求めての放浪がはじまったのだ。それで、迷い迷って某大学大学院博士課程に入学しちまう。そして能力がないから中退。病気にもなっちまったしねぇ。
一時はいじけたが、ようやくリハビリも終えた。で、今また一度修士課程を出た大学の修士課程で再入学して学んでいる。専攻は別だけど。他にやることもないから、ちょうどよい。
要するに暇なんだけど、それはそれでよし。
やることがあるからだ。
レポート書きだ。
だからと言って、そんなもんクソの役にもたっていない。それはそれでよし。役に立つために、あるいは資格をとるためにやっているのではないからだ。自己満足である。自分さえ納得していればいいだけ。
結局、他人のことに興味がない。誰が何をしていようと関心がない。結局、生まれて・稼いで・クソして死ぬだけだからだ。
なんにもあせることはない。
差別されたって、そんなのボキには関係ねぇである。
もともとそういう運命のもとに生まれてしまったのだなぁと思う。
激怒もしない、穏やかに生きていきたい。
ボキには関係のない世界だからだ。
わははっははっはははっははっはっはははっはははっははは